kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

戦争語部のテキストとして・・・近所のお爺さんの経験談  その3

2012-08-23 09:39:45 | 思い出
病院は患者で超満員、薬も診察も手当てもしてもらいなかった。

こんな中でも、病院は一杯、診察も薬も貰いなかった。
暫くして、足のやけどを診察医してもらった。
両端切断を勧めた。父と相談し、それを拒否した。彼は、現在老齢により、ヨボヨボながら自力で散歩している。こんな話を聞き、始めて実感的に大震災の悲惨さを身にしみた。
何も知らなかった今までの彼に、大変な困難・苦労を乗り越えてこられたことに感動と同情の念を強く持った
今日まで、家の周りを病気・後遺症と共存しながら、やっと散歩している姿に感動を覚えた。

未来の平和のために、戦争語部の資料に活用されることを願う

貴重は大変な戦争体験と火災の大被害を身に受けた彼に、パソコン(彼は大得意)で、経験と感情を文書としてまとめられたら・・・お勧めした。
戦争のない平和の未来のために語部の資料として、社会的に活用されたら・・・、彼の体験も未来の平和のために役立っていくであろう。

こんな話は誰も聞いてくれない。お話できて気分が楽になった。
有難うとお礼を言われた。

戦争語部のテキストとして・・・近所のお爺さんの経験談  その2

2012-08-22 09:24:14 | 思い出
折から風速30mの強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、ファイヤー・ストームが東京を焼き尽くした。火に包まれたのは何の罪も無い一般市民である。女性、子供、老人、皆、一塊の炭と化すまで焼き尽くされた。その数約10万人。

以下近所のお爺さんのお話に変わる。
彼は、当日、父は仕事で外に、母は以前に他界し、姉と弟の3人家族でいた。
焼夷弾の火災で家、道路は火の海だった。火の粉が逃げるに顔・体に振りかかった。着物が燃える。でも逃げるに夢中で服の火の払いの余裕もなかった。
彼も同じく、ズボンが燃えていた。しかし、それを消す余裕がなかった。

そんな中で、寺の火災用の大きな水たまりの壺、人が飛び込んでいるのを見つけ、姉弟3人が運よく飛び込んだ。

壺も周りは、丸こげになって多くの人が死んでいた。言いようの惨たらしさであった。

思い出すのも怖い、2度と同じ惨状を繰り返してはいけないと、私に言い張った

他に2人の姉弟も無事生き残り運がよかったようだ。


戦争語部のテキストとして・・・近所のお爺さんの経験談  その1

2012-08-21 09:46:06 | 思い出
近所のお爺さんから自分で経験した、なまなまの戦災犠牲談をきいた。昭和20年3月9日の東京大空襲の様子であった。
彼は小学校6年生、仙台市松島湾近くに小学生として学童疎開をしていたが、卒業のため空襲の当日(3月9日)に帰宅した。以下、インターネットから概要を調べた。

その晩に、東京大空襲がった。被害. 浅草への初空襲は1944(昭和19)年12月10日のものであった。 浅草の住民は3月9日の夜を迎えた。3月に入り学校の 卒業式などの関係で小学生の中には疎開先から戻っているものもいた。 彼も卒業のため台東区菊屋橋町に帰宅した。この記事と同じ
昭和20年3月9日22時、警戒警報発令、二機のB29が東京上空に飛来したが房総沖に退去した。しかし、それは日本側を安心させるための策略だった。東京都民が安心した10日、深夜00時、最初の爆弾が投下された。二時間にもわたる地獄の様な爆撃作戦の開始である。 

B29の先発部隊は、江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲に爆弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。その後、逃げ場を失った住民めがけて、約100万発もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が容赦なく投下された。

次回に続きます。

神武天皇は神話の初代天皇・・・戦前小学校歴史教科書にあったようだ

2012-03-09 09:09:15 | 思い出
神武天皇(じんむてんのう 庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)~ 神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)。

天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。

天照大神から神武天皇即位まで・・・古事記・日本車記

2012-03-08 06:59:16 | 思い出
1. 神話の中の天照大神

日本神話によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国土を整え、万物を育て、最後に天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つきよみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子を生んだことになっている。高天原(たかまのはら)を治めた天照大神は、いよいよ皇孫(こそん)瓊々杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降りるとき、皇位の璽(しるし)を授け、「この鏡は、もはら我が御魂(みたま)として、吾が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」と神勅を下したと言われる。瓊々杵尊(ににぎのみこと)の三代下の子孫が神武天皇とされている。

爺の小学校時代、歴代天皇を全部覚えることを強制されたことを記憶している。
無茶なことを覚えさせたものであったと思う。

日本の国の始まり・・・古事記  童心に返って その2

2012-03-05 07:24:35 | 思い出
アマテラスオオミカミとスサノオノミコト…天の岩屋

ある日、アマテラスオオミカミは、神聖な機織場(はたおりば)で、神様のお着物を織らせている時に、スサノオノミコトは、斑(まだら)模様の馬の皮をはいで、その死体を機織場の天上に穴をあけて投げ込んだのです。それに驚いた機織りの娘は、機織りで横糸を通すための道具板で、女陰をついて死んでしまいました。これには、さすがのアマテラスオオミカミも恐ろしくなって、天の岩屋戸(とびらが大きな岩で作られた洞窟)の中に隠れてしまわれました。そんなわけで、高天原(たかまがはら=アマテラスオオミカミが支配する天の国)も真っ暗になり、葦原の中国(あしはらのなかつくに=高天原と黄泉の国の中間、すなわち地上の世界)も闇につつまれました。永遠の夜になってしまったのです。多くの神々が騒ぎだし、その声はハエのようにたくさん増えていき、あ らゆる禍い(わざわい)が起きました。

多くの神が、それをドンドンガラガラ踏みつけながら踊りだし、神懸かり(かみがかり)になりました。女神のダンスはエスカレートし、乳房をかきむしり、陰部を広げて、そこに着物のひもを垂れたのです。その様子に、高天原はどっと揺らぎ、見ていた神様たちは、大声で笑いだしました。
 岩屋戸の中のアマテラスオオミカミは、外の大騒ぎを不思議に思って、岩戸を少し開いておっしゃいました。
明るい世に戻りました。

大体、ここまでが昔の小学生の歴史の本に載っていました。ただし、全文でなく小学生にわかるよう、また、純粋な子供の心を傷つけばいように配慮されながら・・・。

日本の国の始まり・・・古事記  童心に返って その1

2012-03-04 09:28:14 | 思い出
2月25日の某新聞 b2 に「古事記で一番気になる神さま」という記事がのっていた。昔小学校時代に教えられた歴史の「国の始まり」が頭に浮かび、記事に興味を持ちました。調査では、古事記を読んだ人7%、一部を読んだ人59%、全く読んでいない人34%であった。爺も、小学生時代の歴史の話だけだから43.%の中であろう。
インターテットで、拾い読みしてみた。

1. イザナギとイザナミの夫婦の神様とスサノオミコトの神物語 

イザナギノミコトは、「わたしは、これまで多くの子を生んだが、一番最後に貴い三人の子どもたちを得た。」とお喜びになられました。そして、ご自分の首にかけていた玉の首かざりをゆらゆらと鳴らせながらアマテラスオオミカミに授け、「あなたは、天を支配しなさい。」とおしゃっいました。次にツクヨミノミコトに「あなたは、夜の国を治めなさい。」といい、スサノオノミコトには、「あなたは、海原を治めなさい。」とおっしゃいました。

こうして、それぞれの神は、イザナギノミコトから命じられた国を治められましたが、スナオノミコトだけは、海原の国を治めずに、ヒゲが胸元までのびたおとなになっても、泣きさわいでおりました。その泣く有様は、ものすごくて、緑の山々が枯山になり、海や川の水が乾ききってしまうほどでした。この悪い神が起こした乱暴な物音は、ハエのように世界に満ち満ちてしまったので、あらゆる災い(わざわい)ごとが次々と起こりました。

そこでイザナギノミコトが、「なぜ、お前は、命じた国を治めないで、泣きさわいでいるのか。」とお聞きになると、スサノオは、「わたしは、お母さんのいる黄泉の国へ行きたくて、泣いております。」と答えたので、イザナギノミコトは、たいへんお怒りになり、「それならば、お前はこの国にいてはならない。」
とおっしゃって、スサノオノミコトを海原の国から追いはらいまいました。{/face_kaze/
明日に続きます。

MVC―FD7カメラと、縦横の画素数を同じにして その3

2011-04-19 08:50:49 | 思い出

下の2点の写真は、1210画素カメラの写真の縦横の画素数をMVC-FD7の、縦640、横480ピクセルに合わせて、縮小した写真である。

縦横のピクセル数は同じにしても、写真の容量は、10KBと124KBであり、約12.4倍になる。

それは見た目でもハッキリとわかる。

 

デジカメの進歩も著しい。今でこそ写真といえば、デジカメである。しかも性能がよくて値段が安い。MVC-FD7カメラも10万円前後した気がする。デジカメでは、時間は金では買えない進歩という価値がある。

 

しかし、カメラは性能が向上しても、腕が上がらない自分が情けない。

 

爺の独り善がりにお付き合い有難うございました。(119)

MVC―FD7カメラと 1210万画素カメラを比べて その2

2011-04-18 08:55:16 | 思い出

上の2点が初期のデジカメで、MVC=FD7で撮影したものです。

よこ640*たて480ピクセルで、容量は10Bである。

 

重さも気にならず、旅行の友であった。お陰で多くのスナップ写真を撮影できた。

また、柏市中央公民館講座を11年前から担当したこの会で、当時このカメラを使用した。

 

講座の中で、受講生の顔写真を使用する時、各受講生のフロッピーに、このカメラで撮影し保存してあげた。大変簡単に写真がパソコン上で処理できた。

略図作成講座等で、樹木・ビル・案内板・信号とう必要に応じ、簡単に撮影できた。

それを簡単にパソコンに張り付けられた。会の講座等にも多いに利用したことを、思い出された。

 

下の2枚は、現在の1210万画素カメラで撮影した。縦4000*横2672ピクセル 4.3MBである。初期のデジカメ MVC=FD7とは大きな違いで、デジカメの進歩の後がデータの数値にあらわれている。

 


出始めの頃のデジカメと久しぶりに再会 その1・・・MVC--FD7カメラ

2011-04-17 08:48:55 | 思い出

15年前ごろの思い出

 

部屋の整理をしていて、昔のデジカメを見つけた。

15年前(1997年)に購入した、ソニーのMVC-FD7で、日本のデキカメの初めであったと思う。

 

当時ソニーから、「フロッピーに写真を保存できるデジカメ」が発売されたので飛びついた。

 

かなりの重さと大きさであったが、持ち歩いても気にならなかった。

マニアル(取り扱い説明書)は、日本語が前半に43ページ、後半英語で47頁である。

アメリカ製を日本語に直訳したものと思う。

いかにも日本の草分け的解説書である。値段も高価であった。

 

今と比べれば、重い、大きい、画素数が少なく、引き伸ばせば荒れてしまう。

 

でも、当時にすれは、嬉しく、どこに行くにも持参し、手あたり次第に撮影していた。

それをパソコンに挿入し、フォト エレメント ソフトを購入し、遊んでいたことを思い出す。

 

電池を蓄電し、使用できるかを確かめた。久しぶりに撮影してみた。(127)