小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

中山忠光暗殺事件 9

2008-02-23 22:15:47 | 小説
 慶応元年4月23日、伊吹周吉は田耕村にやって来る。真相究明のため、当時の関係者と直接面談しようというわけだ。
 最初に庄屋の山田幸八の家を訪ねた。幸八は、自分はまるで直接の関係者ではないような言い方をした。
 中山忠光は「御病気になられ、この辺では治療できないので、長府近辺に御連れ出しになった、と聞いている」と。
 トミの話とは食い違うから、伊吹の疑念を深めるだけである。
 伊吹はさらに忠光の潜居先の主である大田新右衛門に会おうとするが、こちらは居留守を使われて妻女にしか会えなかった。
 一方、池内蔵太、小川佐吉、上田宗児らは藩庁に出向いて事情聴取に乗り出していた。むろん、誰もほんとうのことを言うわけがない。
 刺客は長府藩の衣類方の藩士たちだったが、藩も病死を主張するばかりであるから、らちはあかない。
 では医師の坂井龍眠に会わせろと談じた。しかし、これも果たせず成果は得られなかった。
 彼らは結局、綾羅木に行って、忠光の墓をあばき、死因を確認するしかないと決断する。実際、墓前まで行っている。
 ところが長府藩士の必死の抵抗にあって、墓を掘り返すことも断念せざるを得なかった。
 近くに酒屋があったらしい。一同は酒を買ってきて、忠光の眠る土地に注いで吸わせた。跪拝して、憤懣やるかたなく、泣いた。伊吹は髷を切り、墓前に埋めた。
 さて、長府藩が4月26日に田耕村の村民に出した布告がある。その中に、こんな文言があった。

 1、中山卿一件、二十三日尋ね来リ候者又々尋ね来リ候ハバ、凡(およそ)杣地村御出立迄之次第ハ有庭(ありてい)に申し候様、尤(もっとも)極密の儀は堅く相隠し候様

 中山忠光暗殺は、「極密の儀」だったのだ。つまり村民全体に箝口令がしかれていたのであった。


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