小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

西南戦争 この日本史上最後の内戦  2

2007-04-14 14:59:31 | 小説
 かって西郷隆盛を「彼は謀反をする奴じゃ。とうてい薬鍋かけて死ぬ奴ではない」と評したのは、鹿児島では国父とよばれた島津久光だった。
「薬鍋かけて死ぬ」というのは病死のことである。要するに、畳の上で死ぬような人間ではない、と言いたかったのであろう。島津久光の予言の当ったのが西南戦争における西郷の死であった。
 ところで西南戦争は、その島津久光ぬきで始められた。鹿児島で士族が蜂起したとなれば、その先頭には島津がいて当然と思うのが世間である。しかし官・薩軍の激突に、島津久光は動かなかった。
 それどころか鹿児島が戦場になりそうな気配になると、島津久光・忠義父子は桜島に非難していた。戦争勃発の年の5月のことだった。実は3月には、勅使柳原前光が久光を訪れていた。久光には自重するようにという勅書が渡されていたのである。政府は「国父」の動きを牽制したのであった。
 鹿児島では廃藩置県後も士族が県政を牛耳っていた。士族が平民を圧迫して権力を維持するという図式は、藩政時代と変りはなかったのである。ただし士族の実権は上層士族から下級城下士に移っていた。西郷は士族の特権を解体したようにみえるが、実際は下士に特権を移して温存したといってよい。
 いったい鹿児島の士族の多さは驚くほどである。文久2年頃の人口統計では、なんと武士が40%を占めていたらしい。もともと薩摩は士族王国だったのである。
 とりわけ明治の鹿児島は士族王国たらざるをえなかった、という見方もある。東京政府の軍隊への派遣兵士の供給源となっていたからだ。そんなわけで鹿児島ではたえず軍隊制度を強化する必要があった。
 西南戦争勃発の直接のきっかけとなったのは、よく知られているように「私学校」の暴発だった。その「私学校」は明治7年に鶴丸城厩跡に創設された銃隊学校と砲隊学校、それに西郷らの賞典禄を資金として設立された賞典学校(前身の集義塾は明治6年東京で設立、これを移転)、明治8年設立の吉野開墾社の総合呼称であった。
 さて、当時の政府の抱えていた不安要因の最たるものは不平士族の存在だった。 


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