【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

パリ紀行① [地下鉄]

2012-09-07 20:09:10 | 旅行/温泉

                 

   

 昨日、パリから帰ってきた。いろいろな経験をした。想い出を備忘録の形で、記しておきたい。10数回を予定している。日記のように時系列でつづるのではなく、テーマ別に。それも毎回があまり長くならないように、ポイントを書き連ねていく。

 第1回は、地下鉄。パリの地下鉄の特徴を書こうとすると、どうしても日本との比較となる。日本の地下鉄事情に詳しくはないが、東京、札幌、京都、仙台のそれなら知っている。
 パリ観光巡りの交通手段は、この地下鉄が便利で、リーズナブル(他に郊外電車、バス、TAXI)。地下鉄が「蜘蛛の巣」のように張りめぐらされている(14ライン)。日本とはかなり事情は異なるが、乗り方もなれれば簡単、乗り換えも難しくない。地下鉄が網の目状になっているのは、東京に似ているが(札幌、京都などと違う)、網の目状の過密度は東京以上かもしれない。充実した地下鉄、これがパリの強い印象のひとつであったが、こういうものはモスクワのそれのように、第二次大戦の防空壕などを再利用したものだろうか。パリの地下鉄の歴史まで、まだ調べていないが、さぐってみるのも面白そうだ。(1900年、いまの1号線ができたとのこと)。

 *少しばかりネットで調べると、各国の地下鉄はそれぞれに特徴があるようだ。フランクルト、上海、モスクワなどなど。地下鉄に電車が走るようになったのは、ブダペストが最初のようである。

 チケットは自動販売機で、その都度、購入か、10枚つづりが安くて便利で窓口でかった。どこまで乗っても、いくら乗り変えても1.7ユーロ(170円程度)。十枚つづり[カルネという]だと、130円くらいになり、ものすごく安い。したがって改札は自動機械で通過していくが、出口には改札はないことになる。
 乗車するプラットフォーム、車体そのものはあまりきれいでない。古い車両は、戸口についたハンドルをひねって、あるいはドアの取っ手あたりについた緑のボタンを押して、下車する。電車がプラットフォームに滑り込み、速度を落とし、まだ動いてる最中なのに、開けて降りている人もいる。比較的新しい車体は日本のそれと同じで自動で開閉する。
 チケットで入る自動改札の装置は、堅牢である。乗り越えてはいることはできない、ガッチリした施設である。かと思うと、隅の入口ががら空きで、チケットなしで入っていく人が数名。そんな光景もみた。

  運転間隔は5分。誠に正確に運転されている。5分、4分、3分・・・と次にくる電車までの表示があるので、わかりやすい。目的地にたどりつくには、路線を確認したら、その電車の最終停車地を確認すればいいので、簡単だが、日本人、とくにわたしのようにフランスの地名を覚えるのが苦手な人は、その都度、地図をみながらの判断になる。パリっ子は、14のラインの2つの終点(起点)が頭にはいっているのだ。

 車体内部は、お世辞にも綺麗とは言えない。落書きもある。座席は日本のそれとは異なり、4人がけの向かいあうスタイル。それもあまり空間的余裕はなく、膝はぶつかりあう。立っている人がつかまる吊り輪はない。座席の上部につかまり立ちするか、あるいは要所に遅い鉄柱があるので、それに摑まる。
 そしてなによりも、人種が多種多様。このような状況は、日本人には想像しにくい。それはそのままフランスの、あるいはパリの人種構成の縮図である。
 談話している様子はほとんどなく、みな互いに無関心である。本を読んでいる人、携帯電話をかけている人、さまざまである。裸足で乗りこんできて、騒いでいる御人もいた。
 時々、若い男女が、激論していることがある。喧嘩ではない。女性も気後れなしに、対等に議論している。人間として当たり前のことなのだが、女性が一歩引いている感じは全くない(日本でも最近では変わってきたが、それでもパリの男女の関係とは全く違う印象をうけた)。この空気に慣れるまでには、かなり時間を要する。

  あまり治安はよくないようで(実際には目撃しなかった。また、経験もしなかった。)、何か殺伐とした感じがパリの地下鉄にはある。深夜は地下鉄は利用しないほうがよい、と言われていたので、今回はわたしもやめた。数回、フランス人の女性に、バッグのもちかた、チャックが閉まっていないと、親切心から注意された。日本人は、無防備、脇があまいと思われているのだろう、あるいは、実際に被害にあう日本人もいるのだろう。地下鉄のプラットフォームでの場内でも、わざわざ日本語で、スリに注意するように、アナウンスが何度もあった。このことから推してわかるのは、この種の事件がかなり一般化していることである。

 驚いたのは、ある駅では車内に楽器をもった人が乗り込んできて、アコーディオンとギターでシャンソンを奏で始めたことだった。2度ほど体験した。誰もうるさいとも言わないで聴いている。演奏に対して、気持ちばかりのお金をわたしている人が何人かいた。数回見かけたということは、こういうことは禁じられていないのだろうか。演奏はうまいので、それ事態は悪いことではなく、心をなごませる。しかし、日本の地下鉄内で演歌、民謡をうたう光景などは、考えられないし、想像もできないことだ。

 地下鉄の乗り換え移動はラクだが、障害者のことは何も考えられていないかのようである。階段の登り降りにエスカレータは稀にしかみられない。エレベータ施設も未発達である。