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共産論(連載第45回)

2019-06-10 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

共産主義を青い鳥に終わらせないためには、古い革命の常識(=武装プロレタリア革命)を破る新しい名辞と方法論を伴った新しい革命運動が必要である。それはどのようなものであり得るか?


(1)革命の主体は民衆だ:The leading actors of revolution are the common people.

◇「革命」という政治事業
 前章まで、共産主義社会の実際をかなり具体的に叙述してきたが、その共産主義はそもそもいかにして実現されるか、という大問題がまだ残されている。この大問題を解決できなければ共産主義などしょせん手の届かぬ青い鳥にすぎないことになろう。
 そこでまず、第1章で論じたことを振り返ってみたい。そこでは、資本主義の生命力は強く、自壊するようなことはないが、この「近代的な」経済システムは重大な限界を露呈している、と論じた。
 従って、もし我々が資本主義に異議を申し立てるにとどまらず、資本主義に見切りをつけ共産主義社会の実現を本気で望むならば―望まないという方には、本章及び次章は不要―、ひとまず「革命」という政治事業によって人為的に資本主義と決別しなければならないのである。では、その革命を誰が主導するのか。この問いに対する回答をめぐっての議論である。

◇マルクス主義的「模範」回答
 「正統的」と目されるマルクス主義の理論によれば、共産主義革命の主体は労働者階級(プロレタリアート)である。この回答は政治経済学的にはなお間違ってはいない。というのも、資本主義はその表面の姿形をどれほど変えようと根本的な次元ではブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立を止揚し得ないからである。
 今日、発達した資本主義諸国では労使協調路線が定着してきているが、これは「右肩上がり」の時代の総資本が労働分配率を高め、相対的な高賃金経営を実現し得た蜜月時代の名残にすぎず、世界大不況のような経済危機に直面すればたちまちにして賃奴制の過酷な構造が表面化してくる。
 資本の論理に最も痛めつけられるのは賃労働者たちである、という事実はほとんど世界中で普遍的な政治経済学法則である。となると、資本主義を最終的に終わらせることに最も強い理由を持っているのも賃労働者=賃奴たちであって、共産主義社会の実現を目指すプロレタリア革命とは賃奴たちの蜂起だということになりそうである。

◇困難な「プロレタリア革命」
 しかしながら、以上はあくまでも政治経済学的な理屈のうえでの革命主体論であって、社会力学的に見ると「プロレタリア革命」はもはや成立し難い。なぜか。まず何よりも今日の労働者階級はこれを一つの階級的利害だけでまとめ上げることができないほど深く分断されているからである。
 この分断は第一に、現職労働者の内部で一般労働者層(ブルーカラー)と上級労働者層(ホワイトカラー)との二極化という形で生じている。前者はおおむね現業部門のノン・キャリア労働者であるが、後者は将来の経営幹部候補のキャリア労働者である。
 この両者は同じ労働者であっても置かれている位相が異なっており、上級労働者は全般に高学歴・高賃金であり、賃労働者でありながら将来の経営幹部候補として資本の論理を完全に身につけ、管理職の道を歩むエリートである。かれらは一般労働者層に対して優越的であり、時として敵対的でさえあり得る。
 この「青vs白」の分断は株式会社制度の発達とともに長い歴史を持つが、それに加え、近年は一般労働者層内部でも相対的な安定層と不安定層の二極分解が目立ち始めた。安定層は労組に加入し、何とか団結力を保っているが、不安定層は未組織で断片化された非正規労働者が多く、両者の利害は対立しがちである。
 さらに現代では国や地方自治体のような公権力も多くの賃労働者を雇用しているが、これらの公務労働者(いわゆる公務員)は民間資本の活動を監督する立場にあって、学歴・賃金水準も相対的に高く、賃労働者はこうした官民のセクターによっても分断されている。ただし、公務労働者内部も民間以上に明瞭な一般職と上級職の階級差があり、近時は常勤の安定層と非常勤・有期の不安定層によっても分断されてきている。
 こうした現職労働者内部の分断に加えて、老齢年金制度の整備に伴い、現職労働者層と退職労働者層という世代的な分断も深まっている。将来の年金受給額が減少する恐れのある現職労働者の納付する年金保険料で退職労働者の年金収入が担保されるとなれば、明瞭に世代間対立が表面化する。
 以上のような階級内分断はまた、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級差をかなりの程度相対化することにも成功している。今日のブルジョワ階級の代表格である企業経営者層の多くは上級労働者層(場合により、一般労働者層)の中から昇格・抜擢されるが、このことによりプロレタリア階級とブルジョワ階級の間が階段―決してなだらかとは言えないが―で連絡していることになる。さらに、貯蓄の一部を投資に回している退職労働者は、プチ投資家階級としてブルジョワ階級に包摂されているとみなすこともできる。
 このように、実は「ブルジョワジー対プロレタリアート」という対立図式も―本質的には止揚されないまま―相当に液状化してきている。
 そのうえに、労働者階級自身の意識の中でも資本主義への同化が著しく進行している。このことはマルクスも、つとに『資本論』第一巻の中で「資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明の自然法則として認める労働者階級が発達してくる」と予見していたところであった。今や、労働者階級が資本主義をほとんど血肉化してしまっている・・・・。
 かくして「プロレタリア革命」なるものはもはや全く不可能とは言わないまでも、そのままの形では実現可能性の乏しいプロジェクトとなったと言わざるを得ないのである。


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