ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載補遺22)

2022-09-29 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(1)概観
 東アジアでは日本の近代化革命である明治維新の直接的な余波事象はしばらく見られなかったが、朝鮮は1876年の日朝修好条規の締結以来、開国外圧となった日本との関わりが強化される中、長く続いてきた中国王朝(清朝)への封建的服属関係を維持するか、これを清算して独自の近代化を図るかで国論を二分する状況が生じた。
 この論争は、清朝との関係護持を主張する事大党と、清朝からの自立を図る独立党の党争として顕現してくるが、ここで言う「党」とは近代的な意味での政党ではなく、政見に基づいた政治的派閥を意味している。
 後者の独立党は日本遊学経験を持つ科挙官僚・金玉均に指導された両班階級の若手知識人を主体とする集団であり、この集団が日本軍の一部将兵の支援を受けつつ、事大党を排除して新体制を樹立するべく決起したのが1884年の甲申事変である。
 この決起は清朝軍の迅速な鎮圧により完全な失敗に終わったため、通称においては「革命」と称されず、単に「事変」(または「政変」)と称されているが、その内実は明治維新に範を取った革命(甲申維新)となるはずのものであった。そのため、ここでは未遂革命の事例として扱う。
 そのような視点で甲申事変を捉え直すと、それは君主制を打倒する共和革命ではなく、あくまでも君主制枠内での近代的開化を目指す革命であったと同時に、清朝への服属状態を脱することを目指す自立化革命としての性格を帯びたものであった。
 その点、君主制枠内での近代化革命という性格では明治維新の志向と共通するものがあるが、後者の自立化革命という性格は当時の朝鮮の地政学事情独自のものであり、「鎖国」政策下で独立を長く保持していた日本の明治維新には見られなかったものである。そのため、朝鮮の自立を恐れた清朝による軍事介入を招き、失敗に終わったのである。
 とはいえ、事変後、清朝の内政干渉が強まる中でも、朝鮮王朝はある程度の開化政策を導入していくが、国内での権力闘争の激化に加え、清国と日本、さらに極東進出を図るロシアなど欧州列強の思惑も絡み、朝鮮の自立的な近代化の過程は大きく制約され、最終的には、帝国化した日本への併合と植民地化という道へ収斂していくことになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺21)

2022-09-27 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(4)20世紀メキシコ革命への展望
 フランス傀儡帝政を崩壊させた1867年の第二次共和革命は、全く新しい体制の樹立ではなく、フランス軍に追われて国内亡命していたフアレス政権が復旧される形で完結した。その意味では、革命であると同時に、従前のメキシコ合衆国の復活でもあった。
 フアレスは67年12月の大統領選挙で、対仏レジスタンスの英雄として台頭してきたポルフィリオ・ディアス将軍を破って再選を果たしたが、以後はフアレスとディアスが復活合衆国における二大ライバルとして対峙することになる。
 フアレスはメキシコのみならず、ラテンアメリカ全体でも初の先住民出自の国家元首であり、農民家庭に生まれ、畑の見張りや下僕から身を起こして法律家の頂点としての最高裁判所長官、さらに政治家に転じて大統領にもなった稀有の人物である。
 その政権下では、自由主義的な政治思想に基づき、先住民族の権利の尊重や政教分離、軍の文民統制などの改革が進められたが、フアレスはその出自にもかかわらず、急進的な社会主義者ではなく、資本主義者として、市場経済化や先住民の伝統的な土地共有慣習の清算など、ブルジョワ自由主義の綱領を推進した。
 一方、民主主義という点では、フアレスが三選を狙って1871年大統領選挙に立候補したことは論争を呼び、この選挙で敗れたディアスが武装反乱を起こすなど、政情不安が深まる中、72年にフアレスが急死したことで流動化した。
 1876年のクーデターでフアレスの旧敵であったディアスが権力を掌握すると、彼は以後、1911年まで断続的に三度大統領を務め、特に1884年から1911年までは連続して長期の独裁政治を行った。
 ディアス体制下では大土地所有制アシエンダは護持されたばかりか一層拡大されため、搾取される農民は貧困層のままであったが、一方では外資導入を通じた経済の近代化が大々的に実行されていったため、ディアス時代はメキシコの資本主義的近代化の時代と重なる。
 このように、1867年第二次共和革命―その前哨としての1855年自由主義革命―は、総体としてブルジョワ自由主義革命としての性格を持ったが、ディアス体制はそれを換骨奪胎して一種の開発独裁制を樹立したと言える。
 このディアス独裁に対する革命運動が1910年頃から開始され、内戦を経て社会主義的な傾向を持つ革命が成立した。この20世紀メキシコ革命は、第二次共和革命では積み残された農地改革や民主主義といった課題の解決を目指して起こされた新たな変革の波である。

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近代革命の社会力学(連載補遺20)

2022-09-26 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(3)傀儡第二帝政と第二次共和革命
 1855年の自由主義革命に対する反革命内戦の性格を持つ改革戦争は1860年にいったん保守派の敗北に終わることになったが、保守派はなおも散発的な抵抗を続けていた。とはいえ、抵抗は農村部にとどまり、独力での反転攻勢の見通しは立たなかった。
 一方、勝利した改革派フアレス政権も宿弊の財政難と内戦による元来未整備なインフラストラクチャーの破壊という難題に直面する中、新たな転機が海外からもたらされた。フアレス政権が国債の利息支払い停止を宣言したことがフランスをはじめとする欧州列強債権国の反発を招き、にわかに軍事介入の機運が乗じたのであった。
 フランスを筆頭にスペイン、イギリスを加えた債権国はメキシコ政府のモラトリアム宣言に対する武力制裁として、1861年末から共同出兵した。しかし、フランスがメキシコの占領を企てていることが明らかになり、スペインとイギリスが撤収した後も、フランスは単独でメキシコ侵略作戦を続行した。
 これに対し、メキシコ側も頑強に抵抗し、いくつかの個別的な戦闘ではフランス軍を打ち破る戦果も上げたが、1863年5月に力尽きて降伏、同年7月にはフランス軍がメキシコシティを制圧し、フランスが勝利した。
 フランス戦勝の要因としては、その圧倒的軍事力もあったが、レフォルマ戦争で保守派軍を率いたミゲル・ミラモンをはじめ、フアレス政権の打倒を望むメキシコの保守派による積極的な幇助があったことも大きい。
 その点、フランスの第二帝政を率いるナポレオン3世もメキシコをカトリック保守の衛星国に仕立て、ラテンアメリカに拠点を設ける狙いがあったから、メキシコ侵略はフランスとメキシコ保守派の同床異夢を超えた「同夢」の企てであり、反革命内戦の続戦としての反革命干渉戦争の性格を持つ事象であったと言える。
 戦勝したフランスは直接的な統治を避け、オーストリア皇室ハプスブルク家親戚のマクシミリアン大公を皇帝に招聘し、1864年以降、メキシコ入りしたマクシミリアン1世を戴くメキシコ帝国を樹立した。
 これは、独立直後の第一帝政に対し、王政復古した第二帝政と称される新局面であったが、実態はフランスの傀儡であり、メキシコ国民の広範な支持は得られなかった。そのため、マクシミリアンは自身に継嗣がないこともあり、第一帝政のイトゥルビデ1世の孫アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーンを養子に迎え、第一帝政とのつながりを演出しようとした。
 一方、マクシミリアンはある程度自由主義的な思想の持主であったことから、推戴を支持したメキシコ保守派との関係も不安定なものとなり、帝政の運営が軌道に乗らない中、フランスの中米進出を望まないアメリカは傀儡帝政に反対を表明し、国内亡命中のフアレス政権の復旧を要求していた。
 こうした難局に直面する中、欧州ではドイツの強国プロイセンとの関係が悪化し、フランスが軍の撤収を決めたことが、仏軍の存在なくして存続し得ないメキシコ第二帝政の短命な命運を決めた。
 フアレス亡命政権軍が決起すると、1867年2月にはマクシミリアンは首都を追われ、同年5月、敗走先のケレタロで拘束、軍事裁判で死刑を宣告され、6月にミラモン他、帝政協力者のメキシコ人ともども銃殺刑に処せられた。
 こうして、一代限りの短命な第二帝政を打倒した1867年革命は、同じく一代限りの短命な第一帝政を打倒した1823年革命に対し、第二次の共和革命となるが、これは1855年自由主義革命の仕切り直しの革命でもあり、経過としては1821年独立革命の仕切り直しであった第一次共和革命と類似している。
 19世紀中に二度までも君主制と共和制の間を往還した末、最終的に共和制に落着した経過は同時代のフランスとも共通しているが、メキシコでは本性的に共和制志向の力学が強く、二つの君主制は持続することなく、いずれも短期間で崩壊することとなった。

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近代革命の社会力学(連載補遺19)

2022-09-23 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(2)自由主義革命から「改革戦争」へ
 1846年8月に復旧された連邦制の第二次メキシコ合衆国では、第一次合衆国時代における連邦派と集権派の権力闘争が止揚されることなく、よりイデオロギッシュに、かつ内戦を伴う形でより激動的に展開されることになった。
 元来、集権派はカトリック教会の権威とサンタ・アナに代表されるクリオーリョ軍閥の政治経済上の権益を優先する傾向があったが、第二次合衆国ではこうした集権派がカトリック教会と結ぶ形で保守派として再編された。
 一方、連邦派は従前からカトリック教会の権威を否定する進歩主義の思想傾向を備えていたが、第二次合衆国ではベニト・フアレスのような先住民族出自の指導者も出現し、教会‐クリオーリョによる政治経済支配構造の改革を目指す自由主義改革派として台頭した。
 実際のところ、第二次合衆国の初期には、1844年の政変で一度は失権しながら復権し、1854年に最終的に失権するまで保守派のサンタ・アナが断続的に大統領を務め、睨みを利かせていたが、最後の在位となる1853年からの任期では「終身独裁官」を称し、独裁制を強化したことが政治生命を縮めた。
 サンタ・アナ独裁に対抗して内部に穏健派と急進派の対立を抱えていた自由主義派が糾合、1854年に発したアユトラ綱領に基づいて武装蜂起し、ゲリラ戦の末、1855年にサンタ・アナを最終的な失権に追い込んだ。
 この自由主義派の勝利は、1833年以来、断続的に都合11次にもわたり大統領を務めてきたサンタ・アナ実権支配体制に対する最終的な勝利を決する実質的な革命の性格を持つ画期的事変であった。
 実際、政権を掌握した自由主義派は「改革法」と呼ばれる一連の構造改革諸法を矢継ぎ早に打ち出した。その眼目は反カトリック教会であり、聖職者特権の廃止、教会の土地所有の禁止、さらに教会財産の国有化にも踏み込むものであった。その集大成として、1857年に個人の財産所有を強調するブルジョワ自由主義の新憲法を公布した。
 こうした改革は、当然ながら教会及び教会の権威と結びついたクリオーリョ軍閥の強い反発を引き起こし、当時の改革派大統領イグナシオ・コモンフォルトを脅迫して保守派に鞍替え辞職に追い込んだことを引き金として、反革命内戦(通称「改革(レフォルマ)戦争」に突入する。
 戦況は緒戦こそ保守派優位に進み、首都メキシコ首都を落として、改革派を南部の都市ベラクルスに追いやるが、保守派がベラクルスの攻略に失敗すると、ゲリラ戦術で反撃する改革派が盛り返し、1860年には保守派は降伏した。
 その結果、1861年3月の大統領選挙では、1858年に辞職したコモンフォルトから当時の最高裁判所長官として規定上大統領職を自動的に引き継いでいたベニト・フアレスが当選したことで、改革派の勝利は確定したかに見えた。

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近代革命の社会力学(連載補遺18)

2022-09-22 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(1)概観
 メキシコは1846年‐48年の米墨戦争に敗戦した結果、北部領土の割譲を余儀なくされ、南方に縮小された形で再編された。その間、戦争初期の1846年8月には連邦制憲法が復活し、再び合衆国に復帰した。
 この復活合衆国の下では、米墨戦争後、1850年代にベニト・フアレスに代表される連邦主義‐自由主義派が大きく台頭し、これに政変による失権後、復権してきたサンタ・アナ、彼の再失権後、継承したフェリックス・マリア・スロアガらに代表される集権主義‐保守派が対抗する形で、事実上の内戦状態に陥った。
 この内戦は「改革(レフォルマ)戦争」と通称されているが、実態としては1855年にサンタ・アナ政権を打倒した後、1857年の新憲法の制定を経て、強力に展開された自由主義の改革政治に反対する保守派による反革命戦争であった。
 しかし、いったんは敗北を喫した保守派はフランスと通謀して1861年にフランスのメキシコ出兵を幇助、1864年にはハプスブルク家の一員マクシミリアン大公を擁立して、メキシコ第二帝政を樹立した。
 この事実上フランスの傀儡である第二帝政に対し、フアレスら自由主義派は武力抵抗を続け、1867年に帝政打倒と合衆国の復活に成功した。これは、1823年に第一帝政を打倒した第一次共和革命に対し、第二次共和革命の位置づけを持つ。
 メキシコはこれ以降、今日まで君主制が復活することなく共和制が定着、20世紀初頭のメキシコ革命も共和制枠内での社会主義的革命であったので、第二次共和革命は共和革命としては終局的なものとなった。
 同時に、第二次共和革命はフランス傀儡である外来の帝政を打倒した点でも特異的であるが、背後にあったフランスのナポレオン3世による第二帝政にとっても打撃となり、普仏戦争での敗戦を経て、第二帝政の崩壊を導く間接的な動因の一つとなった(拙稿)。
 フランスでは第二帝政の崩壊に続いてコミューン革命が勃発するが、メキシコの第二次共和革命はそうした大西洋を越えた新たな変革の波の前兆とも言える。とはいえ、メキシコ第二次共和革命にはさほど急進的な性格はなく、1855年の自由主義革命の延長上にある革命であった。
 そのため、大土地所有制や先住民差別などの社会経済的な構造問題は積み残しとなり、フアレスの急死後には開発独裁型の長期政権が立ち現れた。構造的な問題の解決は、20世紀の新たなメキシコ革命の課題となる。

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近代革命の社会力学(連載補遺17)

2022-09-20 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(4)テキサス共和国の成立からアメリカ編入まで
 1835年3月の独立宣言、同年5月のベラスコ条約をもってテキサス共和国(以下、単に共和国)の独立が実現したが、この独立革命の過程で急速に台頭してきた新たな指導者が、テキサス軍最高司令官を務めたサミュエル・ヒューストンである。
 彼はオースティンと同様にバージニア州出身ながら、最初に移住したテネシー州で知事を務めた後にテキサスへ移住してきた新参者であったが、テキサス軍最高司令官として独立戦争を戦った功績やテネシー州知事としての政治経験が買われ、共和国初代大統領に選出されたのであった。
 一方、オースティンは1836年9月の大統領選挙に立候補したものの、三位に終わり、ヒューストンの圧勝であった。その後、オースティンはヒューストン政権の州務長官に任命されたが、2か月で急死した。
 こうして新指導者の下でスタートした共和国であるが、有力者の間では、独立を維持するか、アメリカへの編入を求めるかで対立があり、ヒューストン政権はアメリカへの編入を決定したのに対し、1838年に第2代大統領となった編入反対派のミラボー・ラマーは編入決定を撤回した。
 アメリカ政府は当時、領土拡張政策の一環としてテキサス編入に前向きであったが、編入に反対するメキシコとの戦争や南部奴隷制の拡大を懸念して躊躇していたこと、アメリカの領土拡大を警戒する欧州列強もテキサスの編入を牽制するため、続々と共和国の国際承認に動いたことから、共和国は1845年まで10年近く存続することとなった。
 共和国は人口7万人ほどの小国ながら、アメリカ合衆国の相似形的な構制を持っていたが、奴隷制と人種隔離に関しては南北戦争前のアメリカよりも過酷で、議会が奴隷貿易を制限する法律を制定したり、奴隷解放を宣言したりすることを禁ずるほか、黒人奴隷の解放は所有者ですら議会の同意なくしては許さず、アフリカ系自由人は議会の同意なくして永住することも許さないという強度の白人優越主義国家であった。
 また、少数派のメキシコ系住民も革命に際しては兵士として少なからず寄与しながら、共和国の白人優越主義の気風の中、元革命軍将校で共和国議員も務めたフアン・セギンのような例外を除けば、差別に直面することとなった。かれらは土地を奪われ、多くはメキシコに移住を余儀なくされた。
 そうした中、テキサス独立問題はアメリカと欧州列強、新興国メキシコの国際的パワーゲームの中に投げ込まれるが、1845年、時のジョン・タイラー米大統領の決断、併合に強硬に反対していたサンタ・アナ墨大統領の政変による失権という情勢変化の中、編入条約の締結と共和国議会の決議により、アメリカ編入が実現した。
 こうして、共和国は1846年2月をもって消滅、以後はアメリカ合衆国テキサス州として再編されるが、これに反対するメキシコは併合すれば戦争という従前からの警告どおり、アメリカに宣戦布告し、1848年まで米墨戦争となる(結果は敗戦)。
 その結果、戦勝したアメリカがメキシコの領有権主張を放棄させる形でテキサス編入が正式に承認されたが、アメリカにとっては南部の奴隷制存置州の拡大という問題を抱え込むことになり、ひいては1860年代の南北戦争の遠因ともなる。

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近代革命の社会力学(連載補遺16)

2022-09-19 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(3)独立革命への過程
 テキサス独立革命は、1835年に発足した中央集権のメキシコ共和国に対する反作用として発生した各州の反乱の一環であったが、実際のところ、それ以前から、奴隷制や関税をめぐる紛争を契機に独立への蠕動が生じていた。
 1832年と1835年にテキサスのメキシコ関税事務所及び駐屯軍司令部が置かれたアナウアクで、メキシコ法令を厳格に執行しようとした地元司令官への反発から起きた二度の騒乱事件は、テキサスのアメリカ人入植者が自警団を組織し、団結する重要なステップとなった。
 この間、1833年に開催された入植者団の大会では、テキサス入植地の州への昇格を請願することが決議されたが、メキシコ政府に拒否され、1834年に集権主義者のサンタ・アナが大統領に就任すると、入植団指導者オースティンは逮捕された。
 その後、1835年6月の第二次アナウアク騒乱事件では、メキシコ軍部隊をテキサスから駆逐することに成功し、革命への下地となった。しかし、メキシコのサンタ・アナ政権は反乱を容赦せず、戦争の構えを見せていた。
 この後、1835年10月のゴンザレスの戦いから1836年5月のテキサス独立までは、テキサス‐メキシコ両軍間でのシーソーゲーム的な攻防戦の様相を呈する。
 緒戦では先住メキシコ系テキサス人(テハノス)を含めた寄せ集めながら高性能ライフル銃を駆使するテキサス軍が優位にあったが、態勢を整えたメキシコ軍が反撃に出ると、テキサス側は窮地に陥り、1836年2月から3月にかけてのアラモ砦の戦いで全滅の敗北を喫したのに続き、ゴリアド軍事作戦では勝利したメキシコ軍による捕虜の大量処刑が断行された。
 この間、テキサス入植者団は1835年11月に暫定政府を樹立したが、この段階では分離独立は掲げず、自治政府の性格であった。しかし、メキシコ軍の冷酷な反乱鎮圧作戦は入植者団の完全独立への希求を高め、1836年3月年の大会で正式に独立宣言が採択された。
 一方、メキシコ軍の激しい攻勢に対し、テキサス側は焦土作戦を展開しながらアメリカ合衆国との国境地帯まで後退する戦略的撤退作戦で応じる中、1836年4月、サンジャシント川の戦いで決定的な逆転勝利を収め、自ら従軍していたサンタ・アナ大統領の捕縛にも成功した。
 サンタ・アナ張本人の捕縛はテキサス側には決定的な交渉材料となり、最終的に、サンタ・アナの生命の保証と交換条件でテキサスの独立を認めさせるベラスコ条約が締結され、テキサスの独立が実現することとなった。

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近代革命の社会力学(連載補遺15)

2022-09-16 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(2)テキサス開拓とアメリカ人入植者団
 テキサス独立革命の要因となったアメリカ人の入植活動は、メキシコ独立前のスペイン領ヌエヴァ・エスパーニャ時代末期に遡る。当時のスペイン政府はスペイン人の入植がほとんどなかったテキサスを開拓するため、入植を条件にアメリカ人に土地を払い下げる政策を導入した。
 この政策により入植した者は、スペイン帝国臣民かつカトリック教徒となることが条件づけられていたが、独立後のアメリカ合衆国で十分な土地を確保できなかった中流層のアメリカ人にとってテキサス植民者となることは魅力であった。
 そうしたテキサス入植事業で仲介者として活躍したのが、バージニア州出身のオースティン父子、特に息子のスティーブン・オースティンであった。彼は父親が開始した事業を父の死後に引き継ぎ、1821年に最初の入植団の誘致を開始したが、そのタイミングでメキシコ独立革命が勃発した。
 革命政府はスペイン統治時代の政策を一変し、入植移民の規制とスペイン政府による土地払い下げ契約の撤回を決定したため、入植事業は頓挫しかけた。そこで、オースティンは革命政府に働きかけ、植民の再認可に漕ぎ着けた。この際、入植事業の公式な斡旋代理人エンプレサリオが任命され、オースティンがその役目を担った。
 このエンプレサリオ制度は、メキシコにとっては、未開発の北部の開拓とアメリカ人移民の規制を両立させる得策でもあったが、1823年の共和革命は再び入植移民制限策に振り子を振らせた。しかし、ここでも再びオースティンが交渉能力を発揮し、各州に植民認可の裁量権を付与する法律の制定を導いた。
 これに基づき、当時のコアウイラ・イ・テハス州議会はエンプレサリオ制度を承認する州法を可決したため、ようやくテキサス植民事業が軌道に乗ることとなり、最初のアメリカ人移民300家族の入植が実現した。
 その後も、オースティンの仲介でアメリカ人入植者は急増し、一つのコミュニティーを形成するまでになったことから、自警団組織を結成した。この組織はテキサス独立後、共和国の国境警備隊兼警察であるテキサス・レンジャーとして確立され、現在もテキサス州警察の一部門として存続している。
 オースティンは政治力も発揮し、地元コアウイラ・イ・テハス州の州憲法にアメリカ的な要素を盛り込ませるなど、州そのものをアメリカナイズし、後の独立の芽となる政治文化的な影響力も行使していた。
 こうして、「テキサスの父」と称され、州都の名称由来ともなったオースティンの指導により、テキサスのアメリカ人入植者が武装部隊をも備え、団結したコミュニティーに成長したことは、来る独立革命を成功に導く動因ともなった。
 しかし、このようなテキサスにおけるアメリカ人入植者人口の急増とアメリカ化がメキシコ政府に領土浸食の懸念を抱かせるのは時間の問題であり、中央集権化を目指した1835年の政変は、再び入植移民制限策に振り子を振らせることになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺14)

2022-09-15 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二ノ二 テキサス独立革命

(1)概観
 アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが主導した1834年メキシコ政変の結果、連邦制のメキシコ合衆国が集権制のメキシコ共和国に改編されると、これに反対する諸州による分離独立運動が蠕動を始めた。しかし、唯一の例外を除いて、それら分離独立運動は失敗に終わる。
 その例外が、当時北東部のコアウイラ・イ・テハス(テキサス)州に属した地域の独立である。その結果、1836年にテキサス共和国が成立したことから、これはテキサス革命と呼ばれる。ただし、テキサス共和国は10年ほど後にアメリカ合衆国に編入され、今日のテキサス州となったため、独立共和国としては短命であった。
 テキサス革命は、その発生経緯からして、前章で見たメキシコ独立/共和革命の派生事象であるが、その担い手はメキシコ政府の政策に基づきテハス地域に開拓入植していたアメリカ白人層(テキシアン)であった点に特徴がある。そうしたことから、テキサス革命にはいくつかの複合的な性格が認められる。
 一つは、冒頭に記したとおり、反集権革命という性格。その限りでは、メキシコ合衆国に属した他州の反集権・独立運動と共通するが、アメリカ白人層を担い手とする点では、18世紀アメリカ独立革命の延長線上にあるとも言えるプチ革命でもあった。
 実際、宗教政策の面でも、メキシコ政府が信教の自由を保障せず、非カトリックのテキシアンにもカトリックを強制しようとしたことも、分離独立へ向けた大きな動機を形成しており、そうした自由をめぐる革命という性格があった。
 一方、政策的な面では、テキシアンは単に集権制に反対したばかりか、メキシコ政府が緩やかながらも施行してきた奴隷制廃止政策にも反対していた。こうした奴隷制をめぐる政策的対立が動機を形成している点では、アメリカ本国で1860年代に勃発した南北戦争の先駆け的な意義を持っていたと言える。
 さらに、白人入植者の革命という性格である。その点では、19世紀末のハワイ王国の白人入植者が担い手となったハワイ共和革命と共通している。最終的にアメリカ合衆国への自発的な編入に収斂し、今日までアメリカの州として持続している帰結の点でも、両事象には共通性がある。
 メキシコ側からすれば、テキサス独立革命は一地域の分離独立にとどまらず、1840年代のアメリカとの戦争(米墨戦争)につながり、敗戦の結果として、今日のカリフォルニアを含む北方領域の大半を割譲、喪失した要因であり、ひいては今日の米墨国境線を作り出す契機ともなった。

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近代革命の社会力学(連載補遺13)

2022-09-13 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(5)第一共和政とその破綻
 メキシコ第一帝政を打倒した1823年の共和革命は、独立革命時には妥協によって君主制を支持した共和派が、初代皇帝イトゥルビデの独裁化を契機に本来の主張を掲げ、改めて国造りを開始した、言わば仕切り直しの革命であった。
 さしあたりは、三人の有力者から成る合議制の臨時政府が樹立され、憲法発布までの間の移行統治を実施した。その間、1824年7月には、前皇帝イトゥルビデが亡命先から強行帰国を果たしたが、上陸地で地元当局に逮捕されたうえ、死刑を宣告され、処刑された。
 その後、1824年10月にメキシコ初の近代憲法が公布され、正式に共和制国家・メキシコ合衆国が発足した。この第一共和政は、名称どおり、アメリカ合衆国を範とする連邦制を採択しており、発足当初は19の州及び直轄地(その後の修正により首都の連邦区が付加)から成っていた。
 この憲法は全文171箇条から成る比較的詳細な法典であり、スペインのカディス憲法やアメリカ合衆国憲法、さらに先行する自国のアパチンガン憲法をも広く参照した、この時代における集大成的な先進憲法であった。初代大統領には、共和革命立役者の一人であったグアダルーペ・ビクトリアが就任した。
 しかし、この第一共和政のもとでは、憲法で採択された連邦制を支持する勢力と中央集権制を主張する勢力の対立が激化し、規定上の大統領任期を全うできたのは初代のビクトリアのみで、頻繁な政変による大統領の短期交代が相次ぐ政情不安が常態化した。
 この対立は、連邦派が軍やカトリック教会の権力を抑制する自由主義的社会改革を志向したのに対し、集権派はそれに反対するという形で、リベラル派と保守派の副次的な対立状況をも生み出した。とりわけ、共和革命立役者の一人であったアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが集権‐保守派の実力者として台頭してきたことは、第一共和政の命運を縮める結果となった。
 こうした政体や政治思想をめぐる対立に加え、第一共和政の時代は、帝政時代から持ち越された財政難の解決のための新連邦税の適用が州によって拒絶されたことに加え、農業や流通の担い手であったスペイン植民者の追放・退去による農業生産力の低下、流通の混乱などの財政経済問題にも直面し、1827年には早くもデフォルトに陥っている。
 そうした中、カトリック教会の特権廃止に踏み込むヴァレンティン・ゴメス・ファリアス大統領の自由主義改革に対する反動として、1834年、サンタ・アナはクエルナバカ綱領を発して自由主義改革の廃止を宣言し、議会も解散、翌年には集権制導入を軸とする七箇条から成る実質的な新憲法(七憲令)を発布した。
 こうして、1824年憲法に基づく第一共和政・メキシコ合衆国は廃され、中央集権制に基づく第二共和政・メキシコ共和国が成立するが、当然にも連邦派はこれに抵抗し、第二共和政では一部地域の独立運動/革命に見舞われることになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺12)

2022-09-12 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(4)第一帝政と共和革命
 メキシコ独立革命の基本テーゼとなったイグアラ綱領は、保守的なイトゥルビデの政治思想を反映し、立憲君主制を採択していたため、独立スペインは君主制国家として成立することとなった。
 もっとも、当初の計画では時のスペイン国王フェルナンド7世をメキシコ皇帝に招聘しつつ、同君連合の形でメキシコは独自の立法府を持つといういっそう保守的なものであったが、フェルナンド7世がメキシコ独立の承認を拒否したことから、プランBとして、その他のボルボン家王族を招聘することが検討された。
 しかし、フェルナンド7世の妨害もあり、適任の候補者を確保できず、暫定政府の摂政団議長という地位にあったイトゥルビデ自身に白羽の矢が立った。その際、ナポレオンにならって皇帝を称したため、メキシコは帝政国家としてスタートすることとなった。とはいえ、イトゥルビデの帝位はメキシコを統治すべき欧州の君主が招聘されるまでの暫定的なものとされた。
 そうした条件付きで、「神の摂理と国民議会による初代メキシコ立憲皇帝」という正式称号を与えられたイトゥルビデを推戴するメキシコ第一帝政が1822年5月に正式発足するが、帝国は最初から財政破綻状況にあった。
 というのも、独立に際して、メキシコから退去するスペイン人地主の土地を接収せず、基軸通貨で買収する協定を結んだため、保有通貨をたちまちに費消し、国庫は空の状態となっていたためである。
 そうした財政問題に加え、イトゥルビデの統治手法にも問題があった。「立憲皇帝」という立場を忘れたかのように、独裁統治を開始したからである。1822年8月に政府転覆計画が発覚すると、反対派の代議員を逮捕したのに続き、10月には議会を一方的に解散し、支持者のみで構成された国家評議会に置き換えたのである。
 これに対して、イグアラ綱領では妥協していた共和派の二人の将軍、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナとグアダルーペ・ビクトリアとが決起した。二人は1822年12月、帝政を廃止して共和制を樹立することを旨とする11箇条から成るカサ・マタ綱領を発し、反乱を促した。
 これに呼応して、各地で反乱が起きるが、当初は帝国軍によって鎮圧された。しかし、帝国軍の寝返りにより、1823年2月、カサ・マタ綱領が全土に宣言され、各州に対して賛同が呼びかけられた。
 その結果、ほぼ全州が綱領を受諾したため、イトゥルビデは議会を再開したうえ、1823年3月に退位、イタリアへ亡命した。こうして共和革命が成功し、メキシコ臨時政府が樹立された。

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近代革命の社会力学(連載補遺11)

2022-09-07 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(3)メキシコ独立革命の過程

〈3‐1〉司祭の蜂起~1815年
 ヌエヴァ・エスパーニャの中心地メキシコで独立運動の狼煙が上がったのは1810年のことであるが、そこから独立を達成するには約10年の歳月を要した。その点では、18世紀に先行したアメリカ合衆国の独立過程にも似ており、両者はともに長期戦を伴う革命であった。
 メキシコ独立の長い過程はおおむね1815年を境に前半と後半に分けられるが、前半はカトリック司祭に率いられたゲリラ蜂起の色彩が強く、副王が指揮するスペイン軍が優位にあった。
 前半期の端緒はクリオーリョ出自のカトリック司祭ミゲル・イダルゴが率いる農民反乱として開始された。このような始まりはアメリカ独立運動と大きく異なり、先住民や混血メスティーソから成る農民勢力を革命の主要アクターに押し上げる契機となった。
 イダルゴの農民蜂起は、1810年9月16日のイダルゴの演説(通称イダルゴの叫び)に始まる。ただし、イダルゴは独立よりは、農民を収奪する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、土地の分配などを優先事項として掲げており、厳密な意味では独立運動ではなく、農民一揆に近いものであった。
 明確に独立を掲げた運動は、イダルゴの蜂起とは別途、メスティーソ系のカトリック司祭ホセ・マリア・モレーロスが指導したものが嚆矢である。モローレスは少数精鋭の武装組織を結成し、1812年以降、南部の諸都市を制圧し、1813年、チルパンシンゴで独立宣言を発した後、翌年、アパチンガンでメキシコ初の憲法を発した。
 このアパチンガン憲法は本国スペインの1812年カディス憲法に範を採った自由主義的な近代憲法であったが、対等な三人の構成員から成る合議制の共和政体を採用するなど、カディス憲法より革新的な内容を備えていた。
 けれども、ナポレオン戦争が終結し、安定を回復した本国に呼応して副王軍が攻勢に出ると、モレーロス軍は劣勢に陥り、1815年にはモローレス自身も捕らえられ、処刑されたため、モローレスの蜂起は革命としては不発に終わった。

〈3‐2〉革命への反転~1821年
 モローレス蜂起が失敗した1815年を境に、独立運動は急速に収束に向かう。これは地主階級でもある白人中間層のクリオーリョの間では、本国への不満はあれ、独立への関心はまだ薄く、むしろ農民反乱への不安が共有されていたためと見られる。
 とはいえ、散発的には南部のオアハカなどでなお独立運動残党のゲリラ戦が続いていたため、副王は、軍人アグスティン・デ・イトゥルビデを起用して、オアハカ遠征に派遣した。イトゥルビデは王党派クリオーリョの一人であり、イダルゴやモローレスの蜂起に際しても鎮圧作戦を指揮して戦果を挙げてきた有力な軍人であった。
 奇妙なことに、この人事が収束していた独立運動の再燃と革命への反転の契機となる。その触媒となったのは、またも本国の動向、すなわち1820年の立憲革命である。これを指導したラファエル・デル・リエゴ大佐も南米の独立運動鎮圧の遠征軍の指揮を委ねられながら、反旗を翻した経緯がある。
 イトゥルビデも、当時独立運動を率いていた同じくクリオーリョ出自のビセンテ・ゲレロに敗れたことを機にゲレロの説得を受けて独立派に変心したのであるが、まさにミイラ取りがミイラになるの格言どおりの転向であった。
 ただし、本質的に保守的なイトゥルビデは、立憲君主制・カトリック・全社会的民族的集団の平等を独立メキシコにおける三つの基本原則と定めたイグアラ綱領を発した。これはより急進的な独立派には不満であったはずであるが、さしあたり独立派を束ねるうえでは最も現実的な策であったので、広い支持を受けることとなった。
 そのうえで、イトゥルビデは如上三原則(三つの約束)に基づく新たな独立革命軍「三つの約束軍」を結成して進軍、副王軍を追い詰めた末、1821年8月、南部の都市コルドバにて副王との間でイグアラ綱領を承認するコルドバ条約の締結に至り、メキシコの独立が成立した。

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近代革命の社会力学(連載補遺10)

2022-09-06 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(2)ヌエヴァ・エスパーニャの支配構造
 メキシコを中枢とするスペイン植民地ヌエヴァ・エスパーニャは1519年に始まるアステカ帝国の征服を契機に建設された歴史の古い植民地であり、その最盛期には今日のアメリカ合衆国南部から南米大陸北部、さらにはフィリピン、南太平洋諸島にも及ぶ超大陸的な植民地となった。
 従って、正確にはヌエヴァ・エスパーニャはメキシコと同義ではないが、その中枢部はメキシコにあったため、メキシコはスペインのアメリカ大陸における征服活動全体の拠点としても戦略的な枢要地となり、旧アステカ帝都テノチティトランがメキシコシティに転換され、恒久的な首府となった。
 1529年以降、ヌエヴァ・エスパーニャはスペイン本国から任命された国王代官である副王が統治した。領域が拡大するにつれ、地方行政区分である地域王国や総督領が林立するようになり、今日のメキシコに相当する部分も、メキシコシティを中心とするメキシコ王国その他いくつかの地域王国に分割された。
 副王は本国生まれのスペイン貴族から任命されることが大半であって、次第に増加してきた現地生まれのスペイン人(クリオーリョ)からの任命は極めて稀であった。全般に支配層はスペイン本国生まれのスペイン人(ペニンスラール)が掌握し、クリオーリョは下位に置かれるという白人内部での階級制が生じたことは、後にクリオーリョをして独立革命の主体に押し上げることになった。
 ヌエヴァ・エスパーニャの社会経済的な支配構造には、その長い歴史の中で変遷があるが、植民地建設当初、特に鉱山開発に投入された先住民奴隷制は隷役や疫病による先住民人口の激減から17世紀には行き詰まり、代わって先住民や先住民とスペイン人の混血メスティーソを農民として使役する大土地所有制が普及していく。
 このように最下層に抑圧され、搾取される農民階級が形成されていったことは、やがて白人層の中の被支配階級であるクリオーリョと先住/混血農民の階級横断的な結びつきを生み、革命運動の波動が形成される要因となった。
 18世紀以降、スペイン王室が従来のオーストリア系アブスブルゴ家からフランス系ボルボン家に交代し、スペイン本国及び海外植民地の政治経済支配強化を図る総合改革が実施されると、その効果はヌエヴァ・エスパーニャにも及んだ。
 政治行政面では、新たに本国から派遣されてきた監察官が行財政、警察・司法を掌握し、クリオーリョが公職から疎外される一方で、彼らは自由化された商業界に進出し、新興ブルジョワジーとして経済力をつけたことも、後に彼らが独立戦争の担い手として台頭する経済的な土台となった。

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近代革命の社会力学(連載補遺9)

2022-09-05 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(1)概観
 中南米のほぼ全域に広がっていたスペイン植民地では、ナポレオンがスペイン本国を侵略した1808年以降、独立の動きが地殻変動的に活発化し、1809年のラプラタ(現アルゼンチン)を皮切りに、中南米全域に独立運動が拡大していく。
 そうした中、中米を中心とするスペイン植民地ヌエヴァ・エスパーニャの中枢メキシコでも、1810年、カトリック司祭ミゲル・イダルゴを指導者とする独立運動が開始されたが、スペインとしてもヌエヴァ・エスパーニャの中枢であるメキシコの死守には全力を注いだため、独立運動は長期の独立戦争へ転化した。
 メキシコの最終的な独立は1821年のことであったが、これは前年度にスペイン本国に勃発した自由主義的な1820年立憲革命の海を越えた余波事象であった。
 そうした経緯からも、メキシコの独立は、1810年代から同20年代にかけて継起したラテンアメリカ諸国の独立が、革命というよりはスペイン植民帝国の総崩れ現象であった中にあって、革命としての性格が強いものとなった。
 一方、同時期にスペインから独立したラテンアメリカ諸国が初めから共和制を採択したのに対し、メキシコはより保守的な立憲君主制(帝政)を採択した点でも、特徴的であった。これはメキシコ独立革命が、元来はスペイン本国側で独立運動の鎮圧作戦に参加していた保守派軍人アグスティン・デ・イトゥルビデを指導者に立てていたことが影響している。
 そのため、メキシコはいったんイトゥルビデを初代皇帝アグスティン1世として推戴する君主国として独立することとなったが、アグスティン1世のあたかもナポレオンのような専制的な振る舞いに対して、共和派の州知事や軍司令官らが総決起し、1823年にアグスティン1世を退位に追い込み、改めて共和制のメキシコ合衆国を樹立した。
 こうして、メキシコでは帝政を樹立した独立から間を置かずに共和革命が勃発するという特異な経過を辿った。このプロセスは時間的な近接性からして、一連の事象とみなすことが理にかなっているため、ここではメキシコ独立/第一次共和革命と称することにする。
 ちなみに、メキシコでは1860年代にフランスの介入によって成立した傀儡帝政が再び革命によって打倒され、共和制が復活するという二転三転があったため、この二度目の共和革命に対して、1823年の革命は第一次共和革命と位置づけられる。

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近代革命の社会力学(連載第484回)

2022-08-31 | 〆近代革命の社会力学

暫定結語

 前回まで、近世に始まり現代に至る広い意味での「近代」の世界で続発してきた革命事象を個別に取り上げ、それら革命事象を惹起した人間の集団的な力学―社会力学―という視点から、その発生の背景や展開、余波や事後の展開等について解析してしてきた。
 それら過去500年内外の間に継起した近代革命の流れを見ると、現代の同時代に近づくにつれ、革命事象がイデオロギー性を脱し、特定のイデオロギーに基づかない民衆蜂起の形態を取ることが多くなってきたことに気づかされる。
 それに伴い、革命の力学においても、イデオロギー的に結束した職業的革命家集団が主導する典型的な革命に代わり、自然発生的なデモ行動の拡大によって体制が崩壊するパターンの革命が増加している。その結果として、民衆蜂起を契機とする政変=民衆政変と革命との事象的な差異が微妙になっている。
 このような革命事象の傾向的変化は、革命のプロセスがある意味で民主化されてきたものと好意的に評価することもできる一方、理念的な統一性を欠くため浮動的で、現体制を打倒することが一過性の自己目的化し、その後の展望に乏しく、結果として類似の体制が再現前するに終始することも少なくない。
 それとも関連して、革命が政治的上部構造の部分的改変に終わり、社会経済体制には十分切り込まないか、むしろ資本主義的市場経済化の推進というある意味では反革命的な方向に流れやすいことも、冷戦終結・ソ連邦解体以降の諸革命に見られる特徴である。
 とはいえ、職業的革命家集団主導のより徹底しているはずの革命も、革命後に革命前の体制と同等か、それを上回るような圧政を結果したり、反動化したりする事例も見られ、決して革命の理想型を示しているとも言い難いことは、フランス革命やロシア革命のような代表的な革命事象から導かれる教訓である。
 おそらく、今後は、民衆蜂起型の革命―民衆革命―が主流化していくであろう。その傾向は、情報通信技術の持続的な発達によって促進され、最終的には、一国や一地域を超えたグローバルな次元での民衆革命という歴史的に未体験の世界革命に達する可能性もある。
 その際、民衆革命の持つ理念的な不統一性や浮動性、一過性といった短所をいかに克服するかいうことが課題となるであろう。言わば、職業的革命家革命と民衆革命の間をつなぐ新たな革命の力学が発見されなければならない。
 一方で、革命というものが思念されることさえなく、大衆が脱政治化され、動員解除状態に置かれている諸国も少なくなく、それら諸国ではそもそも革命の力学が作動しなくなっている。そうした言わば「革命の反力学」の解明は本連載の論外となるので、別の機会に回すことにする。

 当連載は、2014年ウクライナ自立化革命を最終として、いったん暫定的に完結とする。その後も、まさに現時点にかけて、革命事象は世界で継起しているが、現在進行中もしくは帰趨未確定の事象であり、個別的に叙述するには時期尚早だからである。
 なお、今後しばらくは、これまで保留してきた20世紀以前のあまり注目されていないいくつかの革命事象を補遺として追加していく。

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