小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「邂逅」までのプロセス 3

2006-01-26 22:12:38 | 小説
 スペインの宣教師とポルトガルの宣教師との間に、感情的な対立があったことは致し方ないところだが、同じスペインでもイエズス会と他の修道会には互いに反撥するものがあった。キリスト教の布教という目的のもとに来日しても、それぞれお国の事情や組織の事情は違ったものをかかえていたのである。
 当時、フィリピンで布教活動をしていた宣教師たちに日本へ赴こうというブームが高まり、将来の混乱を懸念したイエズス会は、教皇に嘆願している。日本での布教活動はイエズス会に限らせてほしい、と。教皇はこれを諒承して勅書を発令、マニラで公布した。このことがスペイン系の他の修道会員たちを激怒させ、かえってイエズス会といわゆる托鉢系修道会(たとえばフランシスコ会)の対立抗争を深めることになってしまった。
 かの豊臣秀吉もイエズス会を憎悪した。イエズス会を庇護したのは、よく知られているように織田信長であった。信長が本能寺で死ぬ2年前の1580年にはキリシタンの総数は約10万人、イエズス会員約60名がいた、と記録は伝えている。
 ちなみに信長の死、つまり本能寺の変の黒幕にイエズス会を想定する論者がいる。この異説を知ったとき、なるほど面白い視点だと新鮮な驚きにうたれた。しかし、この異説はもうひとひねりしたほうが面白そうな気がする。つまり、イエズス会と信長の癒着を懸念した別の修道会派が黒幕として介在したというふうに、である。


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