小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

おりょうさんの子供?  完

2009-11-23 21:53:49 | 小説
 松兵衛の実子であるならば、「養嗣子」などとして届けなくてもよかったのである。松之助入籍の4か月以上前の明治8年7月2日、松兵衛はすでにおりょうさんを妻として入籍していた。ふたりの実子であるならば、そう届ければすんだ話なのである。
 時代は国民の戸籍がしだいに整備されつつあった頃のことだ。明治8年に、おりょうさんの入籍、松之助入籍が相ついでいるのは、おそらく「平民苗字必称義務令」と無縁ではない。これが布告されたのは、明治8年2月13日。まだ苗字のない者がいたから、国民全員が苗字をつけて、戸籍を完全なものにせよという明治政府の太政官布告であった。
 さて、では松之助は誰の子であったのか。先の除籍簿から推測されるのは、大阪にいたおりょうさんの母の貞が面倒をみていた幼児だったということだ。貞の孫とされているから、おりょうさんの妹弟の子であることはたしかだ。
 妹の中沢光枝の子であった、と推測するのは、鈴木かほる氏である。
 鈴木氏が入手した松之助の過去帳の写しには「西村松平子」の右側に添え書きがあって、「京都ノ住人中沢依頼也」とあったという。これが傍証である。
 どういう事情からそうなったかは不明だが、光枝の子が西村家の養嗣子としてむかえられたとして間違いないだろう。
 ただ、この添え書きについて、過去帳を見た筈の宮地氏はいっさい無視している。そして鈴木氏の入手した写しのほうには、宮地氏のいう「十九歳」という年齢の記載がない。このあたりがどうもすっきりしないことは付言しておかねばならない。
 いずれにせよ、おりょうさんの回顧談に大阪から母を引き取る話は出てきても、松之助のことは出てこない。松之助がもし実子であるならば、おりょうさんの母性は、どこかで彼に言及したはずだと信じたい。宮地氏の説に異をとなえるゆえんである。
 ちなみに鈴木氏は、おりょうさんが東京に出てきたのは明治6年とし、作成された年表にもそう記入しているが、私は明治5年には、すでに東京にいたと思っている。『千里駒後日譚拾遺』の次のくだり。
「お登勢の死んだのは確か明治五年でした。私は東京に居たですから、死に目には得逢はなかったのです」
 これは寺田屋おとせの死んだ年を間違っているが、明治5年におりょうさんが東京にいたとする記憶には誤りはないと思うからである。
 築地にしばらくいて、それから横須賀に移ったのである。横須賀で仲居をしていて松兵衛と知り合ったなどというのは、誤説もいいところである。築地時代に松兵衛と再会(ふたりは伏見の頃からの知合い)したという証言がある。しかし、それはまた別の物語である。


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