小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「天誅組」の悲劇  14

2008-02-05 23:42:31 | 小説
 文久2年5月の時点では、天皇は、もし幕府が攘夷を実行しないならば「朕実に断然として…親征せんとす」と宣言していた。大和行幸はその宣言の延長線上にある親征だった。
 ところが8・18の政変後の詔勅は「真実の朕の存意」であるけれども、それ以前のものは「真偽不分明」であると、天皇ご自身が詔勅の絶対性を否定してしまったのである。
 これは吉村ら天誅組の志士たちにしてみたら、まさに青天の霹靂だった。二階に上がったら梯子をはずされたようなものだが、天誅組というより尊攘派全般に与えた決定的打撃について、田中彰は『幕末維新史の研究』(吉川弘文館)でこう述べている。
「尊攘運動はすべての価値観を天皇に凝縮し、天皇の意志を絶対とし、それを唯一の思想的根拠にしていたからである。その天皇の意志が彼らから離れてしまえば、尊攘運動はその根拠を失い壊滅せざるをえない」
 ところが公武合体運動は天皇を相対的に捉えていたから、「天皇は相対化され、操作の対象(政治的利用)とする発想と思想の上に立っていた」と田中は書く。のちに王政復古は、こういう発想と思想によって実現するのである。皮肉ではなしに、そのことを付け加えておこう。
 孝明天皇の政変後の表明は、実は詔勅の神聖絶対性に深甚に影響したといえる。真偽こもごもあるのかと人々に思わせてしまったではないか。偽の詔勅で人が動くのであるならば、偽造も一方法と考えるものが出てきても不思議ではない。
 徳川慶喜の大政奉還上申の同じ日、討幕の密勅が出された。賊臣慶喜を殺害せよ、というぶっそうな内容である。慶応3年10月14日のことである。「朕の心」を体しとおおせあるが、この「朕」はすでに崩御されている孝明天皇ではない。幼帝であるけれども、これが偽勅であることは定説である。
 さて、話を天誅組の時代に戻さなくてはいけない。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。