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近況報告8

3月11日に巨大地震が起こり、12日には原発が大変な状況になり、その時点では、それでもまだ大丈夫だと思っていました。 しかし、その後状況は悪化するばかりで、まさに決断の時でした。

15日になってようやく決断して、着の身着のまま新潟市に家族で避難しました。 17日には宿の予約の都合上、新潟をあきらめ会津若松へ向かいました。 そして現在に至っています。

避難を始めて今日で9日目です。 新聞テレビなどのメディア報道の矛盾、真実と思われるネットの情報、とにかく自分が知り得る可能な限りの情報を貪りました。

今振り返ってみると、15、16、17日あたりが山場だったように思えます。 ある意味、冷静さを欠いていた時期でもあるようです。 自分では冷静に判断・行動しているつもりでしたが、相当に焦りがあったのでしょう。


福島県の中通りで生まれて、福島県の中通りで育ち、福島県の中通りに住んできました。

途中、学業や仕事の都合で郡山市を離れたこともありましたが、これまでの50年の人生、そのほとんどは福島県で暮らした時間です。 今回の大震災に遭い、毎日考えていました。 自分は今後どうすべきなのだろうかと?

ずっと本気で迷っていました。 けれども、まだ10代の若い三人の子供たちのことを考えると、なかなかその答えは見つからなかった。 けれども、ようやくその答えを見つけました。 て言うか、自分なりの結論を出せました。

もちろん今後の放射線だけでなく、今現在漂っている放射性物質のことも考慮すれば、まだまだ楽観は出来ないレベルだということは承知していますが、それでも、現状の放射線量はかなり低くなってきました。 吾がふるさと郡山市では、ここ数日で2.5から1.6マイクロシーベルト前後まで下がってきてます。

現在避難生活をしている会津若松市は、これまでずっと郡山市の1/6程度の放射線量だったのですが、ここ数日で郡山市が下がったことと、逆に若松市が微妙に上昇したこともあり、放射線量の差は1/6から1/3程度まで縮まっています。

そろそろ帰ろうかと思います。

自分たち家族は福島県に育ててもらいました。 これから先、福島の一員として福島県の復興を見届けたいと思います。 もちろん、希望、意に反して原発事故が最悪の事態に向かったならば、その時はまた避難、他地域への移住も含めて検討することになるでしょう。

しかし、現時点での自分の判断は、福島県とともに生きる。 そう、吾がふるさとで生きたいということです。 少なくとも自分だけはぎりぎりのところまで踏ん張るつもりです。 どうしても、やっぱし福島県が好きなんです。

近くガイガーカウンターもアメリカ国から届くでしょう。 それによって、家族の最低限の安全の基準は知り得るものと考えています。 今の自分に出来ること、そして、熟慮の末の結論です。

これまで、吾々家族に対して避難場所の提供など、あたたかいお言葉をたくさんいただきましたこと、真にありがたく感謝の念でいっぱいです。 そのことは家族一同とっても心強く、そしてまた、とっても励まされたこと、本当にありがとうございました。


※郡山市本日04時の放射線量:1.60マイクロシーベルト


追記

今朝5時に起き出した時には暗くて気づかなかったのですが、宿の周りの山々は雪景色でした。

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