kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

「し」おくれ人生!! ・・・悔いとハラハラの新年のスタート その3

2015-01-30 11:18:34 | 日記

2.平均80数歳の2つの新年会に参加して思う。1つは「死に体」であり、他は割に気持ちと生き方に張りがあった。昨年12月に、同年齢のもう1つの会がメンバー2人になり

解散した。

2-1 「死に体」の会・・・多少なおれば

「死に体」のメンバーは、20年以上の交流で年2回の定例会をもっている。現在7名のメンバーはいるが、参加者は3人で大変寂しかった。欠席理由は、身体が悪い、都合悪いが多くであった。年2回の懇親会で、1月と7月に実施していた。

欠席の理由に、加齢であり、大変寒く、会場が老体には遠くて気が進まないであろう。

 参加しやすくするために、次回から暖かい4月、10月に会をすることにした

 2-2 もう1つの会・・・昨年末、解散した会

 20年前、同年齢近くのメンバー9人で「きずなの会」名称で親睦会を作り、月1回都内見学や旅行会を実施し、最近では各月に昼食懇談会に切り替えた。数年の間に死亡者、住所不明者、特別養施設、認知症等で会員2人になり、消滅し解散した。

それぞれ、個性的生き方であった。

残念であるが、人生の摂理である


「し」おくれ人生!! ・・・悔いとハラハラの新年のスタート その2

2015-01-29 10:40:48 | 日記

1. 孫たちとの生活の騒音から離れようとする爺である

新年があけました。自分にとっては決しておめでたくない。生き恥さらしの新年です。

爺(本人)は、生き恥をさらしてブログ等をアップしています。

暇で、パソコンに向かってしまう今日この頃です。

1-1. 元日は、例年通り、爺宅で10数人で、お正月のお祝をした。

孫も曾孫も入れた大変な賑やかさでした。一晩過ぎるは、騒々しい孫たちの騒音で悩まされ、早く静寂な生活に戻りたい気持ちが強くなった

これは、男爺さんだからであろうか。こんな自分に嫌気をさしてきた。これこそ、(し)おくれ人生なのだろうか。

 そんな姿で、今後お世話になるであろう老人介護施設等の生活に適応ができるであろうか心配である。 

2-2 正月2日目には、爺以外総出て賑やかな街に出て行った。爺は歩行の多少の不自由さもあるが、騒音の正月ムードの外出より、一人静かにテレビ視聴をしたいと、自分の弱さに負けてしまっての留守番をした。

爺だけが、この気持ちになってしまう。こんなことではいけないと反省している今日です。

反省すべきと思った


「し」おくれ人生!! ・・・悔いとハラハラの新年のスタート その1

2015-01-28 13:51:46 | 日記

元旦や冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし・・・一休 

こんな感じで爺個人は新年を迎えた。

「(し)おくれ人生」自分の自分だけの造語80数歳、病気もち、やっと歩ける身体の程度生きている。老いた家内もヨボヨボ、それでも大変な世話になっている。感謝すると同時に、生きすぎたと思う。

つまり、「し」の時期に遅れた気持ちが強くなってきた。自分ではどうすることも出来ない宿命ですが。

昨年は、本年が最後かな・・・と、の気持ちで、東京に10回程度各種の会合に出席した。

他人に迷惑をかけない人生で旅立ちたい。

年が明け、新年にこんな思いが湧いてきました。

 新年の雑感・・・新年に、こんなことをアップし、お気に触られたこたがありましたらご免なさい。 新年1月の爺の主な経過をアップしてみたい。


思い出の現代化・・・始めてみる商船学校の女性の学生さん その9

2015-01-20 10:49:57 | 日記

この写真は、昭和21年(1946年昭和、昭和20年の翌年),終戦後であり、この時期では、

おそらく日本の大学で初めてであろう 

清水高等商船学校 寮祭が、JR東海道線 清水駅前と三保の松原の校舎で行われた。

その時のスナップ写真が、残っておりましたのアップしてみます。

 

大変なモノ不足、戦後のどさくさで落ち着かない世相でした

9回のわたって、読んで頂きありがとうございました。ヨボヨボ爺さんの思い出でした。


思い出の現代化・・・始めてみる商船学校の女性の学生さん その8

2015-01-19 10:49:30 | 日記

白菊の歌・・・戦前よりの流行歌

 

戦前(1945年、昭和20年)より、世間で親しまれ、よく歌われた商船学校の歌「白菊」です

毎年、戦前からの大学、高等学校、専門学校で伝統の歌を、当時の学生が参加して年1回、東京に集まって合唱している。中には、放送等で聞かれた方もお在りと存じますが。

歌詞を列挙してみます

1.                     2.                  3.

かすめる空に消えのこる   紅顔可憐の美少年が   故郷の空を眺めつつ

 おぼろ月夜の秋の空     商船学校の構内の    ああ父母は今いづこ

 身にしみ渡る夕風に     練習船のメンマスト   我が恋人は今いかに

背広の服をなびかせて    トップの上に立ち上り  少年左手に持つものは

4.                  5                   6

 月の光に照らされて    遅れ咲きなる白菊を   海山遠く隔たつとも

傍の友に語るやう      吾れ故郷を出づる時   彼が形見を思ひ出に

 もとこのものは故郷の   君が形見と贈られし   朝な夕なに眺めつつ

外山のかげに咲き残る    真心こめしこの栞    云はんとすれど悲しやな

 7.                   8.               9.

 涙の為に遮られ        男子立志出郷関   満天雲なく月は澄み

 そのままトップに打ち伏しぬ  学若不成死不帰   風はそよそよ吹きはたる

 やがて少年身を起こし     去年今夜眺秋月   秋の夜中の空高く

遠き故郷を眺めつ        更心身如大海    折りも聞こゆる喇叭の音

以下略す


思い出の現代化・・・始めてみる商船学校の女性の学生さん その7

2015-01-17 13:29:52 | 日記

            第Ⅰ世 海王丸の帆船の雄姿

 

6. 海王丸の座礁

  学習課程の1部として、海王丸に1948年5ヶ月間、官立航海訓練所所属の海王丸乗船実習をした。同学年で、姉妹船の日本丸で実習した人もいた。姉妹船は、海の貴婦人として親しまれていた。

 終戦後は、海外在住の日本人の引き揚げ船として、台湾、朝鮮航路を担当した。それが当時の学生実習であった

6-1 2004年(平成16)10月20日午後11時頃、第Ⅰ世 海王丸(1989年建造、航海訓練所々属)が富山港東防波堤に漂着した。

台風23号は日本海沿岸に沿って北上し、富山湾における最大瞬間風速は60m/秒に達した。エンジンの全力による船体維持努力もむなしく、船底が海底に着床した。

6-2 現在、第Ⅰ世 海王丸は富山港に係留され、一般公開されている

6-3 現在、海王丸Ⅱ世が誕生し活躍しています


思い出の現代化・・・始めてみる商船学校の女性の学生さん その6

2015-01-16 11:08:51 | 日記

5. 当時の高等商船学校

1945年終戦前後、高等商船学校は、学費、衣食住も無料で国家から保障されていた。募集人員が航海・機関科だけで日本全国規模で募集された。当時の名簿を見ると、出身校に、中華民国公立北京日本中、朝鮮元山公立中、朝鮮青洲第二公立中もあった。 

5-1 高等商船学校が発足

終戦直前、東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合され、高等商船学校が発足し、1学年の定員は航海科900名、機関科900名となり、消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担った

東京・神戸の校地はそれぞれ分校となり、本校は清水に集約した

戦後、国立商船大学と改編されたが、後に旧来の2校復元し、東京・神戸両高等商船学校になり、それぞれの伝統を継承することになった。 


思い出の現代化・・・始めてみる商船学校の女性の学生さん その5

2015-01-13 10:47:09 | 日記

4. 思いもよらない学部(海洋大学)への変容・・・商船教育の現代化か

  東京商船大学と東京水産大学が統合されて東京海洋大学が誕生した。

商船関係は、海洋工学部になり、次の3つ科になった。 

4-1. 海洋工学科[編集]

海事システム工学科 教授 27人

船舶運航技術や情報技術、海事に関する全ての技術的問題を研究する。航海士を育成してきた経緯から学内では「デッキ」とも呼ばれる。 講座:情報システム工学、海洋テクノロジー学、海事管理学

 

4-2海洋電子機械工学科 36人

内外航路の機関運用・保守管理を行う船舶機関士、大型機械プラントの運用・保守管理や、海洋エネルギーシステム、ロボット、電子制御機器の先端要素・材料の設計・開発など。機関士を育成してきた経緯から学内では「エンジン」とも呼ばれる。 講座:動力システム工学、海洋機械工学、海洋サイバネティクス 

4-3 流通情報工学科

流通における物資流動とその情報を、工学的観点から研究する。東日本では唯一工学的視点からロジスティクスを教育、研究する学科。1978年(昭和53年)航海学科から分離した運送工学科が前身である。学内では単に「流通」とも呼ばれる。 講座:流通工学、数理情報、流通経営学 

学習課程は4年間、船に乗る学生は更に6か月の乗船実習をする

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


思い出の現代化・・・始めてみる商船学校の女性の学生さん その4

2015-01-09 10:46:43 | 日記

3.  越中島キャンバスも、海洋大学に改名しても全く変わらず

  キャンバス内を見学し歩いた。60数年ぶりであった。当時と全く変わらず、新しく百周年記念資料館が創設され、本校の歴史と教育の流れの備品が展示された。

 当時の練習船やデッキの運航器具や各種のエンジンの現物や写真等が展示されていた。関係者には関心が深いと思います。

  明治丸は所定の場所に、静かに置かれている。現在、修理中であった。 

 爺たちの乗船実習をした帆船・海王丸第1世は現在富山港に係留され、現在第2世が活躍している。1,948年(昭和23年頃)海王丸は帆船であるが、普通はエンジンで運航していた。終戦後、台湾や韓国の在留日本人の引き揚げ船の業務ををしていた。

 台湾からは、デッキや空き部屋が満杯の込みで、乗船の4日間、全員が耐乏生活していたことを思い出しました。

 海王丸の思い出が、築地を旅して、「海王祭の実施のチラシ」を見て、今回の行事に参加することになった


思い出の現代化・・・始めてみる商船学校の女性の学生さん その3 

2015-01-07 13:12:00 | 日記

2-2 先端科学技術研究センター(登録有形文化財)

本センターの教員は品川キャンパス、越中島キャンパスあるいは学内共同教育研究施設に所属している。1)「サバからマグロを産ませる」等の魚類を対象とした発生・生殖工学的研究、2)操船シミュレーターを用いた先端運航科学、3)国際的水産資源管理に関する研究、4)未来のエネルギー・鉱物資源として有望な海底資源鉱床をターゲットとする海洋物理探査研究、5)魚類や動物プランクトンの音響リモートセンシング技術に関する研究、などに分かれて研究を進めている。 

2-3 第一観測台・・・日本最古の天文台

 明治36年(1903年)6月竣工。第一観測台・第二観測台は現存する日本最古の天文台と推定されている商船教育においては天測による船舶の位置を知ることが重要であり、天文学は必須であった。航海用天体暦及び航海天文学教授用として使用された

  内部には当時東洋一と言われた最新鋭赤道儀望遠鏡(Theodolite)を備え、望遠鏡は分同銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり窓は二重になっていた。

   昭和20年(1945年)終戦直後、米軍に接収された。現在、第一観測台の内部には望遠鏡の架台がある。  平成9年(1997年)12月12日、国の有形文化財に登録された。