【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

オーボエの透明感のある音色

2012-09-06 00:36:41 | 音楽/CDの紹介

池田昭子「カプリッチォ」  CD MM-2011

                                   カプリッチォ~オーボエ作品集~池田昭子(オーボエ)石田三和子(ピアノ)

  CDの紹介は、難しいです。一般に音楽の説明を言葉で行うというのは無理なので・・・。どんなに多彩な表現をしても、伝えきれないもどかしさが残る。あるいは、いろいろなCDに付属の説明書を読んでも、CDを聴くまでは音楽の内容がわからない。と、繰り言を言っても始まらないので、今回はN響オーボエ奏者の池田昭子さんのファースト・アルバムについて。お薦めのCD。

【曲目】
1. A.ポンキエッリ[1834-1886]: カプリッチォ
2. J.W.カリヴォダ[1801-1866]: サロンのための小品 作品228
3 .P.ゴベール[1879-1941]: 田園風間奏曲
4 M.レーガー[1873-1916]: ロマンス  ト長調
5. <Rシューマン[1810-1856]: アダージョとアレグロ 作品70>
   <R.シューマン: 3つのロマンス 作品94>
   <R.シューマン: 夕べの歌 作品85-12>

【演奏】池田昭子(オーボエ)石田三和子(ピアノ)
【録音】 2007年10月24,25日 ヨコスカ・ベイサイド・ポケット,神奈川

<A.ポンキエッリ[1834-1886]「 カプリッチォ」>
  ポンキエッリは、クレモナ近郊で生まれ、ミラノで没す。クレモナのサン・イタリオ聖堂の楽長、オルガニストとして活躍。歌劇「ラ・ジョンダ」で有名である。カプリチォはイタリア語で「気まぐれ」という意味。この曲はアレフロ・マ・ノン・タントで始まり、ヘ短調からヘ長調に転じ、ポプリ風に素材が示され、最後はアレグレット・モデラートの主題とその「変奏」、そして主題の回想を挿んだ後のフィナーレで終わる。地中海的なカンタービレが全体のトーンである。

<J.W.カリヴォダ[1801-1866]: サロンのための小品 作品228>
  カリヴォダはプラハで生まれ、長くドナウエッシンゲンのフェルステンブルク候が擁する宮廷楽団の楽長の地位にあった。この曲はト短調(アレグロ・ノン・タント)の導入部に始まり、ト長調に転じて現れる主題(アレグレット)に技巧的なパラフレーズが連なり、華麗なコーダで閉じられる。

<P.ゴベール[1879-1941]: 田園風間奏曲>
  ゴベールは、パリ音楽院で学び、パリ音楽院管弦楽団の指揮者、オペラ座指揮者として活躍した。同時にフルートの奏者として名を馳せた。全体が大きく2つにわかれている。前半は牧童の笛のような旋律で始まり、テンポを速めた副次部を挿んで冒頭の旋律に戻る。後半は主題が吹き継がれ、コーダで終結。

<M.レーガー[1873-1916]: ロマンス  ト長調>
 作曲者のレーガーは、教師の子として生まれ、両親から音楽の手ほどきをうけた。ミュンヘンやライプツィヒの音楽院の教授、マイニング宮廷楽団の楽長などを務めた。この曲は平明で、抒情的で、瑞々しい感触ある。

<Rシューマン[1810-1856]: アダージョとアレグロ 作品70>
<R.シューマン: 3つのロマンス 作品94>
<R.シューマン: 夕べの歌 作品85-12>
  .シューマンはショパンと同じ1810年に生まれ、19世紀に活躍したドイツの代表的音楽家。最後にシューマンの室内楽曲が続く。

 「アダージョとアレグロ 作品70」は半音階的パッセージから生まれるメランコリックな表情と英雄的な色彩が見事な対比感を示しながら織り込まれている。バイオリンやチェロでも演奏可能といわれ、クララ・シューマンが弾いた初演ではバイオリンによるものだった。
  「 3つのロマンス 作品94」は妻であったクララ・シューマンへのクリスマス・プレゼント。ロマン派のなかでは最高に重要なオーボエ作品という人もいる。その楽想と表現内容は、深遠である。
  「夕べの歌 作品85-12」は、「小さな子どもと大きな子どものための12の小品」というピアノ連弾曲の最後に置かれた曲。


塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮文庫、2008年

2012-09-05 00:21:51 | 歴史
塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮文庫、2008年

           ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫 し 12-31)

 「ローマ人の物語」で有名な著者がルネサンスについて書いた本を集めたシリーズ『ルネサンス著作集』の第一巻です。対話形式で叙述されているので読みやすいことこの上なし。

 ルネサンスとはそもそも何だったのか。そのスタート地点にたつ人は誰? 話はそこから始まる。この問いに対する著者の回答は明快で、要するに、ルネサンスという精神運動の本質は「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発」ということ(p.15)。「コンスタンチヌスの寄進状」(後に15世紀に生きたロレンツォ・ヴァッツラにより偽作とされる)に象徴されるキリスト支配の世界へのアンチ・テーゼである(p.21)。

 そのルネサンスのスタートを,著者は聖フランチェスカとフリードリッヒ2世としている。この点がユニーク(通説は詩人のダンテや画家のジョット)[p.18]。通説の100年前ほどまえにルネサンスの起点を設定している。

 フィレンツェでのルネサンスの盛隆は、古代遺跡・彫刻を精力的に収集し、「アカデミア・プラトニア」を創設したメディチ家のコシモ(p.116-)、出版業で名を成したアルド・マヌッツィオなどに焦点を絞って考察されている(p.79-)。

 その後、ルネサンスの中心はフィレンツェからローマへ。ここでのミケランジェロ、ダ・ビンチ、ラファエッロの活躍は人々の知るとおり。そして、フィレンツェ・ルネサンスの牽引車は大商人、ローマルネサンスのそれはローマ法王(p.149)だった。

 さらに著者は、キアンティ地方(ワインで有名)のグレ-ヴェを経てヴェネツィアへ。

 柔軟な外交と自由の空気のヴェネティア。同時代のボルテールは旧態依然の寡頭政下のヴェネツィアになぜ自由が保証されていたのかと疑問を呈していたほどだった(p.220)。ティツィアーノらのヴェネツィア絵画の[色彩に」に関する叙述が印象的である(pp.232-233)。

 それにしても、著者のイタリアそしてルネサンスについての知識は凄い。出発は学習院大学の学生時代の卒業論文にあったようです。疑問が一杯あって、まとまりに欠けていた論文だったが、その疑問が大きな仕事の切っ掛けであったそうだ。

 末尾に三浦雅士氏と著者の対談がある。虫瞰的な視点と鳥瞰的な視点とが適度に組み合わされているところ、歴史を総合的に描いているところ、人間の感情に関心をよせているところが塩野七生さんの魅力とのこと。

久世光彦『一九三四年冬-乱歩』新潮文庫、1997年

2012-09-04 00:00:31 | 小説

                      

          
 1934年(昭和9年)、江戸川乱歩が『悪霊』を雑誌連載中スランプに陥り休載。麻布箪笥町の<張ホテル>に4日間、隠遁(失踪)という状況設定。乱歩40歳。

 この<張ホテル>で、乱歩はこの世のものとは思えぬエロティシズムにあふれた中編小説「梔子姫(くちなしひめ)」の執筆(もちろん贋作)にとりかかかわる。小説のなかで探偵小説家、乱歩が小説を書きつづっていくという形でストーリーが進んでいく。

 外国人が多く滞在するこのホテルには、中国人のボーイ(翁華栄)、栗色の髪をした探偵小説マニアの西欧人の人妻(ミセス・リー)がいて、乱歩と絡む。他にアナーキーな猫。そして乱歩が滞在している202室の隣の201室からは女の咽び泣きが聞こえ、姿がみえないインド人やメキシコ人の影が白い漆喰の壁に揺れている。

 奇妙奇天烈な世界、官能、グロテスク、夢、が現実と架空の境界で妖しくないまぜとなり、昭和初期の時代の匂いが醸し出される。

 「解説」で井上ひさしが書いているように、作者の久世光彦は乱歩という作家の人間像を克明に調べ上げて、練り上げている。無類の風呂好き、食卓で料理を一品づつ食べる癖があったこと、温めたミルクが嫌いだったこと、口に仁丹を三つぶ含んで覚醒していたこと、手帳は講談社のものを使い、万年筆はペリカンを愛用していたこと・・・。

 そして、この小説の優れたところが、半死半生語(誰もがまだ使っているようで、実は半分死んでいる感じがある語。それでいていかにも日本語らしく日本人の気持ちによく似あった言葉)を使っていることだと明言している。

一大コンツェルンだった「満鉄」

2012-09-03 00:39:44 | 歴史

西澤泰彦『図説 満鉄』河出書房新社、2000年
       

          


 満鉄は日露戦争の産物です。具体的には、それは日露講和条約(ポーツマス条約)とそれと連動した満州に関する「日清条約」によって中国東北部に日本が獲得した権益の一環として実現したもの。

 1906年、野戦鉄道堤理部から旧東清鉄道の長春ー旅順・大連間の鉄道を引き継いだことで設立された満鉄。本社は東京におかれ、後藤新平が初代総裁に就任した。

 満鉄は鉄道会社を標榜していたものの、実際には鉄道沿線に広がる鉄道附属地を支配し、そこに都市を建設し、さらに石炭を掠奪し、自由貿易港である大連港の経営を物流を支配した。満鉄は日本による中国東北地方への侵略・支配機関であると同時に、支配地に設立された鉄道会社(半官半民の国策会社)だったが、その事業は多様だった。どの程度多様であったかは、本書で詳しく論じられている。

 鉄道業は当然としても、それに付随するホテル、倉庫の経営、炭鉱と製鉄所の経営、大連港の経営と海運事業、理・工・農学の研究開発、経済政策の立案、高等教育、等々。満鉄のこれらの事業内容をみると、それは一種のコンツェルンといっても過言でなかったようだ。

 しかし、事業の多様性は、基本的に1937年の満州国の設立まで。最盛時には、鉄道総延長1万キロ、社員40万人を擁した。傀儡政権である満州国の設立とともに、鉄道附属地は撤廃された。それに伴って、附属地で展開されていた行政は、全て満州国に移管され、満鉄は純粋の鉄道会社となった。

 本書は図説であるので多くの写真が掲載されている。文字部分による解説も詳細で充実している。


円道まさみ『アメリカってどんな国 ? 』新日本出版社、2002年

2012-09-02 00:17:35 | 政治/社会

                                

                            

 

  アメリカについての虚飾のないレポート。

 アメリカは基本的に自己中心的で,自国の世界観を全て善とみなし,自国の自由と正義を世界のそれとみなす国。国家はメディアを使って,そのように国民を管理している。

 手軽で合理的なことを望み,金銭への執着は尋常でなく、莫大な軍事費と荒廃した教育,貧困な医療制度の並存,国民健康保険制度の不在,いまなお深刻な人種差別と人権侵害。

 なんと,この国は国連の「子どもの権利条約」を批准していない。その理由は,この国が維持する子どもの死刑制度と同条約に書き込まれている未成年犯罪の処刑禁止条項と抵触するからだというのだから驚きだ。

 ブッシュJr.以降,そして9・11テロ以降,アメリカはますますエキセントリックになったのは周知のこと。2001年には「アメリカ愛国法」が成立したそうだ。

 とはいってもさすがはアメリカ。一縷の希望がないわけではない。大統領に報復戦争の権限を与える決議採択でバーバラ・リー下院議員が唯一反対票を投じ,多くの黒人に支持された。また,ワシントン,サンフランシスコなどでは報復戦争反対の大規模な平和集会が開催された。アメリカの草の根の運動に著者は期待を寄せている。


山口猛『幻のキネマ満映』平凡社、2006年

2012-09-01 00:37:57 | 歴史

        

           
         
 「満映」、正式の名は満州映画協会。それは昭和12年、新京特別市に設立されました。初代会長は清朝の皇族金壁東(粛親王善耆の第七子、川島芳子の兄)でしたが、実権は常務理事の林顕蔵専務理事(満鉄映画製作所出身)が握っていた。

 その2代目理事長に甘粕事件で有名な甘粕正彦が就任。実績が上がらなかった満映の映画製作を軌道にのせるための人事だった。

 甘粕自身は大杉栄虐殺に連座し服役後、渡仏。その後、満州へ渡り満州国民生部警務司長などを務め、協和会幹部の傍ら謀略機関の親玉として悪名を響かせていた。

 満映の設立は、日本の満州支配の浸透をはかったもので、より具体的には「日満親善」、「五族共和」、「王道楽土」といった満州国の理想を満州人に教育することが目的だった。しかし、映画はプロパガンダ的なものが大部分で、芸術的価値のないものばかりか、大衆受けもしない駄作が多かったようだ。

 本書の末尾にフィルモグラフィが掲げられているが、観るべきものはない。わずかに女優の李香蘭の発掘などが眼をひく程度。

 したがって本書は、著者が自認したように、最終的に満映の作品をたどるというのではなく、それに関わった人物を巡る話になった(p.516)。甘粕正彦はもとより、筆頭理事の根岸寛一、名プロデューサー・マキノ満男、映画監督・内田吐夢、カメラマン・気賀靖吾などなど。

 1945年10月1日、満州を「解放」した中国共産党は、満映を接収し、東北電影公司とした(さらに東北電影制片廠をへて1955年長春電影制片廠へと継承された)。満映の日本人技術社員のうち何名かは東北電影公司に残り、その後の中国映画の技術指導を行っていたことは、近年の研究で明らかになっている。