小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

透谷にはなれない  その3

2005-03-11 22:07:44 | 小説
 透谷はキリスト教の洗礼を受けた19歳の秋に、3歳年上の石坂ミナと結婚した。結婚式も教会で挙げている。ミナはいわば恋女房であった。その妻にあてた手紙がのこっている。こんな手紙を書くようになるとは、結婚当初は予想もしなかっただろう。(一部原文の用字を変えて、読みやすくした)

「拝啓、貴書を得て茫然たる事久し。何の意にて書かれしや、一切解らず。われ御身に対して敬礼を欠けりといい、真の愛を持たずといい、いろいろのこと、前代希聞の大叱言。さても夫たるはかほどに難きものとは今知れり。(略)悲しいかな、きのう公家の娘、いま貧詩人の妻となりしを。(略)わが妻となりし君にあらずや、なんぞ遅々として大道を看破するのおそき。(略)君、口に貧をいとわずという、されどもこれ、わが分に応じた貧ならば耐ゆべしと言うにはあらずや。(略)夫貧すれば初めて妻の助けありときくものを、われは貧して初めて妻の怨言不足を聞く(略)よしやわれこのままに病みくちて、人の笑われものとならんとても恨みじ、むしろわが死せしかたわらに一点の花もなかれよ。君の語気常に我が意気地なくして、金得ることの少なく、世に出ずることのおそく、居るところの幅狭きを責むるがごとく聞こゆ、止みなんかな、止みなんかな。(略)御身にいかほどの愛ありて、かくわれを責むるぞ。われをして中道にわが業を停めしめんとの愛にてか。詩人偉人の妻は他と異なれり、われもまた他の夫と異なるを知る」

 書き写していても、いたましさで辛くなるほどだが、手紙の末尾は「記憶せよ、きみ今は病苦の人の妻なるを」という言葉で結ばれている。
 透谷は自分の精神が病的であると気づきはじめていた。「わが死せしかたわらに一点の花もなかれよ」と書きつけたとき、透谷は泣いていたのではないか。そんな気がする。 
 そういえば、透谷の墓に詣でたとき、私は花をもっていかなかった。
 小田原の海の見える丘に建つ小さな寺に、透谷の墓はある。


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