小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「天誅組」の悲劇  15

2008-02-06 22:41:49 | 小説
 負傷していた吉村虎太郎が駕籠に担がれているときに、いや駕籠といってもムシロを二つ折りにして縄で縛り、棒を通したもっこのようなものだが、担いでいる者たちに聞かせた言葉がある。
「辛抱せよ、辛抱せよ。辛抱を通したら世は代わる。それを楽しみにしろ」
 彼はあるいは自分に言い聞かせていたのではないかと思う。
「感慨の男子、家を思わず」という言葉は、草莽の志士たちの心意気ではあったろうけれど、吉村は優しかった。かって、京都で郷里の父親の訃報に接したときは、終日閉じこもって号泣した。
「不幸これに過ぎず候えども、兼て申し談じ候通り、忠孝両全は相調わず、依って御病症を見捨て、出国致し、及ばずながら微忠を天朝に尽し居候」
 このおり、弟と妻に宛てた手紙の一節である。吉村は父親の病気のこともよくわかっていたのである。「忠孝両全相調わず」と書いたとき、彼はどれだけの辛抱を呑みこんだのか。
 そして、京都を発つとき、母に宛てた手紙では、千年も万年も長生きしてくれと祈っていた。自分は夭折覚悟のくせにである。感慨の男子は、家を思っていたけれども、ただただ望郷の念は心の奥底に押し込めるようにして、辛抱していたのである。
 なんのために。天朝のためであった。
 吉村らが起こした天誅組という小集団には土佐出身者が多かった。戦死、また捕えられて処刑された土佐人は吉村ほか12名になる。
 十津川においても天誅組に土佐人が多かったということは記憶されたのであろう。維新頃とされる十津川の里謡にいわく。
「土州の土の字は一の字で止める、十津の十の字にゃ止めがない」
 十津川が土佐の志士達の感慨を限りなく引き継いでいく、という意味に私は勝手にうけとったが、違っているのだろうか。


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