goo blog サービス終了のお知らせ 

ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産論(連載第36回)

2019-05-13 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(3)大学は廃止・転換される

◇知識階級制の牙城・大学
 各国で高等教育体系の頂点に立つ大学こそ、知識資本制の土台の上にそびえる知識階級制の牙城である。資本主義の下で大学が知識階級制の牙城となっているのは今日、大卒学歴は資本主義社会が提供する収入の高い職種のほとんどすべてで事実上要求されているからである。
 資本企業の経営者層も今日では創業家の世襲よりは経営幹部候補の上級労働者層―言わば資本企業版ノーメンクラツーラ(幹部候補者名簿)―の中から抜擢されるようになっているが、この上級労働者の認証資格も大卒またはその上位の大学院修了とされていることがほとんどである。
 そのうえに、大学間に序列のある諸国ではより序列の高い大学の卒業証書を獲得することが優良資本企業幹部への道を保証するため、子どもの時分から「一流大学」をめざす競争に親子ともども狂奔することになる。
 現在、こうした大学というゴールへ向けての記憶力‐反応性教育のシステムが最も発達しているのは、大学制度本家の西欧以上に、西欧から大学制度を移入したアジア諸国である。
 そこでは記憶力‐反応性をテストするための試験制度が幅を利かせているが、その頂点に大学入試がある。大学入試を突破することこそがまずは人生前半の大目標となり、それが達成されなければ、よほどの幸運に恵まれない限り、生涯一般労働者で終わることを覚悟しなければならない。そして、家庭の教育投資力が十分でない一般労働者階級の子弟はそうした覚悟を人生の早い段階で決めざるを得ない。
 もっとも、世界にはさほど明瞭に学歴に基づく知識階級制が固着していない国もあるだろう。しかし、大学が知識階級制の牙城である限り、それは本質的な差異ではない。そういうわけで、共産主義的教育革命では大学が第一の標的となる。すなわち共産主義は大学制度を廃止する。

◇学術研究センター化
 大学制度廃止などと宣言すれば、やはり知識人抹殺をたくらむクメール・ルージュの再来かと警戒されるかもしれない。しかし決してそうではない。大学を廃止するといっても大学教授たちを収容所送りにするわけではなく、大学を研究機関の集合体としての「学術研究センター」(以下、単に「研究センター」という)に転換するだけである。
 現在の大学も研究機関としての性格は持っているものの、その基本性格はあくまでも教育機関である。この二面性ゆえに、大学教員の過重負担、研究時間の不足を嘆く声も聞こえる。大学の研究センター化はこの状況を変え、研究者が本来の研究活動に専念できる環境を与えてくれるであろう。これなら収容所送りどころか、楽園送りではあるまいか。
 同時に現在、「産学連携」の名において大学が資本の従属下に置かれつつある状況をも変え、より対等かつ相互的な「学産協同」を可能にするであろう。例えば、先進的な環境技術開発をサポートする環境工学や新しい共産主義的生産組織の経営方法を考究する共産主義経営学、賃労働制廃止後の労働のあり方を省察する労働人間科学などの新しい学問分野で、研究センターと生産現場との協同が期待されるのである。
 また資本主義的産学連携と政府による研究助成名目の選別化の中で淘汰されがちな基礎科学研究分野や哲学・文学などの人文系分野も、大学の研究センター化によって再生される可能性が生まれるであろう。一方で、大学の研究センター化は一般市民向けの学術講演会やシンポジウムなどの開催をより活発化し、学術の一般普及に貢献する余地をも広げる。
 こうした大学の研究センター化は私立大学を含めて一斉に実行され、旧国公立大学については社会的所有法人型の研究センターとして公共的な性格を保持していく。
 これに伴い、従来は大学及び大学院が担っていた研究者養成は各研究センターが自前で担うことになる。すなわち各研究センターはそれぞれ独自の方法と条件で研究生を公募・採用し、センター内の固有の養成プロセスを通じて研究者を養成していく。この研究生選考は従来の大学入試をはじめとするアドミッションとは異なり、研究志望者の「就職」の一種であって、純粋に研究者養成に特化した選考システムである。
 なお、医学系、法学系、教育学系などのように高度専門職の養成を担ってきた大学(学部)または大学院課程はそれぞれ医学院、法学院、教育学院といった「高度専門職学院」として研究センターから独立させることで、より実践的な専門職養成が期待できるようになる。

コメント

共産論(連載第35回)

2019-05-07 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(2)構想力と独創性が重視される

◇先入見的イメージの払拭
 将来の社会の担い手たる市民の育成はもっぱらフォーマルな教育制度の役割となる。このことは表面上、資本主義社会においてもほぼ同様のように見える。
 ただ、共産主義の立場から同じことを言えば、そこに「洗脳教育」という共産主義につきまといがちな先入見的イメージを重ね合わせられることがあるかもしれない。つまり、学校教育を通じて生徒に徹底的に共産主義思想を叩き込み、「狂信的共産主義者」に鍛え上げていくのではないか、と。
 おそらくこれは旧ソ連をはじめとする集産主義体制の諸国で実際に行われていた思想教育に対する戯画的イメージに基づく批判であろう。しかし、同様の洗脳的な思想教育は「反共」のナチス・ドイツや軍国日本でも逆の立場から盛んに行われていたのであり、その点はお互い様だったのだ。
 共産主義的教育は本来、画一的な思想教育とは無縁である。共産主義社会とは社会的協力=助け合いの社会であると何度も述べてきたが、これを知の側面から見れば、民衆がその知を結集させながら未来へ向けて創っていく社会ということを意味しており、これを裏から言えば、既成の知識を詰め込んだ知識人・専門家によって指導される社会ではないということになる。そのような社会では、いかなる名目であれ、画一的な詰め込み式教育は通用しないのである。

◇資本主義的知識階級制
 翻って発達した資本主義社会の実情はと言えば、それは高度の知識分業化を前提に、各界に各種スペシャリストが配され、そうした知識人・専門家が一般大衆の上に立って社会をリードするという形で成り立っている。ここから、一種の知識階級制が発展してくる。すなわち知識獲得競争に勝ち残った者が社会の指導エリート階級となり、負けた者は被指導階級となる。
 こうした点では、現代資本主義社会は封建的身分制の遺風をなお残していた近代ブルジョワ社会とも異なっており、「生まれ」よりも「能力」による支配の社会であるかのように見える。
 このような社会で指導エリートに求められる資質は記憶力とそれをベースとした反応性である。つまり既成の知識体系を何はさておき暗記し、それを前提とした各種試験で予め正解を定められた設問に対する正確かつ敏速な反応性を示した者が知的エリートとして選抜・認証されるのである。
 要するに、資本主義的教育とは―各国により若干の差はあれ―そうした記憶‐反応型知的エリートを選抜するための認証試験によって段階を区切られた一連の事務手続きにすぎない。こうした点では、資本主義的教育こそ実に画一的で無味乾燥だとは言えないだろうか。
 しかし、それは資本主義社会ではむしろ望まれていることでもある。なぜなら、資本主義経済とは商品生産‐貨幣交換の連鎖による利潤追求のシステムであって、すべての社会的活動はこのシステムのどこかに組み込まれているため、このシステムに関する知識とその適用能力さえあれば知的エリートとしては必要にして十分だからである。

◇知識資本制から知識共産制へ
 これに対して、共産主義社会の教育はさほど単純ではない。共産主義社会は貨幣も国家も持たない社会的協力を軸とする社会であるから、そこでは皆の知の結集なくしては全社会活動が停滞しかねない。共産主義社会では既成の知識体系は無駄とは言わないまでも、あまり役に立たず、各自の生活経験に根ざした構想力とそれをベースとする独創性が支えである。
 共産主義社会では知識階級制は通用しない。この社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるであろう。知識人・専門家任せでは動いていかないのが共産主義社会である。
 このことはもちろん、カンボジアのクメール・ルージュのように知識人を敵視し大量粛清するというような狂信を意味してはいない。知識人・専門家は共産主義社会でも当然不可欠であって、その養成は引き続き行われるが、かれらの役割は社会の指導者から助言者的なものへ転換されていくであろう。
 以上のような資本主義的教育=記憶力‐反応性、共産主義的教育=構想力‐独創性という対比は絶対的なものではなく、資本主義の枠内でも、記憶力‐反応性偏重を反省し、構想力‐独創性を重視しようとする「教育改革」の動向がないわけではない。
  しかし資本主義が資本主義であり続ける限り、記憶力‐反応性路線の教育が本質的に廃されることは期待できない。こうした資本主義的教育の下では、知識自体も一種の文化的な「資本」に化け(知識資本制)、各家庭の教育投資力とも直結して世代間で継承されていくことによって知識階級制が確立されていくのである。その構造は当然にも、家庭の教育投資力が高い有産階級子弟にとって有利に働く。
 かくして「能力主義」に見せかけられた現代資本主義社会も、本質的には生まれによって人の一生がほぼ決定づけられている階級社会にほかならないことが、教育の面から暴露されるのである。
 これに対して、共産主義的な構想力‐独創性教育の下では知識も共産され、「みんなのもの」として蓄積・開放されていくのであるから、知識資本制の下での知識階級構造も崩れ去るのである。

コメント

共産論(連載第34回)

2019-05-06 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

 共産主義社会では、社会に産まれ出た子どもたちは社会が育てる。そこでは、構想力と独創性を重視した義務教育と生涯にわたっていつでもやり直せる成人教育が充実する。


(1)子どもたちは社会が育てる

◇親中心主義からの脱却
 ドイツ憲法に次のような印象的な条文がある(6条2項)。

 子の養護及び教育は両親の自然の権利であり、かつ何よりも両親の負うべき義務である。その履行に際しては、国家共同社会がこれを監督する。

 この規定が印象的であるのは、それが資本主義国家における教育のあり方を明確に語っていると同時に、そこから抜け出す出口をも指し示しているからである。
 規定前段は、「子の養護及び教育」すなわち子の養育全般を両親の「自然の」権利及び義務であると宣言することによって、子の養育を私事化している。これは極端に言えば、子は親の私物―まさに「我が子」―と認めるに等しく、ここに子どもにまで及ぶ資本主義的な私有の観念がにじみ出ている。
 しかし、そうした両親の私事たる子の養育に対して「国家共同社会(の)監督」という形でクギを刺そうとするのが規定後段である。なぜそのようにクギを刺すのかと言えば、いかに子が両親の私物であるといっても親の勝手気ままを許したのでは、資本主義が婚姻家族に期待する次世代労働力の再生産機能が働かなくなる恐れがある。そこで「国家共同社会」は両親が我が子を勤勉な労働力―賃奴―に育て上げてくれるように見張っていなければならないわけだ。
 以上はいささか毒気を含んだ“超解釈”であり、ドイツ国民にいささか申し訳なく思うが、筆者の真意はドイツ憲法を揶揄することにあるのではなく、むしろ先の規定後段を共産主義的教育への突破口としてとらえてみたいのである。
 結論から行くと、共産主義的教育は社会に産み落とされたすべての子どもたちの養育の権利と責任を、両親でなく「共同社会」―再三述べてきたとおり、共産主義社会に「国家」は存在しない―に認める。つまり、子どもたち(複数形)は社会が育てるということである。
 では、両親は?かれらは、個々の子ども(単数形)の言わば「製造元」として、共同社会による子どもたちの養育に協力する責務を負い、その限りで自ら作った子を成人するまで養護する権利という意味での親権を持つ。
 こうした構成は逆さまだと思われるかもしれないが、元来養育の力量にばらつきのある親たちに養育の全責任を押し付けることが無理なのである。「児童虐待」や「育児放棄」は―通常は「虐待」に分類されないが、過干渉や過保護も同様―、そうした無理の悲劇的な現れにほかならない。
 女が妊娠した後に婚姻届を出す男女を「出来ちゃった婚」などと揶揄する風潮も見られるが、誰しも「出来ちゃったら親」である。親になるための特別な訓練も、まして免許試験もない。そして重要なことは、子は良い親を選んで産まれ出ることはできないということである。
 となれば、社会に生まれ出た子は基本的に社会が養育すべきだということも、見やすい道理と理解できるのではないか。ただし、この場合、社会は子どもたちを将来の労働力として養育するのではなく、何よりもまず社会的な「人間」として、そして社会の担い手たる素養を備えた将来の「市民」として養育するのではあるが。

◇義務保育制
 「子どもたちは社会が育てる」という共産主義的原則がライフコースの中で最初に現れるのは、義務保育制である。今日、資本主義諸国でも義務教育制は普及しており、その限りで「子どもたちは社会が育てる」は資本主義の下でも中途半端には実現されていると言える。
 しかし、「鉄は熱いうちに打て」のたとえどおり、就学年齢前の保育は社会的な人間の育成という点では、教育に匹敵する重要性を持っている。そこで、教育のみならず、保育に関しても全員の義務とする必要性は高い。
 この義務保育制は生後6ヶ月から後で述べる一貫制基礎教育(義務教育)の就学年齢(標準では6歳)に達するまでの全乳幼児に適用される。その保育内容は単なる託児とも、いわゆる“英才教育”とも違う。“英才教育”とは子の本来的な適性や趣向を無視した親の自尊心を満たすための、こう言ってよければ親による子の可能性の搾取にほかならず、まさに子どもの私物化の表現なのである。
 義務として課せられる保育は、上述したように社会的な人間の育成を目的とする早幼児養育であって、単なる福祉ではないが、“英才教育”でもない。従って、その内容としても、まずは社会性の本質である対他関係、すなわち不和・対立といった否定的な関係をも含んだ他者との関わり方を身につけさせることに主眼が置かれる。
 とはいえ、保育には託児という生活福祉的要素も認められるため、義務保育を担うのは生活関連行政に当たる市町村となる。市町村は当然、管内の全該当乳幼児を受け入れられるだけの保育所を用意しなければならないが、前章でも見た「財源なき福祉」と同様に、およそ財源から解放される共産主義社会にあって、市町村が必要な数の保育所を用意することは十分に可能である。いわゆる「待機児童」が生じる余地はない。

◇地域少年団活動
 「子どもたちは社会が育てる」という原則は、一般に公的な教育機関を通じた教育という形をとるが、そうしたフォーマルな教育だけでは社会性を備えた人間の育成には限界がある。そこでよりインフォーマルな教育として地域をベースとした「地域少年団」が導入される。
 これは社会性の育成において最も重要な満7歳から15歳までの子どもたちを対象に、地域で年齢混合・男女混合の少年団を編成し、所定の訓練を受けた指導員の下、週末や祝日を利用して、月2回の割合で行う野外活動である(宿泊を伴う場合と伴わない場合とがある)。その目的は、社会性の本格的な発達が促進されるべき年代の子どもたちを対象に、義務教育では限界のある社会性教育を施すところにある。
 核家族化―その基本線は来たるべき共産主義社会でも変わらないであろう―の相関現象でもある少子化は、全般にきょうだいが少ないか一人っ子の子どもたちを増やし、生後最初の対他関係であるきょうだい関係―「きょうだいは他人のはじまり」―を通じて社会性を身につける機会を大幅に減少させていることから、地域をベースとして言わば「擬似きょうだい関係」を形成するのが地域少年団だと考えれば、その趣旨が読み取れるかもしれない。
 そうした趣旨に照らして、該当年齢の子どもたちは、医学的な理由から参加が困難な場合を除き、全員参加を義務付けられる。その活動内容は教科学習やスポーツのような技芸でもなく、自然観察などを通じて自然環境の中で自由に遊ぶ形式で、インフォーマルながら環境教育を兼ねたものとする。
 その実施主体は保育と同様に、市町村である。市町村では地区ごとに少年団を編成し、指導員を養成・配置する。第4章でも言及し、本章でも改めて詳しく触れるように、基礎教育課程の運営は中間自治体としての地域圏のレベルで担われるため、市町村は保育のほか、こうしたインフォーマルな教育の分野に注力できるのである。

コメント

共産論(連載第33回)

2019-04-30 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(6)効率的かつ公平な医療が提供される

◇地域圏中心の医療制度
 年金不安と並んで、資本主義的福祉国家の揺らぎを象徴するのが、医療へのアクセスが悪化する医療難である。医療難は医療費の公的負担率の高い国にとっては共通の不安材料である。一方、公財政力が乏しい低開発国では、そもそも公的医療を普及させること自体ができず、無医療が常態となる。
 医療難/無医療問題も、種々の技術的な要因はともかくとして、根源的には医療財政、つまりはまたしてもカネの問題である。医療難をどうにか立て直すには、公的医療の患者負担率の引き上げ―つまりは“慈悲診療”ならぬ“自費診療”への転化―や医療保険料の増額によって、低所得者・貧困者を医療から遠ざけるほかない。結果として、無医療に等しくなる。
 これに対して、およそ財源という不安定要素から解放される共産主義社会では、より効率的かつ公平な医療制度が提供されるだろう。共産主義的医療のあり方にもいろいろの制度が考えられるが、例えば次のようになろう。
 まず、医療の柱である地域医療の最前線は市町村の過重負担とならないよう市町村ではなく、より広い中間自治体である地域圏が担う。このレベルで地域医療の拠点となる公立病院を運営するほか、過疎地では公立診療所も開設する。一方、従来からの私立病院・診療所も、地域圏レベルの登録医療機関として公的監督の下に診療活動を行う(ただし、開業医の資格条件や私立病院の医療の質に対する監督はより厳しいものとなろう)。
 また負担の重い救急分野も、財源の心配をすることなく、地域圏の拠点病院すべてに「たらい回し」ならぬ「ふるい分け」が可能な、充実したスタッフを擁する救急部門を設置して対応することができるであろう。
 これに対して、特定の疾患に対するより高度な治療や通常の病院では対応できない難病の治療・研究に関しては、広域自治体である地方圏/準領域圏ないしは領域圏の専門的な病院の役割に集約される。

◇医師の計画配置
 一方、医療難/無医療の原因でもあり結果でもある医師の偏在問題についても、共産主義は大いに解決してくれるはずである。共産主義的医療では、医師の計画配置がごく当然の施策となるからである。
 すなわち、特別に高度な知識・技能を持つ特定専門医を除き、一般の医師をまずは地方圏ごとに登録したうえで、各地域圏の医療ニーズに応じてバランスよく各病院に配置し、過不足が生じないようにする。
 また、私立病院の医師や極めて厳格な資格認定のうえに認可される開業医にも原則的に非常勤もしくは嘱託の地域圏医療公務員の地位を兼ねさせ、必要に応じて地域圏の医師配置計画に組み入れる。共産主義社会では私立病院・開業医も収益事業ではなくなりボランティア化されることから、公立病院・診療所との違いも相対化されていき、その公共的な性格がより鮮明・高度なものとなるのである。

◇保健所・薬局の役割
 貨幣経済が廃される共産主義社会にあっては、どの医療機関でも(私立病院・診療所も含めて)患者の医療費負担ということはそもそもあり得ない。その結果、公的医療保険のような補助制度も一切必要なくなる。これなら公的医療保険制度を嫌悪する保守派米国民も大喜びするに違いない。
 このような無償供給原則は他のすべての財・サービスの場合と同じである。しかし、そのような“医療天国”になったら病院という病院に患者が殺到しかねないという懸念があるかもしれない。
 その点、共産主義的医療では、保健所(保健センター)が疾病の予防という観点から、健康相談を通じた初期的診断や生活習慣上の助言を行なう総合的な予防的サービスを提供することで、軽症者の病院殺到を防ぐ防波堤となるだろう。
 さらに、薬局も、資本主義下におけるような薬のスーパーマーケットではなく、軽症例に対する一定の診断と処方も行なうまさしく薬の局として機能するようになるだろう。それは、薬剤師が医師から独立した調剤専門家として確立され直すことによって実現する。

◇科学的かつ公正な製薬
 ここで医療制度と切っても切れない関係にある薬剤開発の問題について触れておきたい。資本主義経済の下で、薬剤開発が巨大な製薬資本の手に握られていることは周知の世界的現象である。その結果、どういうことが起きているか。
 一つは製薬資本による医療支配である。すなわち臨床試験という名の人体実験を通じて新薬による治療を医療界に押し付けている。
 本来、薬剤の臨床試験は中立的かつ科学的、人道的に行われるべきであるが、実際は製薬資本から研究上の資金提供を受けている医学者らが実質的なお抱えの形で協力しているため、その結論はしばしば製薬資本有利に「操作」さえされる。甚だしきは、「新薬開発のために新疾患名を創作する」という本末転倒まで行われる。
 結果として、効果の疑わしい薬剤や害のある薬剤までが事情を知らない善意の一般医師によっても処方されるようになる。そこから重大な薬害が発生しても、製薬資本は容易なことでは法的責任を取ろうとしない。 
 これに対し、共産主義の下では第2章でも言及したように、製薬は社会的所有企業たる生産事業機構の一つである「製薬事業機構」が一括して担い、一般の経済計画とは別途、計画的に行われていく。臨床試験は事業機構とは全く別個独立の試験機関が科学的に厳密かつ人道的な方法で実施するほか、あらゆる薬剤の副反応を監視し、製造中止などの強力な規制権限を持つ薬剤監視機関も設置される。
 最終的な形では、世界的なレベルで薬剤事業を統合し、今日の世界保健機関(WHO)のような専門機関の監督を受けながら世界標準の製薬と薬剤の頒布―当然にも無償―がコントロールされることになる。このことによって、今日エイズ禍に悩むアフリカ諸国など後発国におけるエイズ治療薬の低額頒布が製薬資本の特許の壁によって阻まれている問題も解決を見るであろう。

コメント

共産論(連載第32回)

2019-04-29 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(5)環境‐福祉住宅が実現する

◇家賃orローンからの解放
 資本主義社会において住宅は福祉の問題としては認識されておらず、それはもっぱら所有の問題、もっと言えばステータスの問題として扱われてきた。
 その結果、持てる者=住宅所有者/家主、持たざる者=借家人/野宿生活者という階級格差が最も露骨に立ち現れるのが住宅問題なのであるが、この住宅階級構造の中では、持たざる者は家賃の支払いに苦しんでいるばかりでなく、持てる者もしばしば住宅ローンの返済に悩んでいる。持てる者も持たざる者も、「住む」という人間の生存の根幹部分を巡り、債務者という受動的な地位に立たされ、呻吟しているのだ。
 特に借家人の地位は従属的である。借家人は、家主に生存そのものを支配されており、その社会的立場は弱いから、地域コミュニティーでも主体的な地位を獲得できず、賃貸住宅の増加はそうした地域コミュニティー自体の弱化・解体にもつながってきた。
 その点、すでに第2章でも先取りしたとおり、貨幣経済が廃される共産主義社会では、当然にも貨幣で家賃を支払う賃貸住宅という制度は存立の余地がない。このことによって、世界中で膨大な数の人々が借家人という不安定な地位から解放される。これもまた、かなり大きな社会革命と言えるのではないだろうか。
 同時に、貨幣経済の廃止は住宅ローンのような悪制にも終止符を打つ。これまた、一つの朗報ではないだろうか。

◇公営住宅供給の充実
 それでは、共産主義的住宅政策とはいかなるものか。まず、暮らしに関わる生活関連行政の拠点である市町村が公営住宅供給の中心主体となる。
 資本主義下の公営住宅は低所得者向けの低家賃賃貸住宅ものがもっぱらであるが、共産主義的公営住宅はより一般向けのものであり、入居条件に特段の制限はなく、入居期間も無制限、相続も原則として認められる。またこうした一般向け住宅とは別に、前節で見たような高齢者向けケア付き住宅や障碍者向けサポート付き住宅の供給も促進されるだろう。(※)
  なお、共産主義社会でも個人の住宅所有が許されることは第2章で見たとおりである。ただ、共産主義社会における持ち家は住宅ディベロッパーによって既製品的に供給されるのではなく、各自が専門の建築士に依頼し設計してもらう注文生産方式に変わるであろう(もちろん自作も可能である)。住宅建設も大工の職人組合的な組織が担うようになり、伝統的職人世界の復権も見られるに違いない。

※これら公営住宅の日常的な管理運営は、大規模な市や町にあっては最小自治単位としての街区に委託して分権的な運営を図ることも一考に値する。

◇環境と福祉の交差
 ところで、住宅問題とは環境と福祉とが交差する領域でもある。その意味で、理想の住宅とは環境的持続可能性に配慮された設計(住宅の周辺環境も含めて)と高齢者や障碍者にとっても住みやすいユニバーサル設計とが組み合わさった「環境‐福祉住宅」だと言ってよい。
 このようなことは効率と高機能が優先されがちな資本主義的住宅ではスローガンにとどまり、容易に実現し難いことであろう。共産主義はそうした環境‐福祉住宅の建設を高度に促進する。
 例えば、公営住宅については入居者の状態いかんを問わず例外なく標準的なユニバーサルデザイン設計が施される―このことは老人ホームや障碍者施設を解体する脱施設化の物理的条件でもある―ばかりでなく、同時に省エネ住宅の供給、特に既存公営住宅の省エネ・リフォームを一大プロジェクトとして実施するほか、住宅周辺の緑地公園化も推進する。
 また、しばしば資本主義的近代化の象徴とみなされる高層住宅化は、歴史的景観という文化的な環境を害しがちであることから、共産主義的住宅政策では、新規建設の場合は可能な限り中・低層化が図られるであろう。そのために新たに必要とされる宅地は土地管理機関の管理下に移された旧商業用地や旧資本企業が所有していた遊休地等を再利用した宅地開発によってまかなわれる。
 このようにして、共産主義は資本主義の下では巨額財源を必要とする環境‐福祉住宅プロジェクトも難なく実現するが、これまた「財源なき福祉」ならではの芸当だと言える。

コメント

共産論(連載第31回)

2019-04-26 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(4)名実ともにユニバーサルデザインが進む

◇脱施設化
 近年、資本主義社会でもバリアフリーが理念としては高調されるが、完全バリアフリー=ユニバーサル・デザインはここでもやはり財源=カネがボトルネックとなってなかなか進展しない。貨幣経済ではなく、財源に拘束されない共産主義は、この問題もさほど難なくクリアするであろう。
 そもそも共産主義的都市計画ではユニバーサルデザインが内在化され、公共的な場所・建造物はすべてユニバーサルデザインを義務付けられ、ユニバーサルデザイン住宅の建設も推進される。しかし、このような物理的ユニバーサルデザインがどれほど進んでも障碍者が施設に収容され、見えない鎖でつながれていて街中へ繰り出せないのでは意味がない。
 その点、労働力としては非能率とみなされる障碍者は施設で「保護」するという発想の強い資本主義社会では、各種の障碍者施設や病院より施設に近い精神病院のような隔離的な諸制度を発達させてきた。しかし、共産主義社会はこうした施設の撤廃を高度に実現する。
 高度な脱施設化(施設解体)を進めるためには、その前提的な受け皿として在宅地域ケアを整備する必要があることは高齢者の場合と同様である。この点、障碍者のケアには高齢者のケアと共通する部分も多いので、前回述べた公共介護ステーションで対応可能な人々にはそれで対応し、対応し切れない人々(例えば精神障碍者)は障碍者専門サービスで対応することができる。

◇障碍者主体の生産事業体
 障碍者の場合は、ケアの問題ばかりでなく、社会参加の保障、特に働く場所の確保が必要である。現状では、障碍者も自立的に生計を立てようとすれば賃労働に従事する必要があるが、壁は厚い。その特性に応じて様々な配慮が不可欠な障碍者は通常の労働者のように賃奴として搾取することが難しいため、資本企業にとっては労働力としての魅力に乏しいことがその原因である。
 これに対して、共産主義的労働は、第3章で詳しく見たように、無償の労働である。それは社会的協力としての労働であるから、障碍者も障碍者なりの力量とペースで働く場を見出すことがずっとしやすくなるのである。
 また資本主義の下では利潤追求競争に乗り切れない障碍者向け授産施設のような事業体も、単なる「授産」を超えて障碍者主体の自主的な生産事業体として立ち行く可能性が拓かれる。
 この点でも、交換価値中心でなく使用価値中心の共産主義社会は本質的に“障碍者にやさしい”経済システムであり得るし、共産主義社会において中小規模の主流的な生産組織となる生産協同組合も、営利性を持たない点で障碍者自身による生産プロジェクトを展開するうえで株式会社形態よりも適していると言えよう。

◇「反差別」と心のバリアフリー
 バリアフリー化政策においては物理的なバリアフリーも土台として重要であるが、より根源的な次元で重要なことは、一般社会に潜在化する障碍者排斥的な心のバリアを撤廃すること、言わば心のバリアフリー化である。それなくしては脱施設化も幻と終わるだろうからである。
 この心のバリアフリー化に至っては、もはや共産主義云々とは直接に関係のない、人間社会にとって普遍的な課題であるように思われるかもしれない。しかし必ずしもそうではない。
 共産主義的社会道徳の柱は「反差別」である。共産主義社会は、すでに再三述べてきたように、社会的協力=助け合いを本旨とする以上、異質の者を排斥・隔離することは社会の根本道徳に反するのである。
 そこで、次章で改めて述べるように、基礎教育(義務教育)の早い段階から、障害児と非障害児の交流・統合教育を活発に進め、障碍者を社会の対等な成員として迎え入れる意識を早期から養うための教育が強力に行われることになる。

コメント

共産論(連載第30回)

2019-04-25 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(3)充足的な介護システムが完備する

◇介護の公共化
 高度資本主義社会は長寿社会とほぼ重なっている。しかし長寿社会は同時に、要介護老人の増大とその介護負担が社会にのしかかる社会でもある。一方で、人手も限られた少人数の核家族にすべての介護責任は負い切れない。
 そこで、資本主義は介護をサービス商品化することにより、介護サービスを営利性の強い介護事業者の手に委ねる方向へ進んでいく。結果、介護サービスの受益は応益負担化するとともに、介護労働は搾取性の強い過密労働となるというように、資本主義の特徴が介護分野にも顕著に発現してくる。
 共産主義はそうした方向性とは異なり、介護を公共的なサービスとして確立しつつ、柔軟なニーズに対応した介護システムを構築するだろう。具体的には在宅ケアが高度に充実するが、「在宅」といっても、文字どおりの自宅に限らず、介護士や看護師が常駐する高齢者向けの公的なケア付き公共住宅が数多く用意され、随時無償で入居することができるようになる。
 このように「在宅」の概念が拡張されることにより、高度な共助に基づく在宅介護の仕組みが構築され、いわゆる老人ホームのような典型的な施設介護は不要となり、在宅か施設かといったカテゴリー分類は相対化されることになる。

◇介護と医療の融合
 共産主義的介護の最前線は、地域医療と異なり、生活関連行政の拠点である市町村のレベルで担われる。具体的には、市町村の地区ごとに公共介護ステーションが設置される。ここには、ホームヘルパーのほか、訪問看護師や老人医療に精通した往診専門の医師も駐在して介護と医療を融合することを可能にする。
 介護希望者は医師の的確な診断と助言に基づいて自らの望むケアのメニューを選択することができる。この介護ステーションは24時間対応制で、夜間でも必要に応じてヘルパーや看護師の派遣を求めることができるし、本人や家族の要望に応じた通所デイケア機能も備えたワンストップ型のものとなるだろう。
 一方、多重的な疾患を抱え、完全看護が必要であるとか、ケアの困難な進行した認知症の患者などは地方圏が運営する病院型の長期療養所へ無償で入院することができる。
 さらに、公共サービスではまかない切れない民間の介護ボランティア組織による特色あるサービス提供も排除しないが、それらも市町村に登録され、公的な監督を受けることになる。

◇「おふたりさま」老後モデル
 核家族化の結果、独居老人が増加していく中で、充足した介護システムの完備など非現実な夢物語だという声も聞こえてきそうである。そこで、近年は非婚率の高まりにも対応して、自己完結的な「おひとりさま」老後モデルを推奨するような議論も聞かれる。
 これは一見社会的現実に即した議論のようであるが、介護サービスも商品化された資本主義社会の現実にあっては、しょせんそれは単身で生きることを明確な主義とし、なおかつ老後の単身生活の資となり得る年金収入や資産、頼れる人脈とを十分に備えたプチ・ブルジョワ以上の有産階級向け老後モデルにほかならない。
 プロレタリア階級の「おひとりさま」老後生活の厳しさは、いわゆる「孤独死」問題が象徴している。プロレタリア階級の「おひとりさま」は「無縁仏さま」予備軍である。
 その点、第3章で見たように、共産主義社会における公証パートナーシップ制度は独身高齢者同士のパートナー関係にも利用しやすい制度であるから、この制度が普及すれば「おひとりさま」ならぬ「おふたりさま」の高齢世帯の増加が見込めるかもしれない。その点でも、「婚姻家族からパートナーシップへ」という家族モデルの変容は重要である。
 もちろん、共産主義的な共助に基づく公共的な介護システムは単身者にとっても有益なものとなるだろう。その点、各街区に設置される社会事業評議会は独居高齢者を管轄街区内の社会サービス計画における重点的な対象として、サービス網に組み込むことになる。

コメント

共産論(連載第29回)

2019-04-19 | 〆共産論[増訂版]

 第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(2)年金も生活保護も必要なくなる

◇年金制度の不合理性
 福祉国家政策の柱とも言える公的老齢年金制度(以下、単に年金制度という)の揺らぎは、その影響が老後の貯蓄を十分に備えた一部富裕層を除くほぼ全国民の老後に及ぶため、福祉国家の揺らぎの中でも特に深刻なものの一つである。
 しかし、元来高齢化率が現在ほど高くなく、平均寿命も相応な限度内だった時代の産物である年金制度が少子高齢・長寿時代に揺らぐのは必然であって、年金はこの先も安泰だという政府のどんな約束も虚ろに響く。年金制度の合理性を疑うことはタブーに近いところもあるが、この制度は決して無条件に合理的な制度であると言えないことはたしかである。
 そもそも労働者を一定年齢で強制的に退職・失業させておいて年金生活に追い込むのは形式的にすぎるシステムである。60歳を過ぎてもまだ壮健で働く意欲に満ちた人もいるし、60歳を過ぎて新たな職に挑戦する「老新人」がいても不都合はない。
 しかし、資本主義の下では、老いた労働者は労働力としての有用性に欠けるものとみなされる。高齢労働者を強制的に退職させる方法としては一律的な定年制を適用する方法と個別的に解雇する方法とがあるが、どちらにせよ資本企業としては搾取し甲斐のない生産性の低下した高齢労働力は排除してしまいたいことに変わりはない。

◇共産主義的老後生活
 これに対して、共産主義社会における老後生活は単純かつ自由である。定年制をはじめ、年齢のみを理由とする退職強制は年齢による不当な就労差別として法的に禁止されるから、労働者は各自が望む年齢まで働き続けることができる(ただし、第3章で論じたように、共産主義の初期には中核的労働世代に労働義務が課せられる可能性はある)。
 もし老齢を理由にリタイアする気になったら、ただ静かに去ればよいだけである。何度も述べたように貨幣経済が廃され、必要な財・サービスはすべて無償で取得できるのだから、引退に伴う生活不安は生じない。もしも介護が必要になれば、次節で見るように充実したケアが無償で受けられるし、重度化すればこれまた無償で長期療養ケアを受けることもできる。
 逆に、早期リタイヤすることも自由である。その点、資本主義的社会保障制度は、賃奴として用済みとなった老齢者向けのものに集中しがちであるから、早期リタイヤは超富裕層以外にとっては夢物語であり、若壮年の離職者は失業保険や生活保護に依存せざる得ないだろう。  
 共産主義社会ではそのような必要もない。貨幣がなくとも生計は立つのだから、そもそも生活保護のような救貧制度自体が不要であり、失業保険のようなつなぎの社会保障制度も不要である。極端に言えば、老いも若きも安心して失業できる。
 正しく構築され、運営される共産主義社会は貧困とは無縁である。労働と消費とが完全に分離される共産主義社会は本源的な福祉社会であって、あえて福祉の充実云々と大上段に構えることすらないのである。

◇社会事業評議会  
 上述したように、共産主義社会は年金や生活保護に象徴されるような金銭給付型の社会保障という特殊な窮乏化防止制度を必要としないとはいえ、共産主義社会にも介護をはじめ、非金銭的な社会サービスの体系は存在する。むしろ、貨幣経済が廃される共産主義社会では、そうした非金銭的な社会サービスこそが中心を占めることになるのである。  
 共産主義的社会サービスは要受給者側からの申請を待つ申請給付主義ではなく―申請給付主義とは例の財源という資本主義的限界に対応する受給抑制策の一つである―、要受給者の申請がなくとも本人が合理的な理由に基づき辞退するのでない限り、計画的に給付する計画給付主義を採る。  
 そのために、市町村自治体の街区ごとに地域の社会サービス計画を主管する公的機関として、社会事業評議会(以下、単に「評議会」という)が設置される。評議会は自ら直接に社会サービスを提供することはないが、担当街区内の社会サービス全般を包括的に束ねる。  
 具体的には、街区内の社会サービス要受給者の状況を常に把握し、毎年更新される社会事業計画を立案しつつ、要受給者が必要な時に必要なサービスを受給できるよう調整を図ることを任務とする。従って、評議会の議長は正式の資格を持ったソーシャルワーカー(社会事業調整士)でなければならず、評議員は街区内の福祉や医療分野の専門家や事業者代表が非常勤で委託される。   
 評議会には複数のソーシャルワーカーが配置され、要受給者からの相談を受けるほか、ボランティアの協力員からの情報に基づき、要受給者を発見し、必要なサービスの手配につなぐ積極的な活動も展開する。ちなみに、児童福祉に関しては、評議会とは別途、未成年者福祉センターが設置されるが、評議会は同センターとも連携し、子を持つ家族の保護を行なうこともある。

コメント

共産論(連載第28回)

2019-04-18 | 〆共産論[増訂版]

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

共産主義社会はその本質上、誰もが日常の衣食住や医療・介護にも不安を抱くことなく暮らしていくことのできる安心な福祉社会である。なぜそんなことが可能になるのか。


(1)財源なき福祉は絵空事ではない

◇福祉国家の矛盾
  はじめに確認しておくと、いわゆる福祉は決して共産主義の専売特許というわけでなく、よく理想化される北欧諸国のように、むしろ資本主義の枠内における労働者階級の窮乏化防止の意味合い―第1章で論じたように、それは厚化粧した資本主義の姿でもあった―が強いと言ってもよい。
 しかし、そうした資本主義的な福祉には一つの決定的な限界がある。それは福祉の担い手が国家であるということ―福祉国家―に由来する。国家は福祉財源を税収に依存する。つまりは福祉財源の大半を賃労働者、すなわちあの賃奴の所得に依存する。賃奴≒税奴たるゆえんであった。
 それでも、右肩上がりの高度成長・蓄積期で賃金上昇率も高い時期には国家の税収も伸び、安定した福祉政策を実行して賃奴たちの生活水準を引き上げてやる余力―しょせんそれは税金の還元サービスにすぎないのではあるが―も生まれる。理想化された北欧の「高度福祉国家」も、おおむね1970年代中ごろ―長くとっても1980年代―までの高度成長・蓄積期がその黄金時代であった。
 やがてオイルショックを契機に、先発資本主義諸国では黄金の“古き良き時代”が終わり、成長鈍化・グローバル競争の時代に入ってくると、労働者の賃金所得も伸び悩み、国家も税収不足に陥り始め、そこへ新自由主義=資本至上主義の「小さな政府」ドグマも介在して福祉国家は揺らぎ始める。
 このように、資本主義的福祉国家とは、大衆が経済成長・資本蓄積の恩恵に浴して福祉をさほど必要としないときには充実し、低成長・経済危機の時代にあって大衆が切実に福祉を必要とするときには行き詰まるという矛盾を抱えているものである。
 福祉国家再建の必要性が叫ばれることもあるが、財源の壁は厚い。増税が不可避であるが、資本主義国家はそうした場合、資本よりも労働に負担を転嫁する術を心得ているから、法人税増よりは消費税増のような「庶民増税」に手を着けること必定である。政府がそうした増税策をもってしてもまかなえないほどの財政赤字を抱えているとなれば、福祉国家の再建どころではない、国家そのものの存亡という危機にも直面する。

◇二つの「福祉社会」
 アメリカは個人の自由を最重視するイデオロギーから、福祉国家という概念の受容を拒否してきた。そのため、大恐慌に直面した1930年代のローズヴェルト政権が社会保障の制度を導入した際には、国民の社会契約そのものを見直すという含意から、ニューディール政策と称されることとなった。
 とはいえ、アメリカにおいて福祉国家は禁句であり、ニューディール政策施行後も、資本主義的な自助原則に変更はない。しかし、その反面、福祉サービスの多くを互助の精神に基づき、民間のボランティア団体や営利性を帯びた福祉事業体が担い、国家による福祉サービスの欠如を補っている。
 そうした点では、福祉国家という観念そのものを拒否する自助原則の米国は、互助的な民間サービス中心の、ある意味からすれば「共産主義的な」福祉を実践していると言えなくはない。
 しかし、それはあくまでも外面的な近似性にすぎず、その本質はむろん共産主義とは異なっている。アメリカの民間福祉は基本的に福祉サービスを富裕者の寄付や営利的な収益事業に委ねる福祉資本主義の実践にほかならない。
 これに対して、国家が廃止される共産主義社会の福祉は国家中心でないことは論理上当然としても、篤志的または営利的な民間福祉に丸投げするのでもない、言葉の真の意味での福祉社会を軸とするものとなる。
 具体的には、生活関連行政の中心を担う市町村と地域医療の拠点となる中間自治体としての地域圏が福祉の最前線として、ともども連携しながらサービスを提供していく。その点で公的福祉の性格は強いが、民間福祉をすべて公的に接収してしまうわけではない。
 共産主義社会では、民間福祉団体や民間病院はすべて無償ボランティア組織に純化される。これは、共産主義社会において賃労働制が廃止されることに伴う必然の結果である。それらの民間ボランティア組織は市町村または地域圏に登録され、その監督を受けながら各々特色あるサービスを無償で提供していくことになる。

◇無償の福祉
 このように言えば、果たして高度な福祉サービスがボランティア依存で実現するだろうかとの懐疑を招くかもしれない。しかし、福祉とは本来ボランティア精神を本旨とするものではなかっただろうか。
 もっとも、医師のような高度専門職までが無報酬のボランティア化されたのでは医師志望者が激減し、決定的な医師不足を招くのではないかとの懸念には一理あるかもしれない。
 なるほど今日の医師はその高収入が魅力となって多くの志望者を惹きつけている可能性もあるが、果たしてそれが医師という職本来の姿なのか。多くの非営利的な職能までもが儲け主義の準商人化されてしまう資本主義の下ではなかなか理解しにくいことではあるが、本来医師とは病気の治療と予防を専門とする公共的な職能のはずであった。
 これは次章の論題である教育とも関わることであるが、共産主義社会ではそうした公共的職能としての意識の高い者が医師であり得るような医学教育システムが導入されるであろう。
 いずれにせよ、共産主義的福祉は、公的福祉か民間福祉かを問わず、貨幣制度の廃止に由来する無償性に支えられた共助のシステムという特質を強く帯びるが、その最大の強みは財源―公共的な「資本」とも呼び得る―という不安定要素から解き放たれることであると言える。
 すなわち共産主義社会では、すべての福祉主体がカネの心配をせずして真に必要なサービスを十分に提供することを可能にする、そうした意味で「財源なき福祉」が絵空事でなく実現するわけである。

コメント

共産論(連載第27回)

2019-04-12 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(6)裁かない司法制度が現れる

◇共産主義的司法制度
 三権分立論の祖にして自らもフランス革命前の世襲司法官であったモンテスキューは、司法権を“恐るべき権力”とみなし、「裁判権力とは言わば無」という象徴的な表現で司法権の徹底的な抑制を説いたのだが、ブルジョワ国家では文字どおりに裁判権力を無にすることはできないことを彼は知っていたからこそ、そう比喩的に説いたのだった。
 ブルジョワ国家で裁判権力を無にできないのは、資本主義的貨幣経済では個人にとっても企業体にとっても「資本」となる金にまつわる紛争が絶えることはあり得ないからにほかならない。実際、殺人のような生命に対する犯罪ですら、その動機ないし背景には金銭問題が絡んでいることが極めて多い。
 これに対して、貨幣経済が廃される共産主義社会では当然にも、金にまつわる紛争は皆無となる。とはいえ、およそ人間社会に紛争は付き物であるとすれば、紛争を公的に処理する司法権力の必要性自体はなくならないだろう。
 しかし、司法制度の内実は大きく変革される。すなわち、現在我々が当然のように受け入れている壇上から人を裁く裁判所という権威主義的な制度は 消え失せ、それに代えて、人を裁かない紛争処理制度が現れる。
 こうした共産主義的紛争処理制度―これを広い意味で共産主義的司法制度と呼ぶ―は、三権分立という発想を採らない民衆会議体制の下では、「独立」の権力ではなく、民衆会議が掌握する民衆主権の一内容ということになる。以下では、その一端を素描してみたい。

◇衡平委員と真実委員会
 共産主義的紛争処理制度の二大支柱は、衡平委員と真実委員会である。いずれであれ、裁判所のように「判決」という形で上から強制的な解決を与えるシステムではなく、より緩やかで仲裁的な解決を目指すシステムである。
 衡平委員とは民事・家事紛争に際して、紛争当事者の間に入って双方の主張を聞き取り、仲裁を行なう専門委員である。衡平委員は原則として単独で対応するが、複雑な事件では必要に応じて二名で担当することもできる。
 貨幣経済が廃される共産主義社会では当然にも金銭をめぐる紛争は消滅し、法的紛争の大半は家族・親族関係の家事紛争になると予測されるため、衡平委員のような制度は適合的なはずである。
 他方、真実委員会は犯罪―前回見たように、共産主義社会では反社会的な犯則行為として把握されるようになる―の真相解明に当たる合議制機関であり、捜査機関が捜査を遂げた後、後で述べる人身保護監による請求を経て招集される。機能としては、刑事裁判の真相解明に相当するが、刑事罰等の処分を下すことはなく、真相の解明・確定のみを行なうものである。(※)
 なお、衡平委員は法律家の中から各市町村ごとに任命される常勤職であり、真実委員はより広域の地域圏ごとに法律家のほか、当該事案にふさわしい有識者、代議員免許を有する一般市民の中から事案ごとに選任される非常勤職である。いずれも民衆会議によって任命される。
 任命権を持つ民衆会議は連合領域圏と統合領域圏では異なり、連合領域圏の場合は連合民衆会議と準領域圏民衆会議の双方が二元的に持つが、統合領域圏の場合は全土民衆会議とするか地方圏民衆会議とするかは任意でよいだろう。

※少年非行事案の処理に当たる少年委員の制度も想定されるが、ここでは割愛する。

◇矯正保護委員会
 共産主義社会における最も重要な変革の一つは、刑罰という制度が廃されることである。資本主義社会において犯罪の大多数を占める金銭絡みの犯罪全般が根絶されれば、なお残る少数の反社会的な犯則行為は刑罰をもって制裁されるべき罪悪というより療法的な対応で臨むべき一種の病理であるとの科学的な認識が民衆の間にも広く行き渡るだろうからである。そうなれば、刑罰制度に代わる新しい科学的な矯正処遇の諸制度も発達していくはずである。
 それに対応して、犯則行為者に対する矯正保護処遇を課する合議制機関として矯正保護委員会が置かれる。この制度は、先の真実委員会による解明を経て、犯則行為者に対して医学的・心理学的・社会学的な調査を経て最適の処遇を課することを目的とする。
 矯正保護委員会は矯正保護の専門的知見を有する三名の有識者で構成される。任命権を持つ民衆会議については、衡平委員・真実委員会に準じる。

◇護民監
 護民官とは古代ローマにおいて平民の権利利益を擁護することを重要な任務とした古い歴史を持つ公職であるが、裁判所なき共産主義的司法制度において新たにこれをよみがえらせることができる。
 ここでの新たな護民官は、現代的な基本的人権擁護・市民的権利の擁護を任務とする監督的司法職であり、そのような趣意から、政治職であった古代ローマの護民官とは区別して、「護民」の同音異字を充てる(ただし、これは漢語特有の語変換で、英語ならいずれもtribuneである)。
 護民監は、最も広範囲な権限を持つ一般護民監と、個別の専門分野を持つ専門護民監の二つの体系に分かれる。一般護民監は各圏域の民衆会議によって任命され、各民衆会議管轄下のあらゆる機関を対象とし、法令適用・法執行をめぐる不服・紛争の解決及び法令順守の監査にも当たる。
 専門護民監として最も主要なものは、人身保護に専従する人身保護監である。その最も重要な任務は犯則司法の分野で、身柄拘束令状や捜索差押令状、通信傍受、監視撮影等の監視令状等各種の強制捜査令状の発付とそれに付随する被疑者及び被害者の権利擁護、さらに前回見た真実委員会の招集や再審議請求などを中心的な職務とする。
 それ以外にも、私的か公的かを問わず、不法・不当な拘束状態にある人やその親族、第三者の請求に応じ、人身保護令状を発して直接に身柄を解放する任務も持つ。
 人身保護監は広域自治体である地方圏(連合型の場合は、準領域圏)の民衆会議が地域ごとに管轄を定めて任命するが、その職権行使は常に単独で、かつ民衆会議からも独立して行なう。
 その他、専門護民監には、中間自治体(郡)及び大都市ごとにそれぞれの民衆会議によって任命されるものとして、情報護民監、労働護民監、反差別護民監、子ども弁務監などがあり、民衆会議の政策により、必要に応じて新設、統廃合が可能である。

◇法理委員会
 あらゆる紛争処理のプロセスにおいて、該当する法令の解釈をめぐって争いが起きることもある。三権分立テーゼの下では、立法府が立法した法律の解釈を司法権に丸投げするという処理が常識化しているが、民衆会議体制はそのような非民主的・無責任な対処はせず、法令解釈に関する紛争を審理する機関として、各圏域民衆会議に設置される法理委員会がある。
 これは民衆会議の常任委員会の一つでありながら、憲章(憲法)を除く法令全般に関する最終的な有権解釈権を持つ専門委員会であり(※)、その委員は全員が法律家で構成され、民衆会議特別代議員の地位を持つ。特別代議員は民衆会議の審議に参加するが、票決権は持たないオブザーバー職である。

※憲章の解釈に関しては、憲章の改正問題を担当する特別委員会である憲章委員会が併せて行なう。そのため、憲章委員会の委員は一般代議員と憲章解釈を専門とする法律家から成る判事委員(特別代議員)に分かれる。

◇弾劾法廷
 裁判所制度を持たない共産主義的司法制度にあって、例外的な裁判所制度として、公務員に対する弾劾法廷の制度がある。
 その代表的なものは、民衆会議代議員及び民衆会議が任命する公職者の汚職、職権乱用等の非違行為を審理する特別法廷である。ただし、弾劾法廷の判決は刑罰ではなく、罷免や公民権停止・剥奪という形で示されるので、刑事裁判所よりは行政裁判所に近い性格を持つ。
 民衆会議弾劾法廷は事案ごとに各圏域民衆会議の決議に基づいて設置される非常置の法廷であり、捜査・訴追に当たる検事団及び判事団は民衆会議が任命する法律家で構成される。
 その他、弾劾法廷に属するものとして、公務員による人権侵害事案を審理する非常置の弾劾法廷として特別人権法廷や公務員及び公務員に準じる公人の汚職事案を審理する常置の公務員等汚職弾劾審判所があるが、これらの詳細もここでは割愛する。

コメント

共産論(連載第26回)

2019-04-11 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(5)警察制度は必要なくなる

◇犯罪の激減
 近世以降の国家制度においては、日常的な治安維持に専従する警察という制度が定番となった。警察=policeはまさに都市国家ポリスと同語源であり、直接にはフランス語で統治を意味する言葉であった。つまり国家統治を担保する強制権力が警察権であり、それを組織的に行使するのが警察機関である。
 その意味で国家と警察は相即不離の関係にあり、国家ある限り警察制度の需要もなくならないだろう。実際、警察は国家の護持そのものを存在理由としており、反国家的犯罪者の検挙を重要な任務としていることも世界共通である。
 とはいえ、国家という制度そのものが廃される共産主義社会では論理必然的に警察制度も必要なくなる、と短絡できるわけではない。警察機関の最も大きな役割が日常の犯罪取り締まりにあることも世界共通だからである。犯罪現象ある限り、警察制度の廃止は夢想として失笑されるであろう。
 しかし、共産主義社会では事情を大きく異にする。これまでにも述べてきたように、貨幣経済が廃される共産主義社会においては、少なくとも金にまつわる犯罪は絶滅する。そして、犯罪の大半に金が絡んでいるという事実を考えれば、金にまつわる犯罪の絶滅は治安情勢のまさしく革命的な向上を保証するであろうことは確実である。
 とすれば従来、ほとんど人類的常識となってきた警察制度の必要性にも疑問が呈されるであろう。少なくとも、重厚な物理力を備えた警察制度は必要なくなる。とはいえ、人間の哀しいさがとして、他人の権利を侵害する行為は共産主義社会でも根絶される見込みはなさそうである。
 しかし、そうした権利侵害行為はもはや道徳的な罪悪としての犯罪というよりは、反社会的な犯則行為として把握されることになるだろう。そうした犯則行為を取り締まる機関の必要性は否定されないが、それがもはや伝統的な警察制度である必要はなくなるのである。以下、そうした非警察的な取り締まりのあり方の一端を示してみよう。

◇警防団と捜査委員会
 犯罪の取り締まりは、多くの諸国で防犯から捜査まで警察が包括的に所管する体制が確立されつつつあるが、それにより警察が強大化し、程度差はあれ、警察国家化が進行している。これに対して、共産主義的な犯則の取り締りは、防犯と捜査を明確に分離する。
 そのために、地域社会の最前線で主として防犯活動に当たる民間組織として、警防団が設立される。警防団は市町村ごとに組織される民間の防犯組織であるが、単なる啓発団体ではなく、その要員は基幹職員を除き基本的に非常勤ながら警備任務に必要な技能を訓練された準専門職である。  
 警防団の活動は交番を通じて行なわれるが、警防団はあくまでも民間団体であるので、正式な捜査権限は持たず、基本的には巡回警邏活動と通報を受けての犯行現場への初動(即応対処を含む)、現行犯人の逮捕が任務となる。ただし、ごく軽微な犯則については事案調査と犯行者に対する訓戒の権限を持たせることは合理的であろう。
 一方、警防団からの連絡・通報を受けて正式捜査に従事する機関として、捜査委員会が設置される。これも警察という形態ではなく、非警察的かつコンパクトな専門捜査機関である。
 委員会という名称のとおり、捜査官から昇進した委員と外部委員から構成される合議機関である。委員会は個々の事案の捜査を指揮することはないが、捜査員の執務規準となる捜査規範の制定・改廃を主要任務とし、組織の改廃・新設や人事・懲戒を統括する。
 捜査委員会の本体は科学捜査や緊急介入を含む捜査活動に係る専門知識を持つ専任捜査員が主体となる捜査機関であり、警防団限りで処理される軽微事案を除く事件が発生した場合、上記警防団の初動を引き継いで正式捜査に当たることになる。この機関は、ある程度広域を所管すべく、地方圏(連合型の場合は準領域圏)の単位で設置されることが望ましい。(※)

※捜査委員会は、小さな領域圏では領域圏の単位で設置することが合理的である。連合領域圏では、連合と準領域圏のレベルに二重に設置することになるだろう。また統合領域圏でも、中央に全土レベルの捜査や指名手配を管理する捜査共助機関を設置することは有益である。いずれの形態でも、地区ごとに支部が設置される。

◇交通安全本部と海上保安本部 
 多くの諸国で警察の権限となっている交通取り締りについては、交通秩序を維持し、自動車事故の処理・捜査を専門的に行なう機関として、地方圏(または準領域圏)の単位で交通警邏隊を統括する交通安全本部が設立される。
 また交通安全本部の海洋版と言える機関が、沿岸警備隊を統括する海上保安本部である。この機関は、海洋の一体性に鑑み、領域圏の単位で設置することが効率的であろう。(※)

※すでに見たように、共産化された世界において排他的な領海を有する主権国家は存在せず、地球上の全海域は基本的に世界共同体(世共)が管理権を持つが、各領域圏は世共との間で協定された所管海域を保持し、その海域の優先航行及び漁業権を保障される。

◇特殊捜査機関
 捜査委員会とは別に、特定の犯則事件の捜査に限局された専門捜査機関として、いくつかの特殊捜査機関が設置される。交通安全本部と海上保安本部も交通事犯に関してはそうした特殊捜査機関の一つであるが、それ以外に―
 例えば、無主物である土地に対する不法占拠や不法取引の摘発を専門的に行なう一種の経済捜査機関として、土地管理機構捜査部がある。これは、名称どおり土地管理機構という全土機関の一部門である(第13回を参照)。
 さらに、次回見るように、主として公務員の汚職行為を審理する一群の弾劾裁判の制度があり、この弾劾裁判にかかる事案を集中的に捜査し、弾劾法廷に訴追する機関としての弾劾検事団も特殊捜査機関の一環に包含される。これは事案ごとにそのつど設置される非常設型の捜査・訴追機関であり、弾劾検事は全員その都度任命された法律家で構成される。
 その他、各領域圏の実情に応じて、その他の特殊捜査機関を設置することは裁量の範囲内であるが、特殊捜査機関の数が増大しすぎることは、捜査機関同士での管轄争いなど無用の混乱の元となることが留意される。

コメント

共産論(連載第25回)

2019-04-08 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(4)官僚制が真に打破される

◇立法・行政機能の統合
  現代国家はその体制のいかんを問わず巨大な官僚制を擁するようになっており、暗黙のうちに民主主義と等置される議会制にあっても、議会審議の舞台裏を仕切る官僚制のために蝕まれ、表層だけの「看板民主主義」と化している。
 そこで官僚制の打破がスローガンとしては唱えられるが空文句に終わりがちなのは、「権力分立」の考えの下に立法とは別個に行政を観念するからである。
 行政とは単に立法府の制定した法律を機械的に執行するだけの権力作用ではなく、まさに「政を行う」より総合的な権力作用であって、そこには立法の前提となる政策立案から法案作成の権限まで含まれ得る。そのため、立法府(議会)の立法能力の欠如とあいまって、行政官僚が自立化し、行政府(政府)の法案提出権を通じて官僚が事実上立法権を簒奪するに至るのである。かくして、議員はラバー・スタンパーと化していく。(※)
 このような事態を打破するためとして、大統領や首相(地方自治体であれば首長)といった総裁職の政治主導権を大幅に強化することは、まさに「ボス政治」の極致であって、執行権独裁・ファシズムへつながる道である。
 そうではなく、古典的な権力分立の構造そのものにメスを入れ、民衆会議の下に立法と行政とを統合していくことが「真の民主主義」の道である。
 とはいえ、外見上の構制の点で、民衆会議と議会には類似点も多い。例えば民衆会議にも多くの諸国の議会と同様、政策分野ごとに常任委員会と個別問題に対応するための特別委員会が設置される。
 議会制度と異なる点は、政策立案や法案提出をする政府が存在しないため、案件の発議はすべて代議員自らが行い、具体的な政策立案から法案作成に至るまで常任委員会または特別委員会が中心的に担うことである。
 それを可能とするべく、各委員会には常勤・非常勤の専門調査員が多数配置され、以上のプロセスを強力にサポートする。これら専門調査員は研究者や法律家、その他の各種実務家といった個別の政策や法令に通じた専門家の中から幅広く任用される。
 議会制度との決定的な違いは、民衆会議が立法機能に加えて行政機能も持つことである。つまり、法執行機関を含むすべての行政機関は民衆会議の下部機関として関連する常設委員会の管轄下に置かれ、委員長はこれらの機関を指揮監督する責任を負う。
 民衆会議各委員会の委員長は一種の閣僚的な役割を果たし、全委員長及び民衆会議正副議長で構成する合議体である「政務理事会」が民衆会議の執行部を構成する。
 この政務理事会は現在の国家制度で言えば内閣に近いが、単なる行政機関ではなく、民衆会議の議事日程の調整なども担う中枢機関である。ただし、政務理事会には首相に相当するような筆頭職は置かず、民衆会議議長が会務を司る。
 以上のような民衆会議の基本構制は全土・地方とも共通である。なお、民衆会議の下に立法・行政機能が統合される以上、民衆会議は単なる立法府以上のものであるから、それは会期制を採らない常設機関でなければならない。
 また民衆会議の任務の多さに照らせば、代議員定数は全土・地方とも現在の議会の議員定数と比べてもはるかに多数であることを要する。この点、貨幣経済の廃止が財政難からの定数削減という本末転倒の必要を失わせるのである。念のため付言すれば、民衆会議代議員は全土・地方どのレベルにおいても完全に無報酬である。

※行政府に法案提出権を認めず、法案すべてが議員立法として成立する米国の議会制度には、民衆会議制度に近い面も認められる。しかし、反面、米国の立法過程では業界利益を代表する圧力団体とその代理人たるロビーイストが暗躍する。このように利権団体の性格を持つ圧力団体が立法過程を支配することも、官僚制とは別ルートによる民主主義の空洞化の一形態であると言える。

◇法律と政策ガイドライン
  民衆会議の立法機能は現在の議会のそれと大差あるわけではなく、やはり法律の制定が中心である。ただ、先述したように、街区を除く地方自治体の民衆会議も、その権限に属する事項に関してれっきとした法律を制定することができることは、議会制度との相違点である。
 ところで、現代国家は一般的に「法治国家」を自称するため、あらゆる政策を法律化しようとする衝動が強い。この法律こそ、その形式的な立法技術に通じている官僚たちの最大の武器なのである。いかなる政策も最後は法律化しなければならないとなれば、しょせんは官僚天下である。
 しかし、すべての政策を法律化しなければならないというのは大きな思い込みである。実際のところ、法律化が必要なのは司法関連分野のように権力行使を適正に規律しなければならないような分野を筆頭として、そう膨大ではない。特に一般民生に関わる分野では、形式的な法律化がかえって政策展開の柔軟性を失わせる場合すらある。
 そこで、あえて法律化を必要としない場合や法律化が適切でない場合は、法律に代えて「政策ガイドライン」という手段による。「政策ガイドライン」とは、一定の政策の遂行に関する準則を定めた規範文書の一種であり、法律とは異なるが、法律に近い手続きによって民衆会議が制定・改廃するものである。このガイドラインには法律ほどの拘束力はないが、単なる指針でもなく、担当公務員に対しては職務忠実義務の内容を成す規範性を有するのである。
 ただ、法律と政策ガイドラインのいずれによるにせよ、民衆会議は第一段階から自力で練り上げていかなければならないことに変わりはない。そのために民衆会議の立法手続きは議会のそれよりも精緻を極めるであろう。以下、その一例を示す。
 まずすべては代議員(最低三人以上)の発議から始まるが、発議は必ず発議者たる代議員の所属する委員会に対してなされる。発議を受けた委員会では最初に「予備審議」(非公開)を行って、発議内容をそもそも法律化ないしガイドライン化すべきか、すべきとしてもいずれが妥当かを審議する。
 そこで、法律化またはガイドライン化すべきとの決議を得た場合は、発議者と他の代議員及び外部の専門家を加えた「立法調査パネル」を設置する。同パネルは外部の幅広い有識者に対して文書による意見照会を行い、その内容を検討しつつ調査報告書を作成する。この報告書は一般に公開されたうえ、担当の小委員会で審議にかけ採否を決する。
 可決された場合、同報告書に基づいて法案またはガイドライン案を作成する。法案の場合は民衆会議法制局で形式的な文言や表現の正誤、他の法令との整合性などの精査を受け、必要な修正を加えて正式に法案化したうえ委員会審議にかける。ガイドライン案の場合も、法律との整合性などに関して法制局の精査を経て委員会審議にかける。
 政策ガイドラインは、委員会で可決されれば、それで有効に成立する。この点が、法律との最大の相違点となる。法案の場合は、委員会で可決された後、事前に全代議員に全文が配付され、回覧に付されたうえで本会議にかけられる。
 今日、委員会中心主義を採る議会の本会議はほとんど儀式と化しているが、民衆会議の本会議は最終的な総括審議の場として重要である。そこでは発議した代議員との間で質疑応答が交わされたうえ、単純に可決か否決かではなく、委員会への差し戻し・修正という議決も認められる。
 差し戻しの場合は質疑応答で出された意見を添えて委員会へ持ち帰られ、修正するか継続審議とするかが採決される。修正案を作成する場合は、再度立法調査パネルを設置して上述の手続きを繰り返す。

◇一般市民提案
 以上は民衆会議の原則的な立法手続きのあらましであったが、民衆主権を旨とする共産主義社会では一般市民提案(イニシアティブ)による立法も促進される。この点、地方自治のレベルでは従来から直接請求の制度などが発達してきているが、共産主義はこの方向をいっそうプッシュするであろう。
 これに対して、全土のレベルでは全土的な利害に関わる大きな政策を扱うことから、直接請求を制度化することは困難であり、ここでは請願制度の強化が目指される。ブルジョワ国家への請願はお上への願い事にすぎないが、民衆会議体制の下での請願は一般市民提案の有力な手段となる。
 その場合、正式の請願は有効性が証明できる所定数の署名をもってする必要はあるが、適法に請願された案件については、民衆会議の常任委員会の一つである「請願委員会」が受理したうえ、該当の委員会へ回付すべき案件かどうかを採決する。回付が議決された場合には、該当の委員会において法律化またはガイドライン化すべきかどうかの「予備審議」を行う。その後の手続きは上述した立法手続きに準ずるが、この場合の立法調査パネルは該当する委員会または小委員会の委員長を中心に構成する。
 以上の請願制度をいわゆる陳情やロビー活動と混同してはならない。議会制度の下で盛行する陳情やロビー活動はまさにブルジョワ階級の利益共同体たるブルジョワ国家にふさわしく、利害関係を持つ者たちが自分たちに有利な法律を制定させるための利権拡大運動にほかならない。
 民衆会議体制にあっては利害当事者による代議員に対する直接的な陳情、ロビー活動は法律をもって一切禁止される。およそ法律の制定を望む者は前述した請願や直接請求の方法によることを要し、かつそれが唯一のルートである。

◇官僚制の解体・転換
 かくして民衆会議体制の下では中央省庁や都道府県庁、市町村役場といった官僚制の牙城はすべて解体されることとなるが、以上のような民衆会議の仕組みからすれば、官僚制なしに社会の運営は可能だと確信できるはずである。 
 旧官僚制諸機関は基本的にすべて政策調査機関または単なる行政サービス機関に転換される。政策調査機関とは、各政策分野ごとに設立される民衆会議直属のシンクタンクであって(例えば環境政策研究所、交通政策研究所等々)、民衆会議の政策立案、立法にあたって代議員や委員会の求めに応じて必要な情報や統計などを提供する任務を負う。その中核スタッフは一種の研究職であって、官僚のように法案作成に関与することはなく、政策の当否について発言することもない。こうしたシンクタンクは、地方の民衆会議にも相似的に設置される。

コメント

共産論(連載第24回a)

2019-04-06 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(3)「真の民主主義」が実現する(続)

◇「ボス政治」からの脱却
 このようにして政治が非職業化されることによって、従来体制のいかんを問わず世界ではびこってきた「ボス政治」―政党幹部層が政治過程を壟断する政治慣習―からの脱却も実現するだろう。
 今日、各界で“強力なリーダー”を待望するリーダーシップ論が盛行し、なかでも政治の世界においては定番的論題となっている。人間は強力なリーダー=ボスなくしては動かないという信念(思い込み)は依然世界中で根強い。
 しかし、複雑化した人間社会にあって、単独ですべての物事を掌握し指導できるような超人は存在し得ない。“強力なリーダー”は幻であるか、途方もない圧政者であるかのいずれかでしかない。人類は猿より進化した霊長類であると豪語するが、ボスなくしては何一つできないならば、人類はまだ猿的段階を脱していないことになるであろう。現実にはボスなどいない方がかえって人間社会、とりわけ政治はうまく運営されていくのである。
 この点、民衆会議体制には大統領や首相、自治体首長に相当するような総裁職は一切置かれない。つまり、民衆会議には一人ですべてを束ねるようなリーダーは存在しないのである。
 そもそも、民衆会議体制の下では「ボス政治」の舞台となっている政党政治―この際、一党制か多党制かは重要な問題ではない―も一掃される。民衆会議体制の下での政党は他の任意的な政治団体と何ら区別されることなく平和的・合法的な活動の自由が保障されるが、代議員抽選制により政党ベースで民衆会議に参加することはできなくなる。
 そのことによって、一党制か多党制かを問わず、政党ボスに牛耳られてきた政治過程を民衆の手に移すことができるのである。それはまた、依然として世界に根強い男性中心の政治のあり方―政党ボスの大半は男性であるからして―をも変え、女性代議員の増加を保証するであろう。こうした新しい共産主義的民主主義のあり方を、月並みな表現ながら、「真の民主主義」と呼ぶこととする。 
 その点、伝統的に―まだ伝統となっていない諸国も残されているが―、議会制を民主主義と等置して「議会制民主主義」と表現することが定着しており、筆者自身、慣例に従いこの用語を使用してきたが、厳正にみれば、議会制のようないわゆる間接民主主義は「真の民主主義」に到達しておらず、「偽りの民主主義」とまでは言わないが、「疑似民主主義」とでも呼ぶべきものである。

◇多数決‐少数決制
 「真の民主主義」の顕現である民衆会議制度は、議決の方法に関しても、大きな革新を見せる。既存の議会制度では多数決が絶対原理とされている。しかし、少数意見を切り捨てにして、数の力で押し切るのは「真の民主主義」のあり方ではなく、多数派独裁にほからない。
 もっとも、法案やその他の議案について討議の末、最終的に議決するに際して、多数決を原則とする点では、合議体である民衆会議においても同様である。しかし、党派政治からも、ボス政治からも解放されている民衆会議は、多数決原理を絶対化しない。
 すなわち、多数決に際して票差が5パーセント未満にとどまる僅差の場合は否決とみなされ、僅差による多数決を容認しない。このような場合は、5パーセント未満の僅差まで迫った少数意見を尊重する趣旨からである。
 一方、5パーセント以上の差で多数決がなされた場合でも、出席代議員の3分の1 以上が反対票を投じたならば、多数決は暫定可決とし、3年後に再度採決にかける。これによって、将来、反対票に集約された少数意見が多数意見に転じ、新たな決議がなされる余地を開けておく趣旨である。
 その場合、暫定可決された法案は法律としていったん施行はされるが、3年後の再採決の結果、今度は否決されれば、当該法律は速やかに廃止されることになる。
 このように、多数決を原則としながらも少数意見を尊重する革新的な議決原則を多数決‐少数決制を呼んでおきたい。なお、ここで言う少数決とは多数決の対立概念ではなく、両立概念であることは、如上の論からも理解されるであろう。

◇大衆迎合の禁止
 「真の民主主義」と似て非なるものとして、大衆迎合政治がある。大衆迎合政治は、大衆におもねり、あるいは積極的に煽り、世論を操作して、偽りの多数意見を作り出す多数派独裁政治の一種であり、「真の民主主義」からは程遠いものである。それゆえ、大衆迎合政治から危険な独裁者が誕生する事例も、歴史上枚挙にいとまない。
 民衆会議は、こうした大衆迎合政治の対極にある制度である。そのことは単に理念としてのみならず、代議員が民衆会議において発議・討議・議決するに当たり、世論調査を実施したり、または外部の世論調査を参照すること外部のマスメディアの論調やインターネット上の匿名言説に影響されたりすることの禁止という行動規範として担保される。
 世論調査を民主主義を担保する科学的な手法とみなす向きもあり、実際、議会政治ではしばしば世論調査結果があたかも国民の意志のごとくに扱われることもあるが、世論調査はその利用者が得たい結果が得られるように質問内容や回答の集計が仕組まれており、科学的に装われた大衆迎合の手段にすぎない。
 民衆会議代議員はひとたび抽選され、就任すれば、外部からの影響を遮断したうえで、民衆会議が定める参照・照会の手続きに従ってのみ自律的に考案し、発議・討議・議決に参加しなければならず、これに違反することは、代議員規範の違反となるのである。

コメント

共産論(連載第24回)

2019-04-04 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(3)「真の民主主義」が実現する

◇「選挙信仰」からの覚醒
 先に民衆会議は議会でも政党でもないと述べた。それは国家が廃止される共産主義に特有の代議的な社会運営団体である。代議的という限りでは議会に似るが、投票による選挙制を採らない点でいわゆる議会制とは決定的に異なるのである。
 今日、議会制が定着した諸国では選挙制度に対する一つの「信仰」が広く共有されている。選挙こそは民主主義の神髄だ、と。そのような「信仰」からすれば、選挙制を否認する民衆会議体制は本質的に“反民主的”であるということになりかねない。
 たしかに選挙、特に身分や財産、性別による差別のない普通選挙制度は旧時代の世襲による王侯貴族政治に比べれば政治参加の階級的な枠を拡大した点で歴史的な功績があることを認めなければ不公平というものであろう。
 しかし、その普通選挙によって選出された議員らをよく見れば、かれらは市井の人などではなく、ほとんどは有産階級に属する旦那衆である―近年は女将衆の姿も見かけられるが―という事実も、もはや周知のことであろう。
 とりわけ政党政治の下では、政党が選挙の候補者選定を通じて選挙前に非公式な人選を済ませてしまうので、政党にコネクションを持たない者はあらかじめ排除されるように仕組まれている。政党と関わりのない者が選挙に立候補しようにも資金の壁は厚く、しょせんそれも有産者の道楽のようなものとならざるを得ない。
 このような普通選挙制度は選挙権の拡大を実現しはしたものの、被選挙権の方は事実上有産階級に限定されたままだと言って過言でない。そうであればこそ、普通選挙によりながら政治を事実上の世襲的家業として独占する政治門閥さえも形成されていくのである。しかし、歴史的に見て普通選挙運動自体が王侯貴族階級に対するブルジョワジーの階級闘争であったことを考えれば、闘争に勝利したブルジョワジー自身が成り上がり的に貴族化していくのも必然的な流れではあっただろう。
 それでも、と問われるかもしれない。選挙によってこそ有権者の審判が示されるのであり、選挙の当選者は世襲であると否とを問わず民主主義的に「聖別」されているのではないか、と。それこそまさに「選挙信仰」の核を成す神話である。
 しかし、選挙で候補者が「聖別」される要素は人格識見か政策か。答えはそのどちらでもない。“顔”である。ここで“顔”とは何か。人脈という意味の“顔”も大切だが、それ以上に知名度、そして容貌の“顔”もある。近年のメディア主導による過度に視覚的表象に頼った選挙運動は、技巧的なイメージ戦略を発達させ、選挙をますます人気投票的な一大イベントに仕立ている。従って、立候補者がいかに人格識見に秀で、立派な公約を掲げてもイメージ戦略に失敗すれば落選すると覚悟しなければならない。
 こうしたイメージ至上選挙の行き着く先は、メディアを通じた巧みな大衆操作でのし上がる煽動政治家の出現であるという懸念も決して杞憂とは言えない。この点で、卓越した扇動家ヒトラーに率いられたナチスが政権を獲得した手段がクーデターでも革命でもなく、「民主的」なワイマール共和国下の議会選挙であったという事実は今でも歴史的に重要な教訓である。
 こうしてみると、選挙が民主主義を無条件に保証すると単純には言えないことがわかる。むしろ選挙なぞ金銭の授受があろうとなかろうと、しょせんはすべて宣伝と買収であって商取引の政治版にすぎないのでは?あるいはまた、カネとコネを持つ野心的な旦那&女将衆の就職活動にすぎないのではないか?このように一度突き放してみれば、根強い「選挙信仰」から覚めることもできるのではないだろうか。

◇代議員抽選制
 国会議員をはじめ、公選政治家の無知無能ぶりを嘆く声は今日、世界中で聞かれる。特に立法府に所属する議員はロー・メーカー(法製造者)を称するが、現実のかれらは―政府に法案提出権が認められていない米国の議員を例外として―政府提出法案に可決のゴム印を押すだけのラバー・スタンパー(ゴム印押捺者)と化している。
 それもそのはず、選挙というプロセスは候補者たちの政策立案・立法の力量を測るテストにはならないからである。選挙に当選しても自力では法案一本作れない力量不足のロー・メーカーがいても何ら不思議はない。
 その点、民衆会議の代議員は代議員免許試験に合格し、免許を取得した者の中から公募・抽選される(選抜抽選制)。この試験は全土及び地方の代議員―いずれも一本の共通資格―として活動するうえで必要な政策立案、立法技術、政治倫理といった基礎科目に加えて、政治・法律、経済・環境の基幹政策、さらに福祉・医療、教育・文化など個別の主要な政策分野に関する基本的かつ総合的な素養を問うものであって、この試験の合格者であれば代議員として十分に活動できる保証がある。
 試験といっても、記憶依存の詰め込み試験ではなく、テキスト等の持込・参照を認め、情報の取捨選択と批判的思考力を試し、その難易度も大多数の人が二、三度の受験で確実に合格できるレベルに設定されるから、少数エリート選抜となる恐れもない。
 こうして代議員免許試験に合格した者は公式の代議員免許取得者名簿に登録され、そこから全土と地方の各圏域民衆会議代議員として任期付きで公募・抽選されることになる。
 このような制度を採用すれば、選挙制度における被選挙年齢のような年齢制限も必要ない。それどころか15歳の代議員免許取得者のほうが51歳の代議員免許未取得者よりも代議員に適任ということにさえなる。同様に海外出身の代議員免許取得者のほうがネイティブの代議員免許未取得者よりも代議員に適任であるから、一定年数の継続的居住要件を課しつつ海外出身者にも代議員資格を認めてさしつかえない。
 なお、代議員抽選に際して選挙制度における選挙区のような区割りは観念されない。全土民衆会議であれば領域圏(例えば日本)全域から定数に達するまで単純に抽選すればよく、地方の各圏民衆会議についても同様である。このように単純な抽選制とすることにより、選挙制度の下における議員のように、代議員が自身の地元へ利益誘導を図る“口利き屋”として暗躍することもなくなるのである。

◇非職業としての政治
 代議員抽選制から生じるより重要な帰結として、代議員の地位が「職業」ではなくなることが挙げられる。これも議会制との大きな相違点である。
 議会制の下でも議員の任期は一般に数年程度に短く区切られていながら、選挙地盤という独特の「資産」のゆえに連続的多選が可能であることから、政治が固定的な職業と化し、ひいては政治を家業化した世襲政治門閥の形成にもつながるのである。その結果、議会政治は貴族政治の性質を帯びるようになる。
 これに対して、代議員抽選制においては偶然と幸運に左右される抽選で連続的に当選する確率は低いため、代議員のローテーションも早く、代議員の地位は固定職とならない。
 そのうえ、民衆会議代議員はすべての圏域で兼職が認められるから(前章で見たように、共産主義社会における労働時間の大幅な短縮がそれを可能とする)、今日の職業政治家がそうであるように、庶民生活感覚を失った特権階級に堕することもない。
 つまりウェーバーの著名な主著のタイトルをもじれば、「職業としての政治」ならぬ「非職業としての政治」が実現する。本来、政治は社会的動物としての人間たる我々全員の共通事務なのだから、政治の非職業化こそが正道なのである。

コメント

共産論(連載第23回)

2019-03-30 | 〆共産論[増訂版]

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(2)地方自治が深化する

◇基軸としてのコミューン自治
 英語で共産主義を意味するコミュニズム(communism)という語は同時に比較的小さな地方自治体を意味するコミューン(commune)にも語源的に通ずるように、共産主義は本質的に地方自治を内包している。ここに国家の揚棄のもう一つの意義として、地方自治という古くて新しい問題が改めて浮上する。
 共産主義とは、政治的に見ればコミューンを基軸とする政治である。市町村のような基礎自治体に相当するコミューンは、共産主義の地方自治の基本的な最小単位である。
 実は、資本主義ブルジョア国家においてさえ、コミューン自治は地方自治の柱であるが、現代ブルジョワ国家では集権制がはびこっている。このブルジョワ的集権制は中央集権国家だけでなく、連邦を構成する州が重要な権力を保持している連邦州でもコミューン自治を脅かしているのである。

◇三層の地方自治
 共産主義における地方自治制度のあり方に絶対的な公式があるわけではないが、さしあたり三層ないし四層の地方自治を想定することができる。
 まず「基礎自治体」が基軸となることはすでに述べた。共産主義における基礎自治体はその基軸的地位にふさわしく、住宅をはじめとする日常的な暮らしに関わる生活関連行政全般と住民登録・身分証明など身分関係行政を幅広く管轄する。
 なお、共産主義社会の基礎自治体には人口規模に応じた階層的な種別は原則として存在せず、市/町/村等々名称のいかんを問わずすべて同格である。(※)
 しかし、基礎自治体が地域医療や義務教育といった普遍性の高い行政まで担うのは過重負担となるので、基礎自治体より一回り大きく、それらの分野を担える中間自治体として「地域圏」(郡)を設定する。
 一方で、基礎自治体が担うには細目的すぎる身近な民生行政(例えば放置自転車問題など)の最前線として、基礎自治体の内部に任意の最小自治単位として「街区」を設置することができるものとする。これを通じて新たな地域コミュニティーの形成を促すことも可能となろう。
 他方、広域自治体は集権化することのないよう、その任務は秩序維持や消防・災害救難、道路・河川管理のようなメンテナンス行政、また地域圏ではまかない切れない高度医療などに限定される。そのようなものとしての広域自治体を「地方圏」(道)と呼ぶ。
 ただし、地方圏よりもさらに高度な自治権(自主権)を保持する「準領域圏」―小さな領域圏に近い―によって構成される連合領域圏―その対語は統合領域圏―、あるいは領域圏の一部地域に準領域圏の地位を与える複合領域圏というバージョンも認められる。
 なお、最終章で詳しく述べるが、地方圏または準領域圏は世界共同体の超域的区分である汎域圏の民衆会議代議員選出区としても使われるブロックとなる。
 以上のように、基礎自治体―地域圏―地方圏または準領域圏の三層の各自治体は相互に対等な水平関係に立ちつつ(ただし、街区は基礎自治体の下位にある)、有機的に機能しながら共産主義的自治を展開していくのである。
 このうち街区を除く三層のレベルには、領域圏と同様にそれぞれローカルな民衆会議が設置される。これにより、地方のレベルでも役場や県庁といった一種の「政府」機構は廃止され、それらは各圏域の民衆会議に直属する純粋な住民サービス機関や地方的な政策調査機関に転換される。
 なお、街区については民衆会議でなく、免許制によらず単純にくじで選ばれた地元住民代表から成る「街区協議会」のような簡易な代議組織が設置されれば足りるであろう。

※基礎自治体の名称を日本の現行制度のように市/町/村と複数使い分けることはあってよいが、それらもすべて同格である。一方、特に人口の多いいくつかの大都市を地域圏と同格の特別都市としてくくり出すこともあってよいが、大都市を基盤とする資本主義的商業活動が廃されれば、特定都市への人口集中を解消する方向へ人口動態が変革され、大都市の数は減少すると考えられる。

◇枠組み法と共通法
 ブルジョワ国家における中央と地方の関係は、米国のように純度の高い連邦国家にあっても本質的には上下関係で規律されている。しかし、それでは地方自治を叫んだところでほとんど空文句に終わる。
 これに対して、共産主義社会における中央と地方の関係は完全な対等関係である。中央の領域圏と地方の各自治体の間には明確な役割と任務の分配がなされるからである。従って、「中央」という用語は原則として使用すべきでなく、厳密には「全土」と呼ぶべきものである。
 具体的に言えば、街区を除く各圏域の自治体は、領域圏憲章の範囲内で、独自の憲法に相当する憲章を制定すること―例えば「A道憲章」、「B郡憲章」、「C市憲章」のように―ができ、かつ各々の権限に属する事務について中央の領域圏と同様に固有の「法律」―「条例」のような劣位的法規範ではない―を制定することができる。
 とはいえ、全土的な問題は領域圏の法律をもって規律される。しかし、その場合も領域圏法が当然に優越するのではなく、地方自治を尊重しつつ全土的な制度の標準的な枠を定める「枠組み法」を基本としながら、全土統一的な共通制度を施行すべき分野については「共通法」で規律するという方式が採用される。
 このうち「枠組み法」で定められる枠組みとは、領域圏内どの自治体でも標準的に備わっているべき制度の基準である。従って各自治体はその基準を順守しなければならない一方、基準の範囲内で、または基準を超えて地方的実情に応じた独自の施策を導入することができる。
 それに対して、「共通法」にあってはそこに盛られた内容は領域圏内の全自治体が順守しなければならず、自治体独自の修正も許されない強行法的性格のものである。
 いかなる分野を枠組み法と共通法のいずれで規律するかは個別具体的に検討しなければならない問題であるが、代表的なものを挙げれば、基礎自治体の担う保育や介護、地域圏の担う地域医療などは枠組み法によるべき分野である。こうした厚生分野ではどの自治体でも等しく提供すべき標準サービスが定められるべき一方で、実情に応じ自治体独自のサービスも認められるべきだからである。
 それに対し、地球環境問題のように世界共同体が制定する法律(世界法)に基づいて授権される分野は共通法(環境法典)によらなければならない。また、市民法や犯則法のような社会秩序に関わる基本法典も、一般に統一的な共通法によるべき分野であるが、上記の連合領域圏ではこの限りでない。

コメント