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エゼキエルの預言の特徴は「主の言葉が私に臨んだ」。これが彼の預言の導入句である。そして、「彼らは私が主である事を知る」この言葉は、48章中27章、計70回登場する。そして、ゼキエルが語った預言の中で、最も重要なのが、以下に述べられている永遠の契約の預言である。
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おそらくエゼキエルは、このバビロンのユダヤ人居住区で生涯を終えたと思われるが、彼が捕囚の地で、生涯迄語り続けた事は、「今、我々には、国も、神殿も、自分の家さえもない。しかし、一つだけ、私達にとって最も大切なものがある。確かに主は、エルサレムの神殿から去られた。しかし今、主は、遠い異国の地に連れ去られた私達の元に来て下さっているのだ!」という、希望の光だった。
バビロン捕囚は、イスラエルの民から偶像礼拝を取り除く為の最後の手段だった。確かに捕囚以降、イスラエルの歴史において、偶像礼拝によって国が滅んだという歴史的事実はない。それが、ユダヤの人達にとってエゼキエルは、捕囚後のユダヤ人信仰の基礎を構築した「ユダヤ教の父」と呼ばれている所以である。それを可能にさせたのは、民の悔い改めとと、そこに働いてくださっていた新しい霊の力があったからこそ。この主の臨在、
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今日のメッセージで分かったのは、多くの人は聖書は難解だと言いますが、聖書は神の生きた言葉であり、知識だけで分かるものではないと言うことです。聖書の言葉は霊で書かれてありますから、霊で受け止めなければ、理解する事は出来ません。
自分は不平不満でありがちですが、絶えず祈り、エゼキエル36章26節の御言葉にあるように、頑固な心では無く、聞き従う心を持てるように神様を信頼して行きたいと思いました!
今日のエゼキエル書のメッセージを通して、クリスチャンとして成長しているか?
すなわち、神様の恵みを受けるだけのクリスチャンでなく、神様の恵みを受けて、成長するクリスチャン=神様の御心を行なうクリスチャンになることの切実さを感じました。
近頃、周りの人々に伝道しているか?
救いのために祈っているか?
時の迫りを感じながら、何か先送りにしている自分を示され、悔い改めなければならないと感じました。
私は愛する人々に福音を伝えていない。聖書を知り、永遠の命のことを知る私が見張り手としての責務を果たさないなら、その責任は私にある。この神様の約束から、実は目を逸らしていた私がいる。私の心は私の利益に向いている。行いが伴わない。そんな様々な、ここには書ききれない思いがあった。
その中で、エゼキエル最後の言葉が希望だった。「主がここにおられる」この手の内に何もなくなったとしても、残されているものがある。「主がそこにおられる」
主に出会おう。何度でも、主の前に出よう。そのために祈るしかない。
もう一つ別件では、個人的なことを少し離れて、バビロン捕囚後、イスラエルの歴史から偶像礼拝はなくなった、ということが嬉しい発見だった。日本も数多の偶像崇拝が蔓延っている。しかし、神様の言葉によって、それは完全に終わると感じたからだ。日本のためにも、更に祈ろう。
しかし、今回のメッセージ冒頭にあった通り、何処と無くエキセントリックと言うか、読みにくい書簡だなぁと言うのが、私の持っている印象だった。
どうしても、途中で挫折してしまう。
しかし、改めて読んでみるとやはりとんでもなく大事な事が山ほど書いてあった。
特に、見張り手の預言と言うのは、今まで知らなかったが、私の胸に強く刺さった。
今まで、心の何処かで自分は救われてるから、他人は…と思ってしまっている自分がいた。
でも、逃げてばかりいたら、何も改善しないし何も進展しない。
しっかりと神様の救いを広め、祈っていかなくてはいけないと、強く思った。
イスラエル復興の預言で、現在は国としての復興がかなり進んでいる。
まもなく、イエス様の再臨が有るのだという、良い意味の緊張感を持って、神様から与えてもらった仕事から逃げないように、頑張っていこうと思った。
エゼキエルが身を使ってのメッセージはつまされてしまいます。33章の「見張りの務め」は大切な事と思います。エゼキエル書ではっきりと「バビロン捕囚」の意味が語られているのですね。イスラエル建国の預言なども書かれてあったのですね。これらの事を踏まえもう一度読み解いていきたいと思います。
聖書はイスラエル民族を通して私達への神様からの私達へのメッセージだと思いました。イスラエル民族への感謝と立ち返りの祈りを神様に捧げなければと思わされています。次のダニエル書をお送りくださいませ。