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「自分の十字架」30分de一巻 Intermission

2016年11月16日 | Good News
今日は、30分de一巻の Intermission “キリストの弟子とは?”イエス様が弟子達に「本当にわたしの弟子になりたいのならこうしなさい」と語っておられる5箇所の福音書について語ります。

そのキーポイントとなる言葉が「自分の十字架を背負って」です。これはノンクリスチャンの方々も使われる使う言葉ですが、多くの場合“自分の十字架”とは、生涯、自分が背負い続けなければならない過去に自分が犯した過ちのことを指しています。例えば、自分に隠し子がいたとか、過去人を殺(あや)めてしまったとかです。

また、多くのクリスチャンの人たちは、クレネ人シモンのように、イエス様の十字架を共に担いで行くことだと、考えていますが、それは正しい解釈でしょうか?聖書の御言葉を追いながら確認して行きましょう。

マルコ:8:33-35
イエスは振り返って、弟子達を見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子達と共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

マタイ16:23-25 
イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」 それから、弟子達に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為に命を失う者は、それを得る」

ルカ 9:21-23
イエスは弟子達を戒め、このことを誰にも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。それから、イエスは皆に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

マタイ10:34-39
私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。 こうして、自分の家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。 

ルカ14:25-27
大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、誰かが私の元に来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない」

このイエス様のメッセージの対象は全て弟子達に対してです。(マルコ8章、ルカ14章は群衆も含む)そして、これら5箇所全てに共通する言葉は“自分の十字架”です。“私の十字架”ではありません。従って、「イエス様の十字架を共に担う」という解釈は誤りです。 私達はイエス様から救われた側で、救う側ではない事は言うまでもありません。全人類を救済した十字架の業を人間が担える訳がないからです。

また、5箇所の文章の目的語は全て「従いなさい」で、上記の3つの言葉は、「本当にわたし従いたいのなら」という前提で語られていますので、“自分の十字架”とは、真にイエス様に従うための具体的な方法であることが分かります。では、「自分の十字架」の意味について、ローマ書6章8節の御言葉を見てみましょう。

私達の古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならない為であると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

つまり、“自分の十字架”とは、過去に犯した過ちのことではなく、私達の内に生き続けている自分の古い自我であることが分かります。イエス様の十字架によって罪が滅ぼされ、クリスチャンには永遠の命が与えられているのですが、肉体を持ってこの世に生きている以上、私達の中には古い自我が依然として残っている。ですから、クリスチャンにはクリスチャン特有の葛藤が生じて来ます。そのことをパウロはこう告白しています。

私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まない事をしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分かります。「私は何と惨めな人間なのでしょう!死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。この様に、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(ローマ7:19-25)

さて、ここから適応に入ります。私達は人生における様々な局面において、自分の思いか、神様の思いか、その選択を迫られます。そこでイエス様は、「それがあなたにとって損をするような事であったとしても、信仰的判断をしなさい。それが結果的には真の幸いへと至る道なのだよ」と、私達に言われておられます。

全て、疲れた人、重荷を負っている人は、私の所に来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

多くの人達は、クリスチャンになると生活において様々な事が制約されると恐れ、躊躇しています。また、クリスチャンになったら、クリスチャンになる前より、人生に悩むようになったと、言う人もいます。ですが、このマタイ11章の御言葉にありますように“イエス様の荷は軽い”のです。ですから、もしあなたがクリスチャンとして歩む事が重いと感じているのなら、それは自分が重いと思い込んでいるか、イエス様の荷ではない荷を抱え込んでいるか、そのどちらかなのです。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る。(マタイ10:39 )

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為に命を失う者は、それを得る。(マタイ16:25) 

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 (マルコ:8:35)

“戦場において他者を守ることが出来る者は、自分を守る事へとつながり、自分の保身ばかり考えている者は結果的に身の破滅を招く”これは武士道にもつながるこの世の普遍的な価値観です。天地創造の神様に従って生きることは、自然の法則に従って生きることであり、それは永遠の命へとつながる生き方なのです。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(マタイ10:37)

もし、誰かがわたしの元に来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 (ルカ14:26)

 自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。(Iテモテ5:8)

人の救いを説く福音が、伝道のためには親族を犠牲にしても構わない等と、教えるはずはありません。ルカ14章の「これを憎まないなら」の「憎む」は、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(マラキ1:2-3、ローマ9:13)の「憎む」で、これは、カインとアベル、イシマエルとイサク、エサウとヤコブ、マナセとエフライム、天地創造以来続く、神様の選びの計画のことを意味しています。それは、文字通り「憎む」という意味ではなく、『兄は弟に仕える、弟が先で、兄が後』という、優先順位のことなのです。

つまり、クリスチャン生活の基は、神様か家庭か、神様か夫か、神様か子供か、という二者選択ではなく、神様を愛し、神様に愛されることによって、夫も、子供も、真に愛することが出来る様になると言う逆説的真理のことです。真の愛は献身であって、自己愛の裏返しではありません。イエス様を第一にすることが、真に配偶者の為、子供の為になる。何故なら、イエス様はいつも、私達の最善しかなさらないからです。

救いは、イエス様の十字架の恵みによって、無償で与えられました。それから私達の人生は、イエス様(聖霊)と共に歩む人生へと変えられました。その過程において、自我を取るか、神様を取るか、その判断は私達自身に委ねられています。「たとえそれが苦難の道であっても、信仰的判断をしなさい。あなたはわたしと共に、永遠の神の御国建設に向かって歩んでいるのだから」と、イエス様は言っておられます。イエス様に従って行きましょう。ハレルヤ





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6 コメント

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新ためて自分の十字架を担って (Mimita)
2016-11-26 22:15:18
今回のメッセージでイエス様が言われた「自分の十字架を背負って」と言う意味がはっきりと理解できて感謝でした。そしてその十字架をイエス様が共に担ってくださるとは、何と感謝なことでしょう!

もうすぐクリスマス。イエス様と出会ってもう30年が経ちました。30年前と比べて、はるかにイエス様を信頼し、イエス様に愛されている喜びに満たされ、成長し、幸せな人生を送っていると実感できることを感謝しています。

益々、イエス様に喜ばれ、そして、いつも喜びに満ちた日々を歩めるように、自分の十字架を担ってイエス様と共に歩んで行きたいと願っています。 ハレルヤ!
クリスチャンの人生 (Kent)
2016-11-27 09:29:53
クリスチャンとは自分の十字架を担ぐ事だと良く耳にします。今回のメッセージを聞いて、僕は色々と感違いをしていました。聖書の自分の十字架を担ぎなさいということは、自分の人生の苦労を背負うことなのだとずっと考えてました。でもそれは感違いでした。神様の荷は軽く、僕の荷は神様が担いでいてくださっているからです。ですから、よく自分がクリスチャンになって逆に苦労や嫌な思いをしたと言われる人がいますが、それは聖書的ではないということが、今回のメッセージを聞いてよく分かりました。私達は自分の十字架を担ぐ事で全能なる神様と繋がる事ができ、神の子とされるのです。永遠の命の恵みを与えてくださった神様の愛に心から感謝します。
自分の十字架 (Takashi)
2016-11-27 12:56:11
自分の十字架について
今まで自分の過去において重ねてきたもの
という間違った解釈をしていた。

過去ではなく
未来に対して自我を十字架につけ
自分がではなく、神ならどうする
という生活にしなければいけないと
改めて認識できた。

人間には難しく、神無しでは到底なしえないこと
だからこそ自分の十字架が必要になると感じた。


必死の語りかけ (Mu)
2016-11-27 22:35:05
聖書の教えとは、単なる道徳的、教訓的なものではない。神様の御言葉は生きる死ぬかの、命がかかったものなのだ。かつて、ローマによる迫害時代の弟子たちは主のために死んで永遠の命を得るか、自分にために生きながらえて永遠の滅びに至るか、そのどちらかを選択しなければならなかった。そんな生死に瀕する緊迫した状況で語られた、イエス様の必死の語りかけが、「自分の十字架を担いなさい」。

平々凡々に見える現代の生活においても、その日常生活の中で選ぶべき道がある。まさに一日一日が霊の戦場なのだ。そこで「神様の祝福の道」「信仰的判断」に導いてくださるイエス様のこの言葉が、私の命を保つための要、命綱だ。私はどれだけイエス様の「従う」に忠実だろうか、深く考えさせられた。
長年の疑問 (伊東孝文)
2016-12-09 07:10:58
ありがとうございます。自分の十字架とは、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着る事なのですね。長年引っかかっていたことが解けました。それにより、自分の中に古い人があることに気付くのですね。葛藤が生まれる。みじめな自分を発見する。40年来の私個人の大きな足かせが解かれました。感謝です。

今年の年頭聖句が、第二コリント5:17~18です。まだどこかに残っているかもしれません。直ちにイエス様に清めて頂きます。すでにイエス様が十字架に付けて下さった事を信じます。時間差があると思います。また、“憎む”のへブル的な表現と示して下さり、長い間の疑問が解けました。ありがとうございました。ハレルヤ!!
感謝! (えんぢぇる)
2016-12-13 08:13:10
そうです!「自分の十字架を負う」とは、「イエス様の」ではなく「自分の」、「過去」ではなく「未来に対する自我」をという意味です。この福音理解の基盤となる部分を間違って解釈してしまうと、聖化の過程が著しく停滞してしまいます..。皆さんの的確なアプリ、感謝します。ハレルヤ

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