小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

孝明天皇 その死の謎  16

2007-06-30 19:59:36 | 小説
 慶応2年7月20日、14代将軍徳川家茂は大坂城で死んだ。まだ数え年で21才だった。江戸に残されていた和宮が夫の死を知らされるのは7月25日になってからだった。和宮は24日まで、家茂の平癒祈願の黒本尊へのお百度参りと塩断ちをしていた。重態という知らせは江戸にも入っていたのである。
 いわゆる第二次征長、つまり幕府と長州の戦争のただ中での将軍の死であった。
 死の前日のこと、松平春嶽は家茂を見舞いに登城していた。
 容体悪化で面会はできず、病室の隣の間からそっと様子をうかがっている。薄暮で、ぼんやりとしか姿はとらえていないが、それでも「煩躁御苦悶の御容子にて容易ならざる後容躰」と観察している。
 春嶽は思わず落涙していた。
 家茂は4月頃から胸の痛みを訴えてはいた。政局の重圧が、この年若い将軍に深甚なストレスをかけていたに違いない。将軍職を辞して江戸に帰りたい、と言い出したこともあって、そのときも胸痛を奏聞書で訴えていた。
「臣家茂、幼弱不才の身を以てこれまでみだりに征夷の大任を蒙り、及ばずながら日夜勉励罷りあり候ところ、内外多事の時にあたり、上 宸襟を安んじ奉り、下万民を鎮る事能はず。しかのみならず、国を富まし兵を強くして、皇威を海外に輝かし候力これなく、職掌を汚し申すべしと心痛の余り胸痛強く鬱閉罷りあり候」
 なんとも正直に自信のなさを吐露しているのだが、「胸痛強く鬱閉」という文言が痛々しい。
 さりながら、ストレスが直接の死因ではむろんない。孝明天皇のときと同じように症状の異変は記録によって、ある程度たどれる。


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