西国三十三ヵ所巡りも残るは10カ寺(+番外1)となりました。結構な難所が残っており、できる範囲で頑張るしかありません。今回はそんな難所の三十一番長命寺と三十二番観音正寺を回ってみました。
どちらも滋賀県近江八幡市にあり、麓まではバスで行くことができるもののそこから山登りが必要という難所です。真夏や雪の日などは登ることが難しく、行く日を選ぶ必要もあります。きついのは観音正寺の方ですので、まずは観音正寺から回りたいと思います。観音正寺は旧安土町にありますが、JR安土駅からは登山口へのバスすらありません。一般的には隣のJR能登川駅から近江鉄道バスで登山口を目指すことになります。
新快速で能登川駅に到着。末端の各駅停車区間を除けば新快速の停車駅でとりわけマイナーな駅というか最も知名度のない駅だと言われます。現在は東近江市唯一の新快速停車駅です。
能登川駅の西側は田んぼや工場でしたが再開発され郊外型店舗や住宅が並んでいますが、バスは昔ながらの東口から発車しています。八日市駅行きで、1時間に2本程度運転されています。
バスはすぐに旧五個荘町に入ります。近江商人発祥の地とされます。西武グループの創始者である堤康次郎は隣の愛荘町出身で、その縁で近江鉄道を傘下に入れたと言われています。
観音寺口バス停で下車します。バスのアナウンスでも「観音正寺にお越しの方はこちらでお降りください」とありますので間違うことはないと思います。
観音正寺は繖山の上にあります。
バス停からも要所要所に案内看板がありますので迷うことはないと思います。
案内の通り進むと結神社という大きな神社に着きます。神職さんは常駐してないようで、御朱印はないと思われます。
境内の脇に看板があり、ここから観音正寺への登山道が続きます。すぐに動物除けの柵があります。必ず扉を閉めるようにしてあげてください。こちらに杖が置いてあります。滑りやすい階段なので杖を使うと便利です。
こんな感じの階段が延々続きます。滑りやすいので杖が便利です。
途中に北方向が見通せる展望台があります。この辺で半分くらい。
さらに登るとようやく未舗装ながら車道が出てきます。ここまで出ればあと少し。ようやく観音正寺です。
605年に聖徳太子が創建したとされる天台宗の寺院です。琵琶湖畔を巡っていた聖徳太子が人魚と出会い、人魚から「前世だった漁師のときに殺生を重ねてしまいこのような姿になった」と告げられ、太子自ら千手観音を彫り繖山に納めたことが始まりだとされています。その後近江を支配した佐々木源氏の筆頭格である六角氏が観音寺城を作り、六角氏の庇護の元で栄えたようです。しかし、足利義昭を奉じた信長の上洛戦で六角氏は蹴散らされ観音正寺も焼失、お寺の本格的な再興は江戸時代になって行われています。
ちなみに「麒麟がくる」ではナレーションだけで追い出されていった六角義賢(現在は六角承禎と呼ばれることが多いようです)は甲賀に逃げ込み、たびたび信長に対し兵を挙げたものの失地を回復できず晩年は秀吉に召し抱えられていたようです。子孫たちも大名として返り咲くことはできず、旗本であったり大名の家臣として仕えてゆくことになり、同じ佐々木源氏である京極氏(讃岐丸亀藩主)とは大きな差が付くことになります。なるほどここからは近江平野が見渡せ、兵の動きが一目瞭然です。すぐ近くにある安土城からも良く見渡せたことでしょう。
1882年に彦根城の建物を移築し本堂としましたが、1993年にに失火で全焼、2004年に再建されています。この際に重文指定されていた秘仏本尊の千手観音像も焼失しています。その後本尊は白檀により再建されています。白檀はインド政府から輸出制限がかかっており、ご住職が何度もインドに足を運んでようやく認められたのだそうです。
ご住職にお話を伺うと、この白檀の新しい本尊は常時公開となっており、本堂焼失前からあった前立本尊(秘仏の本尊のかわりに厨子の前に置かれる仏像)を現在秘仏としているそうです。2022年に公開予定で、以後33年ごとに公開したいとのことです。
観音正寺の御朱印と御詠歌です。
またご住職から「疫病除け」として元三大師のお札を頂きました。
下りもまた大変です。観音寺口から能登川駅に戻りましょう。続きます。
どちらも滋賀県近江八幡市にあり、麓まではバスで行くことができるもののそこから山登りが必要という難所です。真夏や雪の日などは登ることが難しく、行く日を選ぶ必要もあります。きついのは観音正寺の方ですので、まずは観音正寺から回りたいと思います。観音正寺は旧安土町にありますが、JR安土駅からは登山口へのバスすらありません。一般的には隣のJR能登川駅から近江鉄道バスで登山口を目指すことになります。
新快速で能登川駅に到着。末端の各駅停車区間を除けば新快速の停車駅でとりわけマイナーな駅というか最も知名度のない駅だと言われます。現在は東近江市唯一の新快速停車駅です。
能登川駅の西側は田んぼや工場でしたが再開発され郊外型店舗や住宅が並んでいますが、バスは昔ながらの東口から発車しています。八日市駅行きで、1時間に2本程度運転されています。
バスはすぐに旧五個荘町に入ります。近江商人発祥の地とされます。西武グループの創始者である堤康次郎は隣の愛荘町出身で、その縁で近江鉄道を傘下に入れたと言われています。
観音寺口バス停で下車します。バスのアナウンスでも「観音正寺にお越しの方はこちらでお降りください」とありますので間違うことはないと思います。
観音正寺は繖山の上にあります。
バス停からも要所要所に案内看板がありますので迷うことはないと思います。
案内の通り進むと結神社という大きな神社に着きます。神職さんは常駐してないようで、御朱印はないと思われます。
境内の脇に看板があり、ここから観音正寺への登山道が続きます。すぐに動物除けの柵があります。必ず扉を閉めるようにしてあげてください。こちらに杖が置いてあります。滑りやすい階段なので杖を使うと便利です。
こんな感じの階段が延々続きます。滑りやすいので杖が便利です。
途中に北方向が見通せる展望台があります。この辺で半分くらい。
さらに登るとようやく未舗装ながら車道が出てきます。ここまで出ればあと少し。ようやく観音正寺です。
605年に聖徳太子が創建したとされる天台宗の寺院です。琵琶湖畔を巡っていた聖徳太子が人魚と出会い、人魚から「前世だった漁師のときに殺生を重ねてしまいこのような姿になった」と告げられ、太子自ら千手観音を彫り繖山に納めたことが始まりだとされています。その後近江を支配した佐々木源氏の筆頭格である六角氏が観音寺城を作り、六角氏の庇護の元で栄えたようです。しかし、足利義昭を奉じた信長の上洛戦で六角氏は蹴散らされ観音正寺も焼失、お寺の本格的な再興は江戸時代になって行われています。
ちなみに「麒麟がくる」ではナレーションだけで追い出されていった六角義賢(現在は六角承禎と呼ばれることが多いようです)は甲賀に逃げ込み、たびたび信長に対し兵を挙げたものの失地を回復できず晩年は秀吉に召し抱えられていたようです。子孫たちも大名として返り咲くことはできず、旗本であったり大名の家臣として仕えてゆくことになり、同じ佐々木源氏である京極氏(讃岐丸亀藩主)とは大きな差が付くことになります。なるほどここからは近江平野が見渡せ、兵の動きが一目瞭然です。すぐ近くにある安土城からも良く見渡せたことでしょう。
1882年に彦根城の建物を移築し本堂としましたが、1993年にに失火で全焼、2004年に再建されています。この際に重文指定されていた秘仏本尊の千手観音像も焼失しています。その後本尊は白檀により再建されています。白檀はインド政府から輸出制限がかかっており、ご住職が何度もインドに足を運んでようやく認められたのだそうです。
ご住職にお話を伺うと、この白檀の新しい本尊は常時公開となっており、本堂焼失前からあった前立本尊(秘仏の本尊のかわりに厨子の前に置かれる仏像)を現在秘仏としているそうです。2022年に公開予定で、以後33年ごとに公開したいとのことです。
観音正寺の御朱印と御詠歌です。
またご住職から「疫病除け」として元三大師のお札を頂きました。
下りもまた大変です。観音寺口から能登川駅に戻りましょう。続きます。