ザ・コミュニスト

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共産論(連載第50回)

2019-06-24 | 〆共産論[増訂版]

第8章 新しい革命運動

(4)まずは意識革命から

◇「幸福感」の錯覚
 今日、革命の前に立ちはだかるものがあるとすれば、それは警察や軍である前に、大衆の、我々自身の意識である。すなわち、前に引いたマルクスの言葉どおり、資本主義の発達に伴い、労働者階級を含めた資本主義諸国の大衆が資本主義を「自明の自然法則」として受け入れていることである。
 マルクスはその要因を「教育や伝統、慣習」の作用に求めたのであるが、現代ではそればかりでなく、より積極的な資本主義の文化戦略が強力な効果を発揮していると考えられる。
 この点でも、マス・メディアの文化帝国の役割は大きい。資本主義諸国のマス・メディアは日々、資本主義を自明のシステムとして人々に吹き込み、「資本主義以外に道なし」という教説(いわゆる「イデオロギーの終焉論」)を広めているのだ。
 しかし、それ以上に強力なのは消費文化である。これは、第1章でも指摘したように、資本主義が旧ソ連に代表される集産主義に勝利したフィールドでもあり、資本主義の十八番である。豊かな消費文化は、大衆を革命より買物にいざなう。我々はとりどりの商品に囲まれて幸せだと感じ、もはや自らが疎外されてはいないと信じ込むのだ。結果、労働者階級からは階級意識もかき消されていく・・・・。
 資本主義の文化戦略によって作出されたこうした社会心理的な「幸福感」の錯覚―フランスのマルクス主義社会学者アンリ・ルフェーブルの言う「一般化された疎外」―こそ、「労働者階級」というくくり方を事実上無効化してしまっている主観的な要因でもある。
 革命を成就させるには、まずこのような錯覚を逃れ出るための意識革命から始める必要がある(買物より革命!)。ここで、「消費も労働と並ぶ資本による搾取だ」という第3章でも見た命題が再び想起される。消費は言葉をひっくり返せば費消である。つまり我々の財布の中身が資本によって日々生き血のように吸われていることを意味しているのだ。

◇「老人革命」の可能性
 意識革命ということに関連して、発達した資本主義諸国で現在進行中の高齢化は革命にとってマイナス要因とならないのだろうかという問題がある。
 たしかに、革命とは一般に青壮年の政治行動であって、歴史上の革命家たちは皆若かった―少なくとも革命当時は―。加齢に伴う精神の硬直化は政治的には保守化と結びつきやすい。これは高齢化の進む発達した資本主義諸国で革命運動が退潮し、保守勢力が伸張してきている要因の一つと考えられる。
 しかし、意識の保守化は昨今、決して高年層だけの現象ではない。否、むしろかつて急進的な労働運動や革命運動をくぐり抜けた経験を持つ高年層よりも、そうした運動から完全に隔離され、政治的に漂白されてしまっている青壮年層の方が現実への順応性が高いとさえ言えるほどである。
 しかし、雇用不安・年金不安の高まりは現青壮年世代の老後を過酷なものにするであろう。人生やり直しは困難な一方、福祉財源は枯渇し、生活不安は極点に達する。現青壮年世代が高齢世代に達する頃には、おそらく生活苦の只中で意識の覚醒が進むのではないかと予測させる相応の理由がある。その先に薄っすらと見えてくるのは、前例のない「老人革命」の可能性である。
 従来は、若き日の革命的意識も年齢を重ね、現存社会へ適応・統合されていくにつれて弛緩し、ついに過去の革命的意識を全否定するまでに後退していくという保守的老化パターンが一般的に見られたが、これからは、若き日の弛緩した順応的意識が年齢を重ね、現存社会から脱落していくにつれて先鋭化し、ついに革命的意識に到達する急進的老化パターンが一般化するかもしれない。
 そうした意味で、高齢化の進行は革命にとってマイナス要因とは断定できず、資本主義の限界性が将来の高度高齢社会を直撃する状況の中では、むしろプラス要因ですらあり得ると考えられるのではないだろうか。しかも、集団的不投票による「在宅革命」の方法なら足腰の弱った老人でも簡単に実践できる。

◇文化変容戦略
 それにしても、この意識革命をどこから、どのようにして始めたらよいのだろうか。意識革命の第一歩は我々が資本主義の限界性をどれだけ深く意識することができるかにかかっている。
 この資本主義の限界性とは、第1章で論じたように、環境的持続性、技術の総革新、生活の安定性、人間の社会性の四つの領野における危機―すなわち「地球が持たない」「技術革新が停滞する」「生活不安が高まる」「人間性が劣化する」―を本質的に解決できないことにあった。
 ただ、我々はそんなことを抽象的に説教されただけでは容易に説得されない。そこで、こんな場合にこそ、文学や演劇、映画等の創造力が結集されなければならない。資本主義の限界性の問題に深く切り込むような創作は凡百の説教よりも効果的であるはずだからである。
 実際、かつてのプロレタリア文学やブレヒトの叙事的演劇、チャップリンの喜劇映画などにはそのような効力が備わっていたと思われるのだが、それらの継承者はいつしか途絶えてしまったように見える。ここでもまた、あの商品価値法則とそれに基づく市場の検閲という問題が立ちはだかっている。今日、文学、演劇、映画も商品価値法則に絡め取られており、創作家たちも小説、ドラマ、映画という名の商品のメーカーと化す傾向が著しいのが現実である。
 そこで、またしてもインターネット・コモンズの活用が助けとなるかもしれない。民衆会議運動としても、音楽なども含めた種々の反資本主義的創作活動を後援していくべきであろう。具体的には、民衆会議の公式ウェブサイト上で作品紹介の機会を提供したり、可能であれば民衆会議自身がインターネットテレビ/ラジオ局を保有して作品発表の場を提供したりすることが考えられる。
 また、以上のような伝統的創作表現手段に加えて、漫画やアニメといった現代的表現手段もとっつきやすさという点で利点があり、活用が検討される。このようにして文化的な領域に変化を起こし、意識革命を促進する戦略を「文化変容戦略」と呼ぶことができる。

◇有機的文化人
 そうした文化変容戦略の最前線を担う文化人を、イタリアのマルクス主義思想家アントニオ・グラムシの用語「有機的知識人」を拡張して「有機的文化人」と規定してもよいであろう。
 この「有機的文化人」は、グラムシの「有機的知識人」がしばしば誤解されたように、「党(共産党)の御用文化人」ではなく、民衆の中から出て民衆と有機的なつながりを保ちながら、自由な創作活動を通じて意識革命を促進する役割を担う者を指す。
 ちなみに、チャップリンはこのような意味での「有機的文化人」に直接あてはまる人ではなかったとしても、あの鋭い批判力を伴った風刺的な笑いの才覚は、商業的な“お笑い”とは全く異質の革命的効力を潜在的に備えていたように思われる。文化変容戦略にあっても、チャップリン風の娯楽性を兼ね備えた高質の批判的笑いの力は大いに有効ではないかと考えられる。


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