kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

京都御所とバスツワーの旅・・・老いぼれ爺と婆 その6

2012-12-01 13:18:03 | 観光
正倉院展

聖武天皇・光明皇后ゆかりの品など、天平時代の美術工芸品を収蔵していた、高床の「校倉造(あぜくらづくり)」倉庫『正倉院』(Wikipedia)。正倉院の建物は正式には「正倉院正倉」といい、国宝に登録されています。毎年秋に正倉院に収められていた宝物が奈良国立博物館で公開される「正倉院展」は、奈良の秋の風物詩ともなっています

上左の絵 北倉 螺鈿紫檀琵琶(らてんしたんのびわ)
上中の絵 中倉 瑠璃杯(るりのつぎ)
上右の絵 中倉 銅薫炉(どうのくんろ)
他にも、多くの道具や古文書が展示されていた。今まで何回か正倉院を見学したことはあったが、正倉院の建物だけだった。今回大変有意義であった。

人気者の鹿が、歓迎してくれた
公園内の大部分は芝生に覆われ、約1200頭に上る鹿が徘遊する。この鹿は奈良公園や周辺に生息する、国の天然記念物に指定されている野生動物である(=所有者はいない)。鹿は奈良の観光資源の一つでマスコット的存在であり、様々な鹿を意匠した土産物の販売されている。

2日目のコースは、銀閣寺・哲学の道・正倉院特別展見学でした。見学・散歩時間を充分を確保された。万歩計は、10100歩であった。老夫婦、充分満足しながら、午後11時30分帰宅できた。

京都御所とバスツワーの旅・・・老いぼれ爺と婆 その5

2012-11-30 13:39:20 | 観光
この写真は11月4日のもので、多少紅葉の色づき始めの木も見られました


哲学の道

南禅寺から銀閣寺に至る疎水は、桜がたくさん植えられ春は桜、秋は紅葉で散歩する人を和ませてくれます。11月4日は紅葉には早かった。
京都の哲学者、西田幾多郎がこの道を思索にふけりながら散歩していたことから「思索の小径」と言われていました。その後、西田幾多郎の愛弟子田辺元や三木清らも好んでこの道を散策したことからいつしか「哲学の道」とも言われるようになり、1972年に正式に「哲学の道」と銘々されました
哲学の道のなかほど、法然院のそばには西田幾多郎が詠んだ歌が石碑に刻まれています。
「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」

哲学の道 散歩
京都・東山の麓に哲学の道と呼ばれる絶好の散策スポットがあります。
南は永観堂の北東方向の若王子神社あたりから始まり、北は銀閣寺まで続く疎水に沿った散歩道です。
京都疎水は明治時代の京都の一大事業として作られた人工の水路です。南禅寺の水路閣も疎水の水を流すために作られたものです。
哲学の道は、日本の道百選にも選ばれている散歩には最適の道です
ここで2時間の自由時間、銀閣寺と哲学の道を、老骨に鞭打ちながら歩き満足した
京都と別れ、奈良公園の国立博物館の正倉院の特別公開に向けでバスは走り出した。

京都御所とバスツワーの旅・・・老いぼれ爺と婆 その4

2012-11-29 11:06:00 | 観光
銀閣寺は
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。

 九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています

庭園
特別史跡・特別名勝。錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園。「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれる。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。なお、東方山麓の枯山水庭園は1931年(昭和6年)に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされている。
特に、庭園が素晴らしく、庭園から銀閣寺を望む美は最高の美であるように思えた

京都御所とバスツワーの旅・・・老いぼれ爺と婆 その3

2012-11-26 10:02:50 | 観光
午後5時過ぎの見学で大分暗くなってきた時の写真


清水寺
清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている

創建伝承
宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺[1]で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。

年老いた年寄り2人でも、時間内に道順の通り、歩けたことに満足しています。
1日の万歩計は、11.401歩でした。朝の犬の散歩約5000歩を加え大体16000歩でした。
よく歩きとおせたなと自分をほめたい。

京都御所とバスツワーの旅・・・老いぼれ爺と婆 その2

2012-11-25 14:49:23 | 観光
紫宸殿
御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が執り行われた最も格式の高い建物である。高床式宮殿建築の建物で、平面は33メートル×23メートルほどの規模がある。。規模は大きいが、華美な装飾のない、簡素な建物である。
内部は板敷きの広い空間となり、中央に高御座(たかみくら、天皇の座)、その東に御帳台(みちょうだい、皇后の座)が置かれている。高さ約5メートル、平面八角形で、柱と柱の間に帳(とばり、カーテン)をめぐらし、内部には椅子が置かれている。
高御座、御帳台の背後の襖は「賢聖障子」(けんじょうのしょうじ)と呼ばれ、中国古代の賢人32人の肖像が描かれている。これは平安時代からの伝統的な画題である。現在の高御座と御帳台は、大正天皇の即位の礼に際し、古制に則って造られたものである。

清涼殿
紫宸殿の背後西側にあり、東を正面とした建物。入母屋造、桧皮葺の寝殿造の建物で、建具に蔀戸(しとみど)を使う点などは紫宸殿と共通する。本来は天皇の居所兼執務所であったが、天皇が常御殿に居住するようになってからは、清涼殿も儀式の場として使われるようになっている。
これは天皇の寝室であるが、天皇の居所が常御殿に移ってからは形式的な存在になっていた。この他に西側(裏側)には鬼の間、台盤所(だいばんどころ)、朝餉の間(あさがれいのま)、御手水の間(おちょうずのま)、御湯殿があり、南側には殿上の間がある。これらの部屋の障壁画は宮廷絵師の土佐派が担当している。

自由見学が2時間でした。爺たち高齢者にも充分の時間でした。ゆったりと見学できました

京都御所とバスツワーの旅・・・老いぼれ爺と婆 その1

2012-11-24 11:08:08 | 観光
年も考えず、京都御所一般公開参加のバスツワーに参加した。
大変人気があり、バス2台の90人が参加者とのこと。御所見学最終日の日曜日、新幹線「こだま」で京都まで・・・。

参加者の中で、爺たちが最古参の老人であった。迷う爺や集合時間に遅れないことに注意をはらった。

添乗員さんには、理由を説明し、携帯電話番号をお知らせした。添乗員も、自分の番号を紙にメモしてくれた
ちょっとした配慮が、気を楽にさせると同時に、集合時刻と帰れる範囲を気にとめるようになった。
京都御所―清水寺―銀閣寺・哲学の道散歩―正倉院の特別公開の見学でツワーの皆さんと同じように行動ができた、大変嬉しかった
読んでくださる皆さん、既に見学されたと存じますが、爺の感動場面をアップしてみます。

京都御所について
建礼門
御所正面入口の正門。開門されるのは天皇や国賓の来場や一般公開など、特別な行事の時のみである。左右の築地塀(ついじべい)には5本の筋(水平の線)が入っているが、これも塀として最高の格式を示すものである。この門を入り、丹塗り瓦葺の承明門(じょうめいもん)を潜ると正面が紫宸殿である。


人気第1位の国民宿舎に泊まる・・・爺3人の旅 その3

2012-11-02 09:03:45 | 観光
鵜捕場が鵜の岬の海岸である

鵜捕場は、太平洋につきだした海面から高さ20メートルはある断がい絶壁にありました。県の国民宿舎「鵜の岬」に程近い、松などの常緑樹に囲まれた場所です。一般の人は立ち入りが出来ないようフェンスが巡らされ、扉には大きな南京錠がかけられています。

 丸太で骨組みをつくり、壁はこもを編む鳥屋(とや)に身を潜め、双眼鏡を目に当てて海鵜の動きを追い、捕獲のタイミングを狙います。鳥屋の外には、逃げないように足かせを付けたおとりの鵜が置かれています。上の図参照 

 「鵜との駆け引き」猟は、まさに鵜との我慢比べです。いつ飛んでくるか分からない鵜に全神経を集中させます。飛来しても、すぐに捕獲することはできません。海鵜が羽虫を捕り始め、安心感を持つまで待つのです。鳥屋の中で息を殺して、長いときは30分間、じっと海鵜のしぐさを見つめていることもあるという。満を持して、篠(しの)の棒の先にU字形の針金を取り付けた長短約10本のかぎ棒から、鵜の大きさや、距離などを計算して1本を選び、鳥家のすき間から海鵜の足にかぎを引っ掛けて、鳥屋の中に一気に引き込みます。

 二歳ぐらいの若くて元気な海鵜以外は、そのまま逃がすのだと語ってくれました
「群れについていけず休みに来るのは、老いているか、若くても小さい鵜が多い。10羽飛んできて2羽捕まえればいい方だ」といいます。現在はシーズンなので見学は出来ません。

捕獲した鵜は全国の鵜飼い場所に供給されていく。人間を楽しませてくれる

人気第1位の国民宿舎に泊まる・・・爺3人の旅 その2

2012-11-01 10:01:09 | 観光
宿舎の概要
1. IFは 大食堂  夕食Bコース 前菜(甘エビと青パパイヤのマンゴーマユネーズ和え、刺身(5点盛),焼き物(銀カレーの西京焼)、冷菜(真鯛のビシソワーズソース)台の物(雨情の里牛すき焼き)、揚げ物(日光唐揚げ)、食事(釜飯)デザート
  3.859円 5図を参照。
>年配者には盛り沢山。大いに満足しました。2時間ほど団欒しながら
2. 宿泊室料 3人部屋 1人5565円です
3. アクセス JRバス 東京駅 国民宿舎鵜の岬行き JR高速バス乗り場 5番
  東京発 11:40→岬前14:35  13:10→岬前16:05 料金往復5300円(前売4400円)帰りは略す
4. 宿は全室海に面している。固定的な建物である。2図参照
5. 8Fは展望温泉・・・海も一望、実に眺めがよい。4図参照。
6. 図3は、レストラン(しおざい)。朝食はここでバイキング。6図参照。
大変良心的である。安心して宿泊できると存知ます
疑問がありましたら、電話で問い合わせされたらと思います。

80過ぎの爺さん3人で、語り明かしました。大満足で過ごせました。

人気第1位の国民宿舎に泊まる・・・爺3人の旅 その1

2012-10-31 09:19:09 | 観光
人気第1位の国民宿舎は、茨城県立「鵜の岬」である(上の図参照)。

1. 高い岸壁の上に建ち、鵜(トリ)が羽を広げているような形をした建物であることで有名である。廻りはオーシャンビュー(海が見えるホテルの客室)で窓からの眺めが素敵です。
2. 最上階の8F 展望温泉で、眺めが抜群である。
3. ホテルマン、ウーマンは団体職員で、接客態度が大変よい。
  笑顔で客に接し、明るく優しい言葉で質問等に応えてくれる。好感を与えてくれる。
4. 憩い・休養の宿泊地として優れている。
5  宿泊の契約が大変難しい。3ヶ月前の1日の午前8時30分電話受付である
  タイミングが悪いと予定を取れない。開いている日を予約するのも、早いほうがよい。客室は15 *5=75部屋 前後である。

  電話番号 0294-39-2202   〒319-1393 日立市十王町伊師640

ザ・アイルランドミステリーツァー 2日間- その3

2012-07-21 10:01:12 | 観光
2日目のコースは、朝ゆっくり(午前9時)ホテルを出た―淡路花さじき見学
1. 「あわじ花さじき」は、花の島にふさわしい花の名所として、兵庫県が平成10年4月に設置した。時期にふさわしい花が観賞できる。菜の花、ポピー、ムラサキハナナ・ビオラ、クレオメ、そば、サルビア、コスモス、ケイトウ、パンジー等である。
2. 神戸異人館の見学。
既に見学された方も半数いた。爺たちもその仲間で、風みどり館のみ見学した。さほどの感動もなく、むしろ娘夫婦と4人でお茶を飲んで時間をつぶした。
3. 1時40分大阪空港に向けた出発した。

参加しての感想
1. 飛行機は、午前11時30分大阪行き、帰り 大阪発15時30分。大変空いていた。
  こんな時間を安い航空運賃で契約すのだろう。
2. 高級なホテルを安い料金で契約する。客の少ない時期に、少しでもホテルは稼ごうとするのだろう。
3. 今回は、2日間との昼食の時間をとらなかった。各自時間を見つけて食べる。
4. お土産店によらなかった。
5.午前11時半の出発でも、ホテルに9時まで入らず見学した。朝早い出発での内容と変わらない。爺個人としては、面白い満足できるツァーであった。