goo blog サービス終了のお知らせ 
ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




明日は、65年前に原爆が投下された日です。

明日の広島の平和記念式典には、「核廃絶は可能」とのコメントを出した潘(パン)国連事務総長や、駐米大使としては初めて、ルース駐日米大使が、また、やはり核保有国であるイギリスやフランスの臨時代理大使が参列など、今までにない進展がみられる式典となりそうです。世界74カ国が、核廃絶、保有放棄の祈りと共に(そう願います)、広島に集うのです。

今までに、何回かヒロシマ、ナガサキ、原爆について書いてきました。

よろしかったら、今一度お目を通していただけるチャンスになればと思い、リンクを貼りますね。

ノーモア ヒロシマ(2007年10月12日)
広島、2008年、3月。
長崎、原爆、雲の切れ目。(2008年8月9日)
2009年6月、ヒロシマにて。

これ以外にも、ブログ左の「ブログ内検索」のボックスに「原爆」などと入れていただけると、他の記事も出てきます。




明日、この原爆死没者慰霊碑の前で、式典が開かれます。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」


この前に立つとき、いつも、“過ち”は、僕たちが起こしたのではない。

という気持ちが、・・・正直、僕にはあります。

これについてWikipediaに解説がありましたので、該当箇所を抜粋、転載します。


-------------------------

この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」に準じたものであった。

この「『過ち』は誰が犯したものであるか」については、建立以前から議論があった。1952年8月2日、広島市議会において浜井市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁している。同年8月10日の中国新聞には「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」「原爆を投下したのは米国であるから、過ちは繰返させませんからとすべきだ」との投書が掲載された。これにはすぐに複数の反論の投書があり、「広く人類全体の誓い」であるとの意見が寄せられた。浜井市長も「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない」と、主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされている。

-------------------------

主語を人類全体にする、とのこと。


でも、なぁ、


と、僕は、広島、長崎を思うたびに、正直、しこりを感じるのです。


夕凪の街、 桜の国」を見返しました。原作本も、読み返しました。


「ちゃあんと、喜んでくれるかねぇ」


何度か観た映画ですが、このセリフを聞くと、涙が止まらなくなります。


そして、やっぱり、だから、・・・でも、なぁ、なのです。


あれは、やっぱり戦争犯罪だったと、僕は思っています。
戦争は、国際的な紛争解決手段として認められているとしても(勿論、個人的には、皆さんと同じく「戦争なんて無くなればいい」と思っています)、

でもね、でも、どんな時でも、いかなる場合でも、やはり一般人を標的にしては、いけないんです。彼らだって、それを知らなかったわけではないと思います。

東京大空襲もそうですが、当然、知っててやったのだ、と、僕は思っているのです。



反核に熱心な潘事務総長は勿論、ルース駐米大使の発言に、僕はとても注目しています。広島の地で、どんな言葉を使うのでしょうか。


被爆された方々の、そのご遺族の皆さんの、全ての関係者の方々の、身体の、そして、心の痛みが、少しでも癒される言葉だといいですね。




ペットボトルに入った水を持って、展示を見ている自分。たった65年前のことなのに。

防火用水の水桶の中で、立ったまま亡くなっていたた少女。
「兵隊さん、お水ちょうだい」という少年の口は、ざくろのようにはじけていた。・・・どうやって水を飲むというのだろう、と兵士。
道端に座り込み「お兄さん オシッコして下さい」と、手を合わせ続けるお婆さん。

・・・機会があれば、是非ご覧になっていただければと思います。







先日もご紹介した、“少女たちの日記帳”、そのものです。八月五日で、最後になっています。





アメリカは、原爆を落としたことを長く隠していました。
情報網の整備された今では考えづらいことですが、日本のほかの地域の人は勿論、世界中の人が、長い間、一体何があったかも知らされなかったのです。

誰にも知ってもらうことなく、無念に亡くなった方たちが、いったいどれほどいたことか。




ドーム付近の当時の雰囲気がとてもよく伝わってきます。




引率の先生が「ほら、笑って、笑って!おい、何やってんだよ、笑えよ!」と、強い口調で子どもたちに言っているのが聞こえてきました。

物凄い違和感を感じました。一体、どういうことだったんでしょうか。

あんな先生は、僕は、ダメだと思う。





死没者追悼平和祈念館の、ヒンヤリとした静かな空間です。

ここは、広島平和記念公園にありますが、ここは、“祈”念館なのです。





エンドレスで、当時のことを伝えるショートフィルムが上映されていました。

でも、誰もいませんでした。それでも、繰り返し、繰り返し、上映されていました。

勿論、僕は、全部拝見してから、館を後にしました。

でも、ここには、膨大な資料があって、何度広島を訪れたとしても、見切れる量ではないかもしれません。

でも、誰かが目にしなくてはいけない、そういう大切な記録ばかりです。




原爆の子の像の下にて。

世界中が人間が一人残らず、本気で願えば、世界平和は、一瞬でかなうことなのですが。




自分はもとより、家族を、愛する人を、奪われた人たちが沢山いました。

どっちも地獄だと思います。






では。


最後に、黙祷を添えて。


コメント ( 23 ) | Trackback ( 0 )