小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

横井小楠を考える 10

2008-01-09 22:18:12 | 小説
 さて、新政府が横井小楠を登用したいと熊本藩に通知したのは、慶応3年12月末のことであった。
 よく知られているように、このとき藩はいったんは断っている。藩が士籍を剥奪した人間を政府高官にされては、藩としては立場がなくなるからである。
 ところが翌年3月になると岩倉具視が再度の召命を行い、熊本藩も断りきれずに彼の士籍を復帰、上京させた経緯があった。
 つまり、横井を新政府に登用させることに尽力したのは岩倉具視その人であった。人あって、必ず言うだろう。その岩倉が横井小楠暗殺の黒幕でありうるわけはないだろうと。
 岩倉は横井小楠という人物を勘違いしていたのである。横井の門下生であった由利公正はすでに参与になっており、新政府にとって欠くべからざる存在になっていた。由利公正といえば、五ヶ条の誓文の最初の草稿を作った人物だが、なにより太政官札を発行するなど維新財政を一手に担った財政のエキスパートだった。その由利の師匠たる横井に、岩倉は由利同様な実務面を期待したのであった。
 だから、横井小楠の召命について総裁局顧問にという声もあったけれど、そのポストには副総裁の岩倉具視は賛成していないのであった。おそらく岩倉は、実際に横井に親しく接するまでは、その人物の器を小さく見積もっていたのである。
 横井は岩倉の自宅によく招かれ、そこで日頃の持論を存分に披露したのであろう。それは、岩倉に強い危機感をもたらすことがらだった。推測するしかないけれど、『天道覚明論』に近い思想を、岩倉は横井の口から直接聞かされたと思われる。
 大巡察古賀の九州派遣と前後して、小野という小巡察が岡山に派遣され、横井小楠の著とされる五つの文書を探し回っている。いずれも皇室に対する不敬文書だという。書名だけが知られ、実物は発見できないのだが、新政府が横井の罪状として欲しいのは、実はここのところなのであった。
 刺客たちの言うキリスト教云々という斬奸理由など、最初から脇に追いやられていたのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。