毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
ガンダム
と言っても、私は「ガンダムおたく」などではない。第1話を見たのは今回が初めてであるが、30年前に土曜の夕方放送されていたのは、何度か見た記憶がある。それが第何話のことなのかまるで覚えていないが、今までのロボットアニメとは違い、登場人物一人一人の内面が描かれていて、物語の中に引き込まれたのはよく覚えている。その後空前のガンダムブームになったが、ガンダムに熱中する若者の気持ちも分からないではないな、とほとんどそんなブームとは無関係に過ごしていた私でも思ったものだった。
「ニュータイプ」という言葉がガンダムにはつきもののように思うが、10話まで見たところではそんな話はまったく出てこない。ただ、いつの間にか戦いに巻き込まれてしまったアムロ・レイが苦悩しながらも次第にガンダムと一体化していく心の軌跡が描かれていて、アニメを超えた深みが感じられる。「民間人」であったアムロが「戦闘員」となっていくのが果たして成長といえるかどうかは難しいところだが、それは今後の展開によって明らかとなっていくだろう。今はまだ序章からやっと本編に差し掛かった辺りであり、この先どうなっていくのか、ストーリーをほとんど知らない私であるから、楽しみである。
毎週5回分が放送されるのだが、10回までの各回の題名を以下に記してみる。

1.ガンダム大地に立つ!!
2.ガンダム破壊命令
3.敵の補給艦を叩け!
4.ルナツー脱出作戦
5.大気圏突入
6.ガルマ出撃す
7.コアファイター脱出せよ
8.戦場は荒野
9.翔べ! ガンダム
10.ガルマ 散る !!
この題名だけを見ても少し前の私なら何のことやら分からなかっただろう。専門用語(?)もいくつかあって、今でも「コアファイターって何だったっけ?」「ガルマってあの紫色の髪をしたお坊ちゃん軍人だったよな、確か・・」とまったくいい加減だが、それでも戦いの場が宇宙から地球に移動したこと、シャーの非情な性格などは十分理解したつもりだから、この後の続きを見ていくには大きな障害にはならないだろう。
だが、どうしても疑問に思ってしまうのは、なぜジオン公国が地球連邦から独立を図ろうとしているかということだ。モビルスーツなどという科学の粋を集めた兵器を駆使できるような時代でも、話し合いで物事を解決できないのか、と少々悲しくなるが、大きな犠牲を払ってまでも、地球連邦軍からの独立を図るのはどうしてなのか?10話まで見たところで、その理由は明らかになっていないし、どう見てもジオン公国の方が悪役に見えてしまうが、果たして彼らの大義名分とは何であろうか?話が進むにつれて、こうした疑問も次第に解決されるだろうと期待している。
とは言え、ガンダムの物語としてのスケールの大きさは驚くべきものだ。30年の時を経てもまるで色褪せていない。いわゆる「ファーストガンダム」全43話をわずか2ヶ月間で放送されるのを見られるなんて、東海地区に住む者にだけ与えられた特権のようなものだ。
まさにラッキー!!
「20世紀少年」
作者浦沢直樹のマンガは「モンスター」を全巻買って読んだことがある。途中までは謎めいた筋立てと、小さな物語をいくつも重ね合わせていって一つの壮大な物語を作り上げるというマンガには珍しい構成法に引き込まれ、途中巻を置くことができないほど熱中した。しかし、その結末は、それまでの期待を大きく裏切るものであり(どんな終り方だったかはもう忘れてしまったが、とにかくがっかりした・・)、思わず「なんだ、これは!」と叫んでしまったほどだった。「まったく竜頭蛇尾の典型だ」と思ったら、何だか見るのも嫌になって全巻一人の塾生にあげてしまった。
それに懲りて浦沢の作品を読むのは躊躇っていたが、「スピリッツ」で連載が始まった「20世紀少年」はいつの間にか毎週読むようになった。手法としては「モンスター」をそのまま踏襲する形で進んでいくため、話があちこちに飛んでしまうのになかなかついていけず、と何が何やら分からなくなってしまった。これでは連載が完結して単行本化されたものを一気に読んだ方がいいだろうと思って、「スピリッツ」を買うのもやめてしまった。したがって今回読み通すことができたのは、念願が叶ったことになる。
ところで、今年公開された実写版の映画はあまり評判がよくないようだ。私に単行本を貸してくれた中学生は、「映画を見に行って、話がよく分からなかったから本を買ってみた」と言っていたし、別の高校生は「いくら3部作だと言っても、話をすべて詰め込みすぎていて、漫画を読んでいない人には理解できないと思う」とも言っていた。私も「見たいな」と思っていただけに行かないでよかったかな、と思っている。(来年早々にDVDが発売される予定だから、レンタルして見るならいいかも・・)
この物語のあらすじは、「子供の他愛もない『預言書』の中に書かれたことが次々と実現されていき、そのはてに世界に終末が・・」と大雑把に要約できるだろうが、全22巻の21巻くらいまでは、まさに手に汗握る展開で、やはり単行本で一気に読むべきだった!と胸を躍らせて読み進めたが、常に「『モンスター』のようなしょーもない終わり方だったらどうしよう・・」という不安はつきまとっていた。21巻を読み終え、22巻の途中まで来たとき、「これじゃあとても大団円にたどり着きそうもないな・・」と残りのページ数を数えながら、不安は一段と強くなった。どうやって終わりにするつもりなんだろう・・、そんな心配をしていたら、やはり・・。
「なんだ、これは!!」と最後の1ページを読んだ瞬間に叫んでしまった。奥歯に物が挟まったような、まったくすっきりしない強引な幕引きで、読み終わってしばらくは、空しさと脱力感に襲われてしまった。「またか・・」と半ばあきれ返ってしまいそうになったが、実はこの「20世紀少年」には「21世紀少年」上・下巻が用意されているのだ。「20世紀少年」というタイトルで始めた物語は、やはりその中でまとまりをつけるべきであって、別のタイトルで補足説明をしようとするなんて、なんだか卑怯なやり方だな、と思わなくはないが、早速その2巻を読んでみた。
確かにこの「別巻」とも呼ぶべき2冊で、やっと初めてこの物語の全体像がつかめたように思った。伏線や仄めかしは浦沢マンガの常道だが、この2冊を読んで22巻の中にちりばめられていた欠片がひとつのまとまりへと収束した。ああ、すっきりした!!
この2巻で最終的な謎解きをしようとはじめから意図していたのか、それとも読者からの反響を知って、急遽書き下ろしたものなのかどうかは知らないが、何も題名を変える必要はなかったのではないだろうか。23巻・24巻として上梓すれば何も問題はなかっただろうに、と思わないでもない。
私が今思案中なのは、「20世紀少年」+「21世紀少年」全巻を貸してくれた中学生へのお礼として、DVDを贈ろうかどうかということだ。もし中学生が受け取ってくれたとしたら、彼が一度見終わってから貸してもらえば、まさに一石二鳥となる。なかなか名案ではないだろうか。
近いうちに彼に打診してみよう、と思っている。
丸出だめ夫
「ダメじゃん、これじゃあ。マルデダメオじゃん!!」
と叫んでしまった。スランプなのか、実力不足なのか、多分そのどちらでもあるのだろうが、とにかく最近の不振振りにはついつい私の語気が荒くなってしまう。かと言って、一方的に怒鳴ったところで子供を萎縮させるだけなので、時々冗談めかしたことを挟みながら、何とかいい方向に持っていこうとしている。だが、それも時と場合による。その時は私のちっぽけなギャグがまったく通じなかったようで、言われた小学生はきょとんとしている。
「ああ、そうか。君らは『マルデダメオ』なんてマンガ知らないよな・・。俺が小さい頃雑誌に連載されていた漫画なんだけど」
と言って、黒板に「丸出だめ夫」という名前を書いてみた。
「ひどい名前だよなあ、『マルデダメオ』なんて・・。今だったら出版社に文句の電話がバンバンかかってくるだろうな」
などと言いながら、私が覚えている「だめ夫」の絵を黒板に描いてみた。
「こんな丸メガネをかけていて、頭がよさそうに見えるけど、テストは0点ばかりだし、ドジなことばかりしている子供・・、のび太みたいな奴だな。そうそう、TVで流れていたテーマソングも歌えるぞ」
と言って、最初の部分を歌ってみた。
「だめ だめ だめ だめ だめ
だーめ だーめ だーめ だめ・・」
しかし、歌はまだしも、私が描いた絵は余りにお粗末で、何が何やら分からない。仕方なしに携帯で Google 検索してみたら、いくつか画像が出てきたので子供たちに見せてやった。


「だめ夫」のしょぼさを見た子供たちは、ついつい笑ってしまう子が多かったが、私は久しぶりに会った「丸出だめ夫」くんに懐かしさで胸がいっぱいになってしまった。そこで、少し調べてみたら、「1964年から67年まで週刊少年マガジンで連載されたマンガがテレビドラマ化され、66年から67年まで全52話が放送された。主人公のだめ夫役は、穂積ぺぺが演じていた」ことが分かった。なるほど、私が見たものは確かに実写版だった。その後、1990年代にアニメ版も放送されたようだが私はまったく記憶がない。だが、実写版には記憶がある。
ストーリーは「勉強も運動も何をやってもだめな小学3年生、丸出だめ夫と科学者で父親のはげ照が発明したポンコツロボットのボロットが繰り広げるドタバタコメディ」だと Wiki に出ていたが、今でもテーマソングを歌えるくらいだから、当時の私(8歳か9歳)は毎週欠かさず見ていたのだと思う。さらに、「だめ夫とボロットの関係は、後ののび太とドラえもんの関係にかなり近い」という指摘もあるくらいだから、やはりこうした自分をサポートしてくれる存在が身近にいてくれるのは、小さな子供たちにとっては憧れなのかもしれない。
テーマソング(「子供はつらいよ」・・・なんて題名!!)を聞けるサイトも見つけたから、もっと練習をつんで子供たちに最後まで聞かせてやろうと思っている。
(歌詞はこちら)
穂積ぺぺは私と同じ世代の人だが、今はどこでどうしているのだろう?
ディアスポリス

「異邦警察」とはどんなものか?その概略が第一巻に記されている。
東京には密入国異邦人(ディアスポラ)・不法就労外国人、約15万人。
悪い奴もいるが、貧しい出稼ぎや日本政府の認定を受けられない難民も大勢いる。
そういう連中が、この東京で
密入国外国人の密入国外国人による密入国外国人のための都庁をつくりあげた。
そこには役所もあれば厚労相の許可しない病院や文部科学省の知らない学校、金融監督庁と無関係の銀行、郵便局、警察・・・。
こんな組織など実際には存在しないだろう(たぶん・・)が、ひょっとしたらあるかもしれないと思わせるリアリティーで迫ってくるこの物語の主人公は、警察署長として、日夜厳しい任務を全うしている久保塚早紀である。「異邦人」を唄った久保田早紀と似た名前をもち、ハードボイルド時代の松田優作を髣髴とさせるいでたちで、部下の元エリート銀行員鈴木とともに、裏都民の安全と平和のためにまさしく身を挺して次々現れる敵と戦う彼の記録と呼ぶべきものが本書である。
暴力的なシーンも多いし、絵柄も決してきれいとは言えない。しかし、実に面白い。私の知らない裏世界を垣間見る好奇心のようなものが刺激されるのかもしれない。しかし、脚本者のリチャード・ウー(実は日本人らしい)は、
「そんな胡散臭い物語(本書)は、実はあなたと地続きのすぐ近くにあり、今現在、そして将来の日本だということも、ご理解ください」
と警鐘を鳴らす。母国で迫害を受けて日本に逃げ込んだ者、一攫千金を求めて日本で夢をかなえようとした者、そうした様々が背景を持った人々が織りなすドラマは、たとえ漫画の世界の話だとしても心を打つ。誰もが必死で生きているのに、決してうまくいかない、そんな社会の裏側にうごめく人々の生き様について語れるだけのものを私は何も持っていない。この物語に登場する人物は、皆悲しく辛い過去を背負っている。この日本という国の中でぬくぬくと生きてきた私などには彼らのなめて来た辛酸は想像すらできないであろう。
だが、そんな私でも、ここ数日来のチベットでの暴動のニュースを見聞きするたびに「裏世界が私たちと地続きである」というウーの言葉が現実味を帯びた重い響きをもって胸に迫ってくる。報道によれば、チベット民族の中国政府に対する苛立ちが爆発したものだと言われているが、それに対する中国側の過酷な取り締まりもこれから問題となるであろう。オリンピックを目前に控え、沈静化に躍起となるあまり、チベット民族への弾圧が強まることさえあるかもしれない。その場合には、国を脱出し他国へ逃げのびる人々も多くいるだろう。そのうちの何人かが日本にやって来て、私の近くに身を潜めることだってないとは言えない・・。毎日の自分の生活だけで精一杯の身には、唐突とも思えるチベットの騒乱に知らぬうちに拘わってしまうかもしれないのが、現代社会だ。閉じられているようですぐに他とつながってしまうのが現代である。まったくの対岸の火事などというものは実はもうないのかもしれない。
周囲わずかな範囲のことにしか心が向かない毎日を送りながら、時にはそれではいけないと苛立ちながらも、どうしようもなくやっぱり流されていってしまう、そんな風にして毎日を暮らしていったら、いつの間にかにっちもさっちも行かなくなっている、そんなことにならないように、時々は「ディアスポリス」を手にとって、世界の情勢に思いをはせるのも私にとっては大切なことではないか、などと少々強引なことも思ったりする昨今である。
墓場鬼太郎
ジョニーと呼ばれる吸血鬼が総理大臣を襲おうとしているのだが、それを察知した総理が鬼太郎をボディーガードに雇う。それを知ったジョニーは、魔力を持ったギターを弾き鳴らして眠っている鬼太郎を自分の館に誘い込む。ジョニーの秘書となっていたねずみ男が、ジョニーの仲間になるよう鬼太郎を説得するものの、拒否されたため、ジョニーは鬼太郎を薬で溶かしてしまう。邪魔者がいなくなったジョニーは総理を襲うが、鬼太郎のしゃれこうべが危機一髪のところで総理を救う。館に戻ったジョニーは鬼太郎とねずみ男を、館の下にある二度と戻れぬ砂丘に突き落とすが、自らもめだま親父の捨て身の攻撃に屈して砂丘に落ちてしまう。その後めだま親父の機転で縄梯子を伝ってねずみ男は脱出するが、ジョニーはねずみ男が火をつけた館とともに砂丘にまっさかさまに落ちていく。
鬼太郎は、骨と溶けた液体を三年恐山の温泉につけておけば元通りになるらしい・・。
などと覚えている限りのあらすじを書いても面白さは伝わらないだろうが、レトロな雰囲気の漂うアニメで見ていたら、途中で止めることが出来ずに、とうとう最後まで見てしまった。
金曜日に改めてネット検索してみたら、面白いことが分かった。
『2008年1月10日よりフジテレビ系列の深夜アニメ枠『ノイタミナ』他で放送開始。全11話予定。少年誌で連載される前の貸本版の『墓場鬼太郎』を原作とし、内容・キャラクターデザイン共に当時のものを踏襲した怪奇漫画風となっている。また、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第1~2作目で演じた声優(鬼太郎:野沢雅子、目玉親父:田の中勇、ねずみ男:大塚周夫)が再び当時と同じ役を演じる。
高度経済成長時代へと歩み出そうとする裏側で、まだ貧しさや死の影が色濃く残っていた昭和30年代の日本を舞台に、幽霊族最後の生き残りとして墓場から生まれた鬼太郎の誕生秘話がついに紐解かれる。


もう2ヶ月以上も放送されていたのか、全然知らなかった。
アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』がTV放送されてから今年で40年になると言うのだから、ちょうど私が漫画を読み始めた頃に放送が始まったことになる。そう言われてみれば、私がTVで見始めた頃の鬼太郎は今のアニメほど善良なキャラではなかったような気がする。もちろん、ねずみ男のようにこすっからくもなかったが、人間と妖怪の狭間にあって苦しむといった設定だったような気がする。ひょっとするとこんな印象を持っているのは、「妖怪人間ベラ」と話がごっちゃになっているせいかもしれないが、初めて見た「墓場鬼太郎」から子供の頃に見た「鬼太郎」を思い出したのも、ある意味当然だったのかもしれない。
私が見た「霧の中のジョニー」は第9話なので後2話しか放送されないことになる。私が好きな一反もめんやぬりかべ、ねこ娘、こなきじじい、砂かけ婆あなどは誰も登場しなかったから少々寂しい気もした。果たして残りの2話で彼らが登場するのか、楽しみにしよう・・。
YouTube で見つけた「墓場鬼太郎」OPを貼っておく。
ガッチャマン


少し前からTVCMで発売されるのは知っていた。「どうしよう?」とガッチャマンのファンである妻にきいてみたら、「とりあえず1回買ってみたら・・」と乗り気なことを言ったので、書店で見つけてすぐに買ってしまった。ディアゴスティーヌの手のひらで踊らされているような気もするが、なんとも私たちの世代の心をくすぐるような企画を次々と打ち出してくるのだから、降参するしかない。「刑事コロンボ」シリーズと同じように見始めたら、どんどん続きが見たくなるだろうな・・、そんな思いを抱きながら、DVDをセットした。
このDVD一枚に3話分が収録されている。マガジン部分には「ガッチャマン」にまつわるエピソードが紹介されているので、ちょっと読んでみたところ、「ガッチャマン」は1972年10月1日から1974年9月29日まで全105話が放映されたという。私が中学生から高校生の間に放送されたことになるから、ほとんど毎回見ていたはずだ。しかし、この後に「ガッチャマンⅡ」が1978年10月1日から1979年9月30日まで全52話、「ガッチャマン ファイター」が1979年10月7日から1980年8月31日まで全48話放送されていたことは、まったく忘れていた。ちょうど大学生で、TVなど見る暇もないほど遊び呆けていた頃だから、ほとんど見ていないように思う。なので、最初のシリーズ105話分だけ揃えればいいのかなと思っている。それでも105÷3=35冊は購入しなくてはいけないのか、大変だ・・・。
「ガッチャマン」は天才科学者・南部考三郎が組織した科学忍者隊で、大鷲の健をリーダーとし、コンドルのジョー、白鳥のジュン、みみずくの竜、燕(つばくろ)の甚平がメンバーとなっている。この5人が操る5台のメカが合体してゴッドフェニックスとなり、悪の秘密結社・ギャラクシーが繰り出す様々な敵と壮絶な戦いを繰り広げる。その最大の武器が科学忍法・火の鳥である。ピンチのときにこの科学忍法を使うと、ゴッドフェニックスが全身火の鳥となって、窮地を抜け出し、敵を殲滅する。第一話から火の鳥が披露されるが、その映像の見事さは、CGなどという洒落たものがない時代のアニメとは思えないほどのものであり、竜の子プロの技術の高さが窺える。
などと受け売りの知識などまるでなくとも、このDVDを見始めれば誰でも「ガッチャマン」の虜になってしまうだろう。ガッチャマンてどうやって結成されたの?とか、ギャラクターの総裁は何が目的なの?とか、ベルクカッツエはどうして変な衣装を着ているの?とかいう疑問はいくつも浮かんでくるが、そんなことなど無視して無心に映像に入り込めばいい、手に汗握る展開が続き、1話などあっという間に終わってしまう。すぐに次の話を見たくなり、結局私は3話連続して見てしまった。本当に面白い!!同じ竜の子プロの「タイムボカン」の緩々した話もいいが、「ガッチャマン」のピンと張り詰めた空気も小気味いい。
しかし、「ガッチャマン」と言えば、子門真人が歌う主題歌を忘れるわけにはいかない。YouTube で見つけてきたから貼っておく。
一枚目のDVDでは大鷲の健の身の上、父親がパイロットで飛行機事故で亡くなったことは明らかになったが、それ以外のメンバーについては何も語られていない。おいおいその辺りも明らかになっていくだろうが、物語にだんだんふくらみがつけられていく過程も楽しみである。第2号の発売が待ち遠しい。
手塚治虫
地球は今、
息も絶え絶えの星になってしまいました
いったい、いつの間に
こんな事態に陥ってしまったのでしょうか
人類はどこで針路を誤ったのでしょうか
という手塚治虫のメッセージが掲げられている。これがいつ記された言葉なのかは分からないが、地球温暖化による様々な環境異変が伝えられる現在、この手塚の警鐘はさらに重みを増している。『人類はどこで針路を誤ったのでしょうか』という悲痛な思いが、本書に収められた7編すべての底流をなしている。
1960年代の公害問題の恐怖を描いた『うろこが崎』、人間のエゴで犠牲になった自然の復讐をテーマにした「ブラックジャック」収録の『ディンゴ』、観光開発による自然破壊がもたらす悲劇を描いた『白縫』、アトムが狂言回しの役割しか果たしていないが、自然保護の大切さを訴えかける『赤いネコ』など、一読すれば愚行を繰り返す人類への手塚の怒りを感じ取ることができる。
「人間はバカだ――それに気づいてもまだやっている」、自然破壊が自分たちの首を絞めることになると知ってはいても、それを止められない私たち人間社会の愚かさをこう吐き捨てるブラックジャックの憤りは、そのまま手塚の胸中を表したものであろう。こうした社会的視点を持った作品を多く残すことにより、漫画が社会の中で一定の役割を果たしうる文化であることを明らかにした、手塚治虫という漫画家の奥は深い。作品の隅々からメッセージを読み取ることができる。
しかし、これらの重いテーマを持った作品を読み終えても心が暗くなるばかりではなかった。仄見える希望の光と呼ぶべきものが感じられた。手塚は人類の未来に絶望しているのではない。人間を愛し、自然を愛してやまない手塚の分身とも言うべき主人公たちが作中に必ず描かれている。そうした者たちがいる限り、人類は滅びることはないだろう。無免許の悪徳医師として悪評紛々たるブラックジャックが、自然保護のために儲けたお金で島や土地を買っているという意外な事実も述べられているが、それこそブラックジャックが命あるものすべてを慈しんでいることの証左であり、医師としての手塚の思いを体現しているように思う。

本書を読んで最も驚いたのは、これらの7作品のうち、実に6編までが少年誌に発表されていることだ。「少年ジャンプ」に1編、「ブラックジャック」を連載していた「少年チャンピオン」には実に4編もが発表されている。私は、今春息子が大学進学のため家を離れたのを契機に、子供の頃からずっと毎週買っていた少年誌の購入を止めた。あまりに子供じみた漫画ばかりで読むに耐えられないのが主な原因だが、私が中学・高校生だった頃にはこんなに社会的な問題を取り上げた作品が少年誌に載っていたのを知って、そのあまりの懸隔に驚いてしまった。漫画を読むのは害だとよく言われた時代に育った私ではあるが、そんなことお構いないしに片っ端から漫画雑誌を読みふけっていた。今思えば、硬軟入り混じったまさにバラエティーに富んだ作品群に接していたわけだから、面白くないはずがない。私は漫画を通して色んなことを学んだように思うが、今の子供たちは漫画から何かを学ぶなんてことはないように思う。それほど薄っぺらな漫画しか今はないと私には思えてならない。
社会的視点を持たない漫画ばかりに接していると、社会的な広い視野を持った人間が育ってこない。それは何も漫画に限ったことではなく、子供たちが日々接している多くの情報にも言えることだろう。それもまた地球を瀕死に追い込む危険を持つものである。
ジブリ美術館

「天空の城ラピュタ」はジブリの作品の中でも私の一番のお気に入りなので、このロボット兵の写真は気に入っている。
だが、問題なのはジブリ美術館で買ってきてくれたお土産だ。1つは「空想の空とぶ機械達」というブラスエッチングモデル、もう一つは「トトロぴょんぴょん」というペーパークラフト、どちらも組み立てなければならないものだ。「こういうの好きでしょ?」と妻から渡されたが、正直言って細かい作業は得意ではない。今までこのブログに、プラネタリウムや万華鏡を組み立てた記事を載せたことはあるが余りいい出来ではなかった。しかし、お土産と言われて「出来ませんでした」と言うのも悔しいから一生懸命作ってみた。
最初に飛行機を組み立ててみた。しかし、何と言っても両翼が5.5cmほどの小さなキットであり、しかも真鍮が柔らかくちょっと力を入れると変形してしまうため作業は難航した。





本当は、主翼にある細いリブの穴の中に直径0.5mmほどの真鍮の主翼桁というものを左右2本ずつ通さねばならないのだが、何度やっても出来なかったので断念した。こんな作業をうまく出来るのはよっぽどのマニアしかいないだろうと少々腹が立ったが、マニア向けの模型なのかもしれないから、的外れの不満なのかもしれない。だが、それ以外は何とか作り上げて、プラスチック製の箱に入れて飾ってみるとなかなかいい感じである。苦労しただけに完成品(中途半端だが)を眺めるのは気分がいい。
次にペーパークラフトに挑戦したのだが、こちらは簡単にできるだろうと高をくくっていたら、案外そうではなかった。まず全ての部品を紙から切り取らねばならなかった。ミシン目が入っていてはさみなど使わずにすむと思っていただけに少々骨が折れた。組み立てるのも簡単ではない。うまい具合にのりしろや切れ込みが作られていて、ほおっと感心することも多かったが、その分作業は細かくて厄介だった。




これは一体何なのか、作る途中は分からなかったが、完成したものを妻に見せたら、「これと同じようなものが美術館においてあった」と教えてくれた。「中心棒をくるくる回せばアニメみたいに見える」と妻がやって見せてくれた。それほど感心もしなかったが、まあ完成できてよかった。
そう言えば、この美術館の入場券が洒落ている。アニメのネガが入場券に貼り付けてある。透かしてみると一場面が確かに見える。


目を凝らしてみたら、「魔女の宅急便」だ!!
あしたのジョー
少年マガジンで連載されていた「あしたのジョー」は毎週読んでいたが、当時野球小僧であった私は、同じ梶原一騎原作(「あしたのジョー」は「高森朝雄」の名で書いていた)の「巨人の星」の方が好きであったし、アニメも「巨人の星」の方に力を入れて見ていた。今ふり返るとやたら暑苦しい「巨人の星」のストーリー展開にも、当時の私は大ファンであった王貞治や長嶋茂雄が登場することで、毎週胸をときめかせていたのだろう。それに比べて「あしたのジョー」はボクシングという血なまぐさい世界の話であり、しかもジョーの終生のライバル・力石徹が死んでしまってからは、ジョーが破滅に向かってひた走る様が描かれているように思え、10代の私には少々荷が重すぎたのかもしれない。単純明快なスポーツ根性物語の「巨人の星」(大リーグボール3号辺りはジョーと同じく「滅びの美学」が描かれているが)の方が、単純な私には受け入れやすかったのだろう。
しかし、長じて何度も「あしたのジョー」を読み返すたびに、力石の死を引きずり、どうしてもそこから抜け出せないジョーの苦しむ姿に胸を打たれるようになった。「巨人の星」にも飛雄馬が愛する美奈さんを失った悲しみ・苦しみが描かれているが、「西に沈み行く満月と東から昇り出づる日輪」とを同時に見る印象的な場面を境にして、飛雄馬は悲しみを乗り越え、それを糧にすることができた。だが、力石を失ってからのジョーは常に悲哀に包まれ、そこから脱却できないでいる。アニメでは、TV放映が「少年マガジン」の連載に話が追いついてしまい、カーロス・リベラとの対戦までしか描かれることはなかったが、「あしたのジョー」は力石徹が死んだ後のジョーの生き様こそ、高森朝雄(梶原一騎)が見る者に伝えたいものであるように私は思う。悩み、苦しみ、のた打ち回り、自らの死に場所を見つけるために生きているかのような印象を受けるジョーの心の虚無は、カーロス・リベラ戦を経て、王者ホセ・メンドーサとのまさに死闘まで描ききらなければ、見る者に十全に伝わらないのではないかと思う。(勿論、自殺行為とも言える減量をしてまでジョーと戦おうという力石の姿に涙しないわけはないし、戦いが終わった後に力石が倒れるシーンを見て号泣するに決まってはいるが・・)
だが、ジョーと戦った相手のその後の姿は誰もが痛々しい。力石は言うまでもないが、顎をトリプルクロスカウンターで砕かれてしまったウルフ金串はヤクザの用心棒になってしまったし、カーロス・リベラはパンチドランカーになってしまった。ホセ・メンドーサさえも、戦いが終わった後には髪の毛が真っ白になってしまった。何もそこまでしなくても、と思わないでもないくらい、彼らはジョーとの戦いに己のすべてを賭ける。ジョーがそれほどの難敵だということなのかもしれないが、戦う男たちの勝負にこだわる執念と言うものが当時はそれだけ強かったのだと思う。誰もがハングリー精神にあふれ、自分の手で自らのあしたを切り開こうという貪欲さに満ち溢れていた時代、そう考えると、「あしたのジョー」という題名も象徴的に思える。決して昨日を振り返らず、明日のために今日を精一杯生きよう、そうした時代の空気がそこに込められているような気がする。40話まで小池朝雄が歌っていたエンディングソングの歌詞にもそれがうかがえる。
昨日はぐれたオオカミが
今日はマットで血を流し
明日をめざして立ち上がる
(立て、立て、立て、立つんだ、ジョー)
子守唄などリングにゃないぜ
立たなきゃ昨日に逆戻り
私は、ジョーがメンドーサと戦い終わって真っ白な灰になったのは、ジョーが死んだことを表しているのではない、ジョーは死んでいない!と当時から思っているし、今でもそう思っている。
まこちん
石原まこちんというマンガ家がいる。深夜ファミレスに集ってはダラダラ過ごす3人の若者たちを描いた「THE3名様」の作者だ。それを実写化したDVDも販売されているし、先日はWOWOWでも放映されていたから、ある方面では話題となっている作品なのだろう。その彼が、自身も3年間ダラダラと過ごしたニート(Not in Education, Employment or Training、略称NEET =15〜34歳の非労働力人口のうち、通学や職業訓練などを行わない者のこと)の時代に周囲で本当にあったことを、川柳とイラストで綴った「ニートとね自分で言うのは違うのさ」(太田出版)という本を読んだ。私は、一般にニートと呼ばれる若者たちになんらのシンパシーを感じる者ではないが、石原まこちんは、「THE3名様」をビッグコミックスピリッツで読んで以来の密かなファンであるため、話の種になればと一読してみた。
あとがきで彼は、
『この本の中で使われている「ニート」という表現は、あくまで分かりやすさ、伝わりやすさを優先した結果でして、僕は「ニート」という言い方、くくり方は賛成してません。(中略)(ニート期につけていた日記には)何もしていないのに大変忙しく日々を過ごしている自分が記されていたのです。「何もしていないのに忙しい」のです。(中略)社会的に見れば何もしていないのですが、僕個人の解釈では、大変充実した日々を送っているのです』
そうした『魔法のかかったようなシャンバラチックな夢の時間』を石原まこちんが、ニートという言葉が巷間流布してしまったために、魔法が解けてしまって、窮屈な思いをしているだろうと思いを寄せる人々に宛てた「ニート新定義本」である、本著の中から、私がう~んと思わずうなった、川柳のいくつかを著者自身の解説とともに、以下に抜粋してみる。
・ゲーム誌がオレのすべての情報源
(ゲーム情報だけでなく、音楽、映画、流行のプレイスポットなどあらゆる情報をゲーム誌からゲット。友人(ニート)へのウソにも使用されます。「オレよ~、あそこ行ったぜ!ジョイポリス!」)
・床叩き階下の母呼びシカトする
(またの名を、”母の愛・海抜チェック”)
・宝くじ当選日まではバイトしない
(300円で買える夢見る時間・・・ニートの贅沢ですね)
・母親に履歴書書かせる夏の午後
(リビングのテーブル。コツコツ響くペンの音。老眼鏡を掛けた母。脇には国語辞典。ソレを醒めた目で見ながら、キッチンで立ったままガリガリ君を食べるニート・・・。夕方父が帰ってくる前の出来事です)
・フリをしろ!思い悩んでるフリをしろ!
(重要ですね。ただ怠けているだけでは圧力もかかりっぱなしになり、自室までもなんだか居づらくなってしまいます。ここは「ニート」という、時代が作り出してくれた便利な言葉に甘えることです。「おれ・・・大丈夫かな・・・」「不安なんだよ・・・何をしててもさ・・・」など、自分がニートという病気であることを主張することです。これによりまあ、1年間はナマケを許されることでしょう)
・月2度ナメラれぬための雄叫びを
(やはり、優しいだけではニートはナメられますよね。圧力もかけられます。そのバランスをとるのにとても有効なのが、「雄叫び」です。深夜3時過ぎ、皆寝静まったとき、自室の窓やドアを開け放ち叫ぶのです。「どおおおおおおおおあおああああああああおおおおおおお!」)
・減ったのは友とお金と土踏まず
(ニート始めてから失うものは数々ありますが、中でも、ふと見た自分の足の裏がマッ平ら・・・。これは友からのメールが減ったときよりショックでした)
・とりあえずナンデモカンデモメンドくさい
(ニートの半分はこれです)
・無理だからいくら誉めても無理だから
(親兄弟、親友がニートを更生させようとするときによくやる過ちの1つが、この誉め殺しです。「お前の腕ならつとまるって!」「手先起用じゃん!」などなど誉められまくりニヤニヤするニート。あと一息で・・・と思う親兄弟。しかし、ニートのニヤニヤは、その場を穏便にやり過ごすためのウソ笑いにすぎません。心は決まっています。「ゼッテー、働かね!」 )
・フリーター!オレラを下に見るんじゃねえ
(ニートという言葉が市民権を得てから、確かにフリーターの鼻の下は伸びたような気がします。親兄弟にも今までより胸を張ることができるようになったことでしょう。それもこれもすべてニートのお陰なのに・・・。しかし、フリーターからの感謝はありません。フリーターからのお説教は受けることはあっても)
では、最後に私からの一句。
「おかしくてやがて悲しきニートかな」
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