kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

歌舞伎の歴史  その7

2016-05-30 14:15:18 | 日記

3-9 新歌舞伎の流行

明治から大正にかけて、「狂言作者(きょうげんさくしゃ)」とよばれる歌舞伎専門作者ではなく、欧米の演劇や小説の影響を受けた外部の作者による作品が、近代的な演技・演出法に基づいて上演されるようになりました。理由として、外部の人々が歌舞伎に関わりやすくなったことや、有力な狂言作者が育たなかったことなどが挙げられます。

これらの外部の作者による作品は、それ以前のものと区別して「新歌舞伎」とよばれます。代表的な作家としては、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)・岡本綺堂(おかもときどう)・真山青果(まやませいか)・長谷川伸(はせがわしん)などが挙げられます。

大正から昭和初期にかけての古典歌舞伎の演目も継承され演じられた。

 

歌舞伎の作品や演技・演出の多様性は、観客の立場から見れば「間口」、つまり「入り口」の広さに通じます。観客が興味を持つための「きっかけ」が、多く存在するということです。一般的に歌舞伎とは、「現代人が分からない言葉で演じられている」とイメージしがちですが、それは多様な作品の中の一部に過ぎません。さまざまな作品に触れることで、歌舞伎の新しい一面を見つけられるはずです。

 

 


歌舞伎の歴史  その6

2016-05-27 10:12:08 | 日記

3-8 猿若町の誕生

 

1841年[天保12年]、文化・文政年間[1804年~1830年]に緩んだ風紀を引き締め、幕府を立て直すことを目的として、老中の水野忠邦(みずのただくに)は天保の改革(てんぽうのかいかく)を開始します。

 庶民の娯楽の代表であった歌舞伎も、その取締りの対象となりました。水野は歌舞伎の廃止まで検討しましたが、最終的には、1842年[天保13年]、市街地にあった官許の芝居小屋[中村座・市村座・河原崎座]に対し、郊外の浅草への移転を命じます。同時に、俳優をはじめとする芝居関係者も芝居小屋周辺に住むことを命じました。また当時を代表する俳優5代目市川海老蔵(いちかわえびぞう)[前名7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)]は、贅沢な小道具や衣裳など使用したことなどを咎められ、江戸から追放を命じられました

これらの幕府による命令に、歌舞伎界は大きな衝撃を受けます。浅草に移転した芝居小屋の周辺は、猿若町(さるわかまち・さるわかちょう)と名づけられますが、当初は立地が悪いこともあり、観客もなかなか集まりませんでした。

 

しかし水野忠邦が失脚すると徐々に改革の空気も緩みはじめ、猿若町も賑わいを見せ始めます。この猿若町に芝居小屋がおかれた幕末の約30年間は、「猿若町時代」とよばれています


歌舞伎の歴史  その5

2016-05-26 14:13:51 | 日記

3-5 荒事の成立 ~初代市川團十郎~

「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」の時代が終わり、元禄年間[1688年~1704年]前後には、歌舞伎は江戸と上方[京・大坂]のそれぞれで大きく発展します。

 江戸では、「荒事(あらごと)」を得意とした初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が活躍しました。「荒事」とは、「見得(みえ)」や「六方(ろっぽう)」などの演技や、「隈取(くまどり)」をはじめとする扮装によって表現される豪快で力強い芸をさします

3-6 元禄年間[1688年~1704年]前後の上方[京・大坂]では、後に「和事(わごと)」とよばれるようになる柔らかく優美な演技を得意とした、初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)が活躍しました。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、藤十郎のために『けいせい仏の原(けいせいほとけのはら)』をはじめとする多くの歌舞伎作品を書き、藤十郎の人気を支えました。

 

3-6 和事の成立 ~初代坂田藤十郎~

元禄年間[1688年~1704年]前後の上方[京・大坂]では、後に「和事(わごと)」とよばれるようになる柔らかく優美な演技を得意とした、初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)が活躍しました。

 

3-7 鶴屋南北の時代 ~5代目松本幸四郎と5代目岩井半四郎~

文化・文政年間[1804年~1830年]には、江戸を中心としてさまざまな町人文化が花開きます。歌舞伎では、4代目鶴屋南北(つるやなんぼく)という作者が活躍しました。南北の作品は、亡霊などが活躍する奇抜な趣向や当時の庶民生活のリアルな描写などに特徴があります。現在でも上演される『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』[以下、『四谷怪談』]は、このような特徴がよく表れた南北の代表作です。

 


歌舞伎の歴史  その4

2016-05-25 14:04:40 | 日記

3. 歌舞伎の歴史

3-1 阿国が創始した「かぶき踊り」が人気を博すと、それをまねた遊女や女性芸人の一座が次々と現れました。(第1回目に記述)

3-2 「女歌舞伎」は、風俗を乱すという理由で1629年[寛永6年]前後から禁令が出されるようになり、次第にその姿を消していきました。

 「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」に人気が集まります。しかしこれも風俗を乱すため、1652年[承応元年]頃から禁令が出されるようになります。前髪をそり落とした野郎頭(やろうあたま)の成人男性が演じる「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」の時代に入っていきます

3-3 野郎歌舞伎では、「女方」を専門に演じる俳優が登場し、技術的に女性らしさを表現する方向へと発展していきます

「役柄」の発達

3-4 歌舞伎の登場人物は、年齢・職業・物語上の役割などの諸条件をもとに類型化して演じられます。この類型的な分類を「役柄(やくがら)」と称します。大きくは「女方」・「立役」、そして悪人の役である「敵役(かたきやく)」に分類されますが、時代を下るにしたがってそれぞれは細分化されていきます。「その役らしさ」を表現するために役柄は細分化されていった

そのため一口に「女方」といっても、武家の奥女中役の「片はずし(かたはずし)」、お姫様の「赤姫(あかひめ)」、かいがいしく夫の世話をする「世話女房(せわにょうぼう)」、老人の「老女方(ふけおやま)」などに分類できます

 


歌舞伎は、どのように育ってきたのだろうか・・・その3

2016-05-24 13:30:24 | 日記

2.  多様な歌舞伎の演目とは  

2-1.  現在、上演される歌舞伎の作品数は400本。

このような経緯から、上演作品は、一口に歌舞伎の作品といっても、その成り立ちと内容はバラエティーに富んでいます。

 現在、上演される歌舞伎の作品数は、およそ400本といわれています。この中には、歌舞伎が他の芸能から取り入れた作品も多く存在します。

これらの作品のうち、最も数が多いのは、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の作品を歌舞伎化した「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」です。また歌舞伎のためにかかれた作品の中にも、能や狂言に取材した「松羽目物(まつばめもの)」とよばれる舞踊作品や、落語や講談、当時の流行小説を取り入れた作品が存在します。

 

2-2 また歌舞伎の作品は、その内容から大きく「時代物(じだいもの)」と「世話物(せわもの)」に分類できます。「時代物」は、「軍記物(ぐんきもの)」とよばれる合戦を描いた物語や、各地に伝わるさまざまな伝説などから着想して作られました。

一方、江戸時代の町人の世界を描いた「世話物」は、おもに当時起こった殺人・心中・強盗などの事件を脚色して作られました。

そしてこれらの多様な作品の内容を「それらしく」表現するため、さまざまな演技や演出が工夫されていきました。

 


歌舞伎は、どのように育ってきたのだろうか・・・その2

2016-05-23 15:00:17 | 日記

1-4. 歌舞伎は、この発祥時の精神を受け継ぎ、約400年の歴史の中で、さまざまな時代の困難を乗り越えながら、他の芸能やそのときどきの流行などを貪欲(どんよく)に取り入れ、たくましくまた柔軟に発展してきました。その結果、歌舞伎は、演劇・舞踊・音楽の各要素を備えた「総合芸術」として現在に受け継がれています。

 

1-5. 女方はなぜ誕生したのでしょう (前回の続き)

歴史的な経緯から、歌舞伎では女性役を含めたすべての役を男性が演じます。この女性役、また女性役を演じる俳優のことを「女方(おんながた)」、反対に男性役、また男性役を演じる俳優のことを現在では「立役(たちやく)」といいます。[歴史的には、「立役」は、悪人の男役である「敵役(かたきやく)」に対して、善人の男役をさしましたが、現在では一般的に広く男役全体をさします。]

 「女方」は、衣裳や化粧などの扮装だけで、「女性らしさ」を表現しているわけではありません。例えば女性が歩く様子を演じる場合、「女方」では両膝をつけて内股で歩くことで「女性らしさ」を表現します。また舞台上では、肩甲骨をぐっと下に落とすことで、女性のなで肩を表現します。これらは男性である「女方」が、写実的に女性をまねするのではなく、あくまで舞台上で「女性らしく」見えるように工夫してきた演技法です。

 


歌舞伎は、どのように育ってきたのだろうか・・・その1

2016-05-20 13:37:35 | 日記

3年前、柏シルバー大学院在学当時、歌舞伎の成立というテーマで、講義を聞いた時のまとめが、残されていた。その講義のまとめをネットを借りながら独善でまとめてみたものです。アップします。

 

最初に、歌舞伎通のお方は、無視してください爺が勉強するつもりでインターネットからまとめたものです。

 

1 歌舞伎は、どのように生まれ、発展してきたのだろうか。

1-1.「歌舞伎」という芸能名の由来は、「傾く(かぶく)」という動詞にあります。この動詞には、並外れている、常軌を逸しているという意味があります。 

1-2. 歌舞伎の表現の特徴として、近代の演劇のように写実的な方向ではなく、あくまで舞台上で「それらしく」見えることを追求し、様式的な方向へ発達してきた点が挙げられます。 

1-3.  安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、当時の流行の最先端を行く奇抜な服装や髪型をし、世間の秩序に反して行動する人々は、「かぶき者」とよばれました。歌舞伎の歴史は、出雲の阿国(いずものおくに)の「かぶき踊り」にまで、さかのぼることができますが、このよび名は当時を象徴する最先端の「かぶき者」の扮装を舞台上でまねたことによります。ここから、「かぶき」とよばれるようになったのです。

この記事は、このパソコンがwindows 10 にグレードアップしして最初のアップです。爺のパソコンがあまりにも簡単に、windows 7からアップできたので感動しました。その様子は、後程アップします。


郷里の小さな米作り農家が殆ど廃業の情報・・・びっくり・びっくり その4

2016-05-16 15:17:41 | 日記

爺の生い立ち、わがままそのものであった。・・・今家内の頭を包む。

 

爺は、1927年この農村に生まれた。姉2人、末子の男だった。

随分とわがままに育てられたようである。

それが今でも尾を引き、家内から“文句の言われどうし”である。

爺が、現職当時や年退職後の嘱託10年間は、日中家庭を留守にして、顔を合せなかった。

 70過ぎても、市のボランテイアや趣味クラブ等で留守勝ちであった。

 

それが、大分歳をとり、毎日のように朝から晩まで顔を合わせるようになった。煩わしくなったのであろう。よく聞く話である。

具体的には、家庭生活での自分のすべき仕事に気づかない。今まで通り家内に何となく甘えが出て、・・・。生まれ育った時の習慣であろう。

 

 家内は、東京と隣り合わせの県の都市部で育った。育つ文化も生活様式を生き方も違っている。合わないのは当然である。

 

 結婚した当時、こんなことは考えなかった。今日外人との結婚が多くなった。文化の違いを乗り越えた互いの努力が大事である。そんなことが爺は意識するようになった。

 

 幸福は、自分の意思がつくるものであろう。


-1郷里の小さな米作り農家が殆ど廃業の情報・・・びっくり・びっくり その3

2016-05-13 14:30:47 | 日記

社会の進化の中で、生業を営む農業も変わり、爺の生まれ育った田舎の農村もサラリーマン生活へと一変した。大変な変化である。ふと、疑問が・・・。

 

1. 米作りをやめで、何をしているのだろう。生活資金はどうしているのだろう。年金で足りるのだろうか。現在のお年寄りは、働きざかりの時、こんな時代を予測していただろうか。

こんな変貌は誰も予想できず、現定生活の延長でのんびり暮そうと思っていたのではないか。

勤め人は、以前から年金制度が確立して積みだてをしていたから。

現在、どんな生活を、どんな気持ちで過ごしているのだろう。若い人は、それなりに変わり地域社会のなかでも、勤め等も選択しいけると思うが。

 現実は、そんな甘っちょろい態度では生きられない。

 

2. 田舎特有の近所付き合いは・・・。

 今での年寄り達は、月に1度内にある小さな古い神社で、各自宅から食料を持ち寄ったり、食事をつくったりしい会食をして楽しいつどういをしているとのこと。

古来の地域の老人の楽しみ会はおこっているとのこと。爺は、一安心しました。

 これが、農村地域の絆を強くし、相互扶助で楽しく生活をしている。これらの地域社会でも、大事なつながりになろう。

 これからの若手は、農業を忘れ、サラリーマン化して、かっての地域環境がどう変わるのか予測できません。

 歳老いた高齢者は、少ない人生を昔の気質で生活しできるだろうか。

 

 


郷里の小さな米作り農家が殆ど廃業の情報・・・びっくり・びっくり その2

2016-05-12 10:10:20 | 日記

テレビや新聞等の農業現況から農村等の課題が報じられ、爺は現況を見ずにそんなものかなと思っていました。お米の値段も、ここ数年下がりました。

そんな漠然とした認識に、現実の話を聞き、本当にびっくりしました。

世間の様子を知ろうと、インターネットを開けても見ました。

 

1. 減反政策がなくなれば日本の農業の競争力はアップしますか?

農業の競争力を強くするには、農地の集積化を促すとともに、担い手として意欲ある中核 農家を育てていくことが何より重要な ... 具体的な方法として、米作農家に作付面積の 削減を要求するため、  だって米作る農家確実に減りますからね。

2. 米価急落。飼料米への転換は正しいか。

多くの農家が稲作をやめてしまえば、米の生産量・供給量が減り、在庫も圧縮されて、 価格は再び上向くのだろうか。 ... あたり最大10万5千円もの補助金が出ており、農林 水産省は、少なくとも減反廃止までの期間、この制度を維持・継続していく方針である。

3 日本の農業 現状と課題(衰退止まらない農業の現状)

農業を覆う現状の問題点を追求し,農業を以下に再生産・持続可能なものにしていくか, 農業改革の方策を探る。 ... 恩師・経済学者伊東光晴先生(京大名誉教授)は,TPP 参加は誤りであり,日本の米作・畜産は規模拡大政策では存立し得ないとし,“日本農業 に ... ているかを示す数値。10年度中は猛暑や多雨などの天候不順で小麦やてんさいの 生産量が09年度と比べて15%減り,自給率低下の主な要因となった。