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「彼の名は神 II」30分de一巻 Vol-10

2016年11月03日 | Good News
今日は、IIサムエル記です。本書はサウルの死後、ダビデが王となり、イスラエルを統一国家としての礎を築き、ダビデの晩年までが記されています。前回のレポートにも書かれているように、ユダヤの教典では預言書とされていますが、登場人物が大勢登場する歴史・人間ドラマとして読むことができます。サムエル記は、イスラエルの歴史の動きと言うより、人間の心の動きの方に焦点が当てられ、そこに神様がどのように介入されているかが主題となっています。

このような、多彩な本書の中心人物である、ダビデの人生を見る時、あまりにもドラマチックで、「私たちの人生や生活に適応できることってある?」と、考えてしまいがちですが、神様にとって、ダビデも私たちも同じ人間です。今日は、ダビデの「信仰のあり方」について焦点を当てながら、本書を読み解いていきましょう

ダビデの7つの信仰表現

ダビデ=「愛される者」
聖書に登場する人々の名前は、その人その者を表しています。ダビデは「愛される者」と言う意味。その意味の通り、ダビデほど、「自分は神様に愛されている」と、実感していた人物は聖書中他にはいないと言ってもいいほどです。詩篇に数多く残されているダビデの詩は、神様に素直な自分の気持ちを表しており、神様を賛美する言葉に溢れています。本書6章で神の箱がエルサレムは運ばれた時、「ダビデは麻のエフォドを身につけて力のかぎり踊った」とあります。その姿を見て、ダビデの妻、ミカルは心の中でダビデをさげすみ、ダビデにいやみを言いますが、ダビデは、自分を王としてくださった神様の前で踊っただけだと全く気にも留めません。

神様に愛されていることの確信(自己アイデンティティーの確立)
ダビデは自分の自己アイデンティティーを、自分の地位や才能にではなく、ただ、神様に愛されていると言う確信・安心感に、自己アイデンティティーを置いていました。

神様との深い絆
ダビデほど、いつも人間関係に悩まされていた人はいません。自分の長兄であるエリアブには疎まれ、上司であったサウルには殺されそうになり、直属の部下には裏切られ、優秀な部下の妻と不貞を行い、子供同士の争い、そして、子供の死を何度も経験します。それでも、ダビデが信仰を失わなかったのは、ダビデと神様との関係が人間同士の関係よりも前にあったからです。例えば、バト・シェバとの子供が病気になり、死んでしまった時のこと。子供が病気の時は、ダビデは嘆き、悲しみ、断食し、地面に横たわって、神に祈りを捧げていました。しかし、子供が亡くなったと聞いた途端に、断食をやめて立ち上がり、身を清めて、神様に礼拝を捧げ、食事をします。つまりダビデは、神様の領域を理解していたのです。そして、その領域に自分が踏み込むことができない事も、同時に理解していたのです。

          

神様を第一とする
神様と深い絆で結ばれていたダビデは、当然、神様を第一としていました。先ほどのバト・シェバとの子供が亡くなった時、彼が最初にしたことは、礼拝を捧げることでした。それは、自分の子供を神様に委ねる行為でもありました。ダビデはどんな時も、どんなことがあろうとも、神様を第一に行動していたのです。

人の裁きは神様に委ねる
人は、人から嫌なことをされると、相手に仕返しをしたくなります。しかし、ダビデはそうではありませんでした。あんなにもしつこく、自分を殺そうとしたサウルに対して、自ら手を下そうとはしませんでした。絶対的な神様への信頼により、自分自身が犯し得る罪から、神様が守ってくださるのです。

神様への賛美と感謝
詩編を読むと、ダビデがいつも神様に賛美と感謝を捧げていることが分かります。詩篇には、自分の立場の不遇さを神様に嘆き、訴えても必ず、神様が助けてくださると信じ、最後は、神様に賛美と感謝を捧げています。サムエル記下22章のダビデの感謝の歌は、詩篇18篇にも残されています。

神様との契約=礼拝を捧げる
ダビデは「神様が自分を喜んでくださる」ことを知っていました。(23:5)その確信の根底はどこにあるのでしょうか?
それは、預言者ナタンによってダビデに告げられました。(7:5-16、歴上17:4-15)神様と契約を交わした者は全て、神様に礼拝を捧げています。サムエル記下の最後にダビデが語った言葉も礼拝に関することでした。ダビデが「人口調査をする」と言う、神様がしてはいけないとした罪を犯した時も、罪の赦しを請うダビデに対し、神様は祭壇を築き、礼拝を捧げることを預言者を通して言われました。

ダビデは、アラウナの麦打ち場を持ち主のアラウナが受け取ってくださいと言ったにもかかわらず、お金を払って買い取ります。礼拝に対して、犠牲を払うことが当然であるとダビデは考えていました。同じように、この場所は、アブラハムが神様を礼拝するためにイサクを捧げようとした所でした。そして、ソロモンがこの場所に神殿を建て、千年後、この場所でイエス様が十字架にかかり、私たち、全人類の罪を贖ってくださったのです。そして、今、神様に赦された私たちがいます。ダビデと私たち、神様に同じく愛されている者なのです。(Report by Mimita



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コメント (17)
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