「見たまへ、透谷以前に彼が賦與したやうな意味の情熱といふ言葉はなかった」と、藤村は書いている。藤村にならっていえば、恋愛という言葉を今日的な命題として文章の対象とした文学者は、透谷以前には誰もいなかった。「恋愛」という言葉をポピュラーにしたのは、透谷なのである。
明治25年、「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり」という有名な書き出しで始まる評論『厭世詩家と女性』で、透谷は当時の青年たちの心をわしづかみにした、といってよい。藤村は体に電気が通りぬけたように感じ、木下尚江などは「大砲をぶち込まれたように感じた」と回想しているから、この評論の放った衝撃のほどがわかる。
透谷は明治元年の生まれである。いわば明治という時代の申し子なのだ。しかし、きわめて近代的な精神と突出した感受性の持主だった透谷は、まだ封建制の習俗の色濃く残る明治という時代に自分をうまく合わせることができなかった。少年期に英語を学び、横浜のグランドホテルで外人相手のボーイのアルバイトをしたこともあるかとおもえば、自由民権運動に心を寄せ、あやうく過激な行動に巻き込まれそうになっている。そのとき友人と行動を共にしなかったという負い目を、生涯もち続けた。政治に挫折した彼には、文学しかなかった。ふつう、北村透谷は詩人、思想家と称されるが、ほんとうは小説家になりたかったのだと思う。
結果的には、彼はすべてに挫折した。人もうらやむ恋愛は成就したものの、結婚生活は貧苦にまみれ、よき家庭人となることもできず、文章で生計を立てることもできなかった。
「我は憤激のあまりに書を売り筆を折りて、大俗をもって一生を送らんとと思ひ定めたりし事あり」
そんなふうに思っても、大俗つまり市井のしがない一庶民として生きてゆくことなど、透谷にはできなかった。できるはずがなかった。できていれば、どんなによかったか。
明治25年、「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり」という有名な書き出しで始まる評論『厭世詩家と女性』で、透谷は当時の青年たちの心をわしづかみにした、といってよい。藤村は体に電気が通りぬけたように感じ、木下尚江などは「大砲をぶち込まれたように感じた」と回想しているから、この評論の放った衝撃のほどがわかる。
透谷は明治元年の生まれである。いわば明治という時代の申し子なのだ。しかし、きわめて近代的な精神と突出した感受性の持主だった透谷は、まだ封建制の習俗の色濃く残る明治という時代に自分をうまく合わせることができなかった。少年期に英語を学び、横浜のグランドホテルで外人相手のボーイのアルバイトをしたこともあるかとおもえば、自由民権運動に心を寄せ、あやうく過激な行動に巻き込まれそうになっている。そのとき友人と行動を共にしなかったという負い目を、生涯もち続けた。政治に挫折した彼には、文学しかなかった。ふつう、北村透谷は詩人、思想家と称されるが、ほんとうは小説家になりたかったのだと思う。
結果的には、彼はすべてに挫折した。人もうらやむ恋愛は成就したものの、結婚生活は貧苦にまみれ、よき家庭人となることもできず、文章で生計を立てることもできなかった。
「我は憤激のあまりに書を売り筆を折りて、大俗をもって一生を送らんとと思ひ定めたりし事あり」
そんなふうに思っても、大俗つまり市井のしがない一庶民として生きてゆくことなど、透谷にはできなかった。できるはずがなかった。できていれば、どんなによかったか。