またまた平地におりて、こんどは、伝・飛鳥板蓋宮跡に行った。伝とあるのは、はっきりしないからだ。
確かに、大きな建物があったことは、わかるが、特定はできていないようだ。もし、本物であれば、ここが645年の大化の改新の舞台ということになる。仮に、ここではなかったにしろ、このあたりで起こったクーデターであったことは、間違いないだろう。
説明の看板はなぜか朽ち果てていたが、そこに説明書きの小さな紙が貼っつけてあった。
そこには、こうあった。
”推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年館間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺構はどれもまだ確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた。
その結果、女ァ柱列で囲まれた東西約156メートル、南北約197メートルの長方形の区画(内郭)と、その南北では、中軸線上に位置する五間×三間の門と、七間×四間の建物、北半ではここで復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。また内郭の東南に接しては、九間×五間の大規模な堀立柱建物(飛鳥エビノコ大殿と仮称)を中心とする一区画があり、さらに東の建物ぞいには、これらの遺跡を囲む外郭の柱列や石溝が南北に続いていることも明らかとなった。
建物は、すべて堀立柱で、周囲に石敷があり、木簡や土器などの出土遺物から、板蓋宮よりは新しい7世紀末ごろの宮殿遺構と推定されるが、下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査を待たねばならない。”
ちょっと長くなったが、確かにこの原っぱだけではよくわからないので、詳しい説明が必要だったのだろう。