kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

なく子もだまるマッカーサー・・終戦前後シリーズNO.10[最終)

2008-10-28 06:49:11 | 思い出

 

kametaro爺は、1945.11.1 海軍予備学生の身分は解け、本来の学生の身分に復帰して登校した。 

昭和22年4月1日に「 6.334の学校教育制度」がスタートし、わが校も、国立の東京商船大学となった。大学4年の課程を終え1949年に卒業証書を受領した。船会社には就職せず、他の仕事に選んだ。

また、この時より、すべての専門学校等は大学に昇格した。

本年8月15日の終戦の日に、終戦シリーズNO.1を紹介してから今回でNO.10の最終回になった。この辺で終わりたい。

長い間、お読み頂きありがとうございました。このブログが続いていたら、09.8.15にNO.11をアップしたいと思っている。

  終戦から学校復帰までの歩み

1.    8月15日に終戦となり、生徒は次の日に帰宅になった。

2.    64KGの体重で入校したわが身も、50KGの体重で帰宅したので、家族や近所の人もびっくり、「大変だったのね」としきりに同情。

3.    学校はどうなるのか心配であったが、どこの大学・高等専門学校でも、終戦により休校していた。元の中学校の親しい仲間と楽しく遊んでいた。1945年11月1日普通の学生の身分で登校した。

その間、社会の動きは、平和日本・民主国家の理念に向かってスタートした。

4.    8月17日、東久慈内閣成立した。

5.    8月30日、連合国軍最高司令長官ダグラス・マッカーさー、厚木に到着。

6.    9月2日、東京湾内の米戦艦ミズーリ号上で、降伏文書調印した。

7.    9月11日、連合国軍最高司令部は、東条英機ら戦争犯罪人19人を逮捕司令。

8.    9月27日、天皇がマッカーサ元帥を訪問。

日本国は、連合国軍に無条件降伏であったので、政治も、経済も、教育もマッカーサ元帥の考え通りに進められた。小学校では、社会科の教科書等の中の軍国的文章を墨で消して使用した。

東京の下町では、焼けた家のガレキを片付け、そこに掘立小屋作り、食べ物を求めて、地方の農家に列車で買い出しに出かけた。

列車は超満員で、人身事故も多発した。お金があってもものが買えず、着物や宝飾品と食料の物々交換だった。大変な混乱期であった。