見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

人類史上最高のやきもの/北宋汝窯青磁水仙盆(大阪市立東洋陶磁美術館)

2017-01-16 23:34:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪市立東洋陶磁美術館 特別展『台北 國立故宮博物院-北宋汝窯青磁水仙盆』(2016年12月10日~2017年3月26日)

 ずいぶん前から「人類史上最高のやきもの 海外初公開、初来日」という宣伝チラシを見かけて、大きく出たなあと苦笑する気持ちと、まあ当然だよね、と納得する気持ちの半々でいた。本展には、台北の国立故宮博物院から、汝窯の最高傑作『青磁無紋水仙盆』をはじめとする北宋汝窯青磁水仙盆4点と、清の皇帝が「青磁無紋水仙盆」を手本につくらせた景徳鎮官窯の青磁水仙盆1点が出陳されている。これに加えて、東洋陶磁美術館が所蔵する汝窯水仙盆1点も展示される。

 開館と同時に入って、2階にあがってすぐの企画展示室へ。正方形に近い小さな展示室で、四方の展示ケースに、いずれ劣らぬ気品ある姿の汝窯水仙盆が鎮座しているのが、一気に視界に入る。とりあえず左回りに順序よく見ていくことにする。展示ケースのガラス面に、それぞれのキャッチフレーズが添えられていた。

V)青磁水仙盆/汝窯・北宋/大阪市立東洋陶磁美術館・安宅コレクション「伝世汝窯青磁の日本代表」
 やや小ぶりな印象。口縁部には黒っぽい銅の覆輪がはめられている。貫入が目立つ。

II)青磁水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「天青色の極み」
 いちばん青みが強い。口縁部には黒っぽい銅の覆輪がはめられている。大きさは故宮博物院の所蔵品の中ではいちばん小ぶりで「V」に近い。今回の展示は、どれも鏡とガラス板の上に作品を置いて、底の裏が見えるようにしている。裏に乾隆帝の御製詩が刻まれているのだが、光線の加減で、ほとんど見えなかった。

III)青磁水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「最大サイズの水仙盆」
 他より口径が3センチくらい大きい。脚はきわめて短く、ほぼ脚がない印象。色は比較的青みが強い。覆輪なし。内側は滑らかだが、外側は貫入が目立つ。裏に御製詩あり。

I)青磁無紋水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「人類史上最高のやきもの」
 これだけ名前に「無紋」が入っているのは、貫入が全くなく、内側も外側も奇跡的に滑らかなのである。照明が当たって、きらきら輝いていた。覆輪なし。いくぶん深めで脚も長く、シルエットも美しい。裏に御製詩あり。

IV)青磁水仙盆/汝窯・北宋/台北国立故宮博物院「無銘の帝王」
 大きさ、形態は「I」によく似ている。色は少し緑がかっている。裏に御製詩がないので「無銘」と言われるのだろう。

VI)倣汝窯青磁水仙盆/景徳鎮官窯・清雍正~乾隆年間/台北国立故宮博物院「汝窯青磁水仙盆へのオマージュ」
 これは1点だけ単独のケースに入っていた。「I」をモデルに作らせたものという。かたちはよく似せているが、釉薬の色はなかなか制御できないのだろう。質感がマットになり過ぎている。

 昨年5月、台北の故宮博物院を訪ねたとき、ちょうど「朝星の如く貴き-清朝宮廷に収蔵された12~14世紀の青磁特別展」という特集展示をやっていて、私はI~IVの水仙盆を現地で見ている。ただし最高傑作の「I」は別室にあって、II~IVと比較することができなかった。また、最近の故宮博物院は、大陸の団体客が多くて騒がしく落ち着かない。それに比べると、今回の展示は「人類史上最高のやきもの」を心ゆくまで堪能できる、実に貴重で幸福な機会だと思う。正直、東博に白菜がきたときみたいな騒ぎにならなくて、本当によかった。いつか台北に行こうと思っているやきものファンは、ぜひいま大阪へ!

 なお今回、I、II、VIの付属品も出陳されている。Iの付属品は、まず、紫檀描金の台座。水仙盆の楕円形に四つ脚のかたちを模しているのが面白い。汝窯青磁の軽やかな透明感と、渋い紫檀描金のコントラストのセンスがすごくいい。そして、台座の引き出しを開けると、乾隆帝による「御筆書画合璧」という小冊子(折本?)が入っている。「臨黄庭堅」「臨蘇軾」などの詩、梅、蘭、松などの墨画、そして「太上皇帝之宝」の印影など。書画なら賛や跋を記したり、何度も印を押すことで、所有権を確認できるけれど、やきものにはできないので、こんな附属品をつくったのだろうか。IIも同型の台座。VIは小判型の平たい弁当箱のような台座で、やはり乾隆帝筆「臨王義之五帖」という冊子が入っている。

 平常展『安宅コレクション中国陶磁・韓国陶磁』、特集展『宋磁の美』も力が入っていた。韓国陶磁は、青磁の優品を揃えている感じで、中国陶磁は、金や遼の三彩が面白かった。特別展の図録は、確かに写真は素晴らしいのだが、ハードカバーで重たそうだったので二の足を踏んだ。かわりに、乾隆帝筆「御筆書画合璧」の写真が大きく載っていた「聚美」という雑誌(特集・汝窯-珠玉の青磁)を買って帰った。

※1/17追記



 これと同じ写真を、行く前にSNSで見て、え!汝窯水仙盆に水仙生けちゃったのか!と驚愕したが、さすがに違った。これは日本の陶芸家・島田幸一(1937-2016)の作品。半生をかけて汝窯の「再興」に取り組んだが、納得のいくものは20点に満たなかったという。水仙盆は4点あり、うち2点の作品が展示されている。常設展エリアのいちばん奥なので、ぜひ見逃さないでほしい。このエリアだけ写真撮影可。水仙は造花。
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ケレンと人情/文楽・奥州安達原、染模様妹背門松、他

2017-01-15 23:56:47 | 行ったもの2(講演・公演)
国立文楽劇場 平成29年初春文楽公演 第1部(1月14日、11:00~、16:30~)

・第1部『寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)』『奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)・環の宮明御殿の段』『本朝二十四孝(ほんちょうにじゅうしこう)・十種香の段/奥庭狐火の段』

 明けましておめでとうございます。正月は大阪文楽劇場の初春公演を見に行くのが、すっかり定例になってしまい、これがないと年が明けた気がしない。今年も舞台の上には「にらみ鯛」と「大凧」。大凧の文字は、生國魂神社(大阪市天王寺区)の中山幸彦宮司による「丁酉」。



 第1部は「国立劇場開場五十周年を祝ひて」目出度く『寿式三番叟』で幕開け。舞台の後方の雛壇に三味線と太夫、9名ずつが並ぶ。中央は呂勢太夫と鶴澤清治。三番叟は一輔(又平)と玉佳(検非違使、イケメンのほう)。かなり激しい動きで長い時間、動き続けるので、これは体力がいるなあと思った。あとで劇場1階の展示室をのぞいたら、過去の『寿式三番叟』のダイジェスト映像をつないだものが流れていて、文雀さんと先代の玉男さん(左を遣っているのが今の玉男さん)、蓑助さんと勘十郎さん、かなり若い桐竹紋寿さん、吉田文吾さんなど、懐かしい映像を見ることができて嬉しかった。

 『奥州安達原』は題名だけ知っていたが、初めて見た。安倍貞任、宗任兄弟と源義家が登場する。史実を大胆に改変して虚構の物語世界をつくっているわけだが、その設定がかなり複雑なので、幕間にプログラムの解説を読んでおかなかったら、全く分からなかっただろう(久保裕明先生の「ある古書店主と大学生の会話」が分かりやすい)。しかし、親に隠れて安倍貞任(仮の名を桂中納言則氏)と通じて子をなした袖萩は、あそこまで罵倒されなければならんのか。町人の娘ならともかく、武士の娘たるもの、というのだが、封建社会は面倒くさい。もちろん義理をいうのは建前で、父も母も、内心には娘への愛情を持っているのであるが。

 『本朝二十四孝』も、私は何度か見ているので人物関係が分かっているが、今回の上演部分だけだと理解しにくいのではないかと思う。隣のおばさんが「よう分からんわ」とぼやいていた。しかし筋が分からなくても、火の玉とか早変わりとか、ケレンたっぷりで目に楽しい演目である。勘十郎さん、くるくるよく回るので、振り回される左遣いと足遣いが大変そうだった。蓑助さんの腰元濡衣は、やっぱり格段に色っぽい。

・第2部『お染久松 染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)・油店の段/生玉の段/質店の段/蔵前の段』

 第2部はあまり期待していなかったのだが、かえって第1部より面白かった。世話物は、時代物と違って込み入った設定もないし、詞章も平易なので耳で聞いてほぼ分かる。「油店の段」は、中を咲甫太夫、切を咲太夫。咲甫太夫さんの声も好きだが、咲太夫さんの芸がすばらしい。老若男女、十人に及ぶ個性的な登場人物を語り分けながら、旬なギャグも挟んでくる(誰が書いているのだ?)。人形は、失敗ばかりの小悪党の善六を勘十郎さん。笑いを誘う役が本当にうまい。久松の父親・久作は玉男さんで、こういう頑固で実直な百姓役がよく合うように思う。

 物語は、途中の「生玉の段」が全て夢であったというのが、ちょっと面白い趣向。それから、お染久松の恋敵(お染の嫁入り先)の山家屋清兵衛というのが全く悪人でなく、むしろ人格者というのが面白かった。でもお染にとっては、大人(おとな)の山家屋より、いたずら者で将来のない久松のほうが魅力的なんだろうな。蓑二郎さんのお染は娘らしく可憐で、しかも色っぽかった。これから注目していこう。

↓1階ロビーに置かれたにらみ鯛。


↓開演前、床(太夫と三味線が登場する台)に飾られた大阪風のお供え餅。


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公衆衛生の誕生/感染症の近代史(内海孝)

2017-01-13 00:39:47 | 読んだもの(書籍)
○内海孝『感染症の近代史』(日本史リブレット) 山川出版社 2016.10

 江戸時代の日本は清潔だったという言説がある。まあこれは、虚偽とは言わないけれど、清潔の基準によるのではないかと思っている。本書は、幕末から明治初期にかけての感染症(伝染病)流行の実態と、その防止につとめた人々の努力が語られている。近世以前の日本では、疫病によって多くの命が失われたため、季節ごとに邪気を払い、非業の死を遂げた人を悼むことが年中行事化した。京都の祇園祭や江戸の隅田川花火大会もそうである。

 古代から日本人を苦しめてきた疫病に天然痘がある。予防法である牛痘種痘法は、発見から半世紀後の1849(嘉永2)年に日本に伝わった。その年から二千人余に種痘を施したのは、安芸の国の蘭方医、三宅春齢。1857(安政4)年、江戸の蘭方医がお玉が池に種痘所を開く。しかし、1866(慶応2)年の年末に京都で孝明天皇が天然痘のため死去。親王(のちの明治天皇)の祖父にあたる中山忠能は、蘭方医の大村泰輔をして、密かに親王に種痘を施していた。「密かに」というのは、ものすごい危険を冒した大英断だったんだなあ。

 そののち、新政府成立後の1876(明治9)年、内務省は天然痘予防規則を布達し、小児の種痘を義務化する。孝明天皇の死から、わずか10年しか経っていないのだから、この変化はすごい。この間に、岩倉米欧使節団の派遣があり、理事官随行員の長与専斎は、ドイツとオランダに赴き、医学教育、貧民救済、上下水道の整備、薬品・飲食物の用捨取締などを調査し、帰国後、文部省の医務局長に就任して、「医制」の改正を行った。長与が調査したのは、今なら「衛生行政」とか「厚生行政」と呼ぶべきものだろうけど、その言葉も概念もない状態で、現実の仕組みを日本に移植しようとしたのだから、この時代の行政官(学者)はすごい。

 さて、19世紀に世界を席巻した流行病はコレラである。インドの風土病であったコレラは、欧米諸国の貿易活動によって地球規模に拡散した。日本への初襲来は1822(文政5)年で、その後も繰り返し流行が見られた。1877(明治10)年のコレラ流行に際し、横浜在住の外国人たちは日本人に手洗いの敢行を呼びかけた。「手洗い」は今日でも感染病予防の有効な手段だが、外国人から見ると、多くの日本人が「清潔な習慣を身につけているとは決していえない」状態であった。

 「清潔な水」の問題もある。イギリス人ブラントンは、井戸からさほど離れていないところに簡易便所や糞尿溜めが作られているため、地中の水脈を通って、有害物質が井戸の水に流れ込んでいることを指摘し、近代的な上下水道工事の必要を説いた。この、汚物と水汚染の問題は、モースも指摘している。また長崎で医学教育にあたったポンぺは、時々、学生と市中を散歩して、臭い溝、汚物の山などを見せ、これらが人類の衛生上、恐るべき害をもたらすことを説いたが、衛生学の講義は「最初、学生にはほとんど受け入れられなかった」という。怪我を手当するとか、病気を治療することは理解できても、予防、保健衛生の意義は、なかなか理解されなかったのだろう。

 もっとも、当時のヨーロッパも、コレラの流行に震撼しながら、近代的な公衆衛生のシステムを急速に確立していた時期なので、日本がいちじるしく遅れていたわけではないようだ。

 感染症は外国船舶が運んでくることが多いため、「検疫」は重要な予防策である。また、戦争はしばしば感染症の流行を引き起こす。西南戦争においては、長崎のコレラが戦場地の鹿児島に達し、凱旋する兵士の輸送船が神戸港に入港すると(兵士たちは制止命令を聞かずに上陸し)町家でコロリと息絶える者があったという。これは西南戦争の余話として知らなかった。怖い話である。不平等条約の時代、検疫で足止めされることを嫌ったドイツ船が、日本側の官憲の制止を無視して、乗客と荷物を上陸させた事件もあった。主権が守られなければ、感染症の予防も完遂できないのだということをしみじみ感じた。

 このほか、1899(明治32)年のペスト流行、1913(大正2)年のスペイン風邪(流行性感冒)、肺病(結核)についても簡単な記述があるが、もっと詳しいことが知りたくなった。最後に、明治のお雇い外国人医師ベルツは、駒込の伝染病院を訪れ、バラックのように貧弱な施設、患者数に対する医師や看護婦の少なさを見て「一体東京市は、病気の市民のために何をしているのだ!」と憤激している。私たちは、日本が他国と比べて清潔かどうかよりも、この国で貧しい人たちの生命がきちんと保護されてきたかを気にした方がいいと思う。
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職人の絵心/染付誕生400年+興福寺の梵天・帝釈天(根津美術館)

2017-01-11 23:22:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 コレクション展『染付誕生400年』(2017年1月7日~2月19日)・特別展示『再会-興福寺の梵天・帝釈天』(2017年1月7日~3月31日)

 まだ松の内のゆったりした空気の残る美術館に、いそいそと出かけたのは、染付磁器が大好きなのもさることながら、特別展示の梵天と帝釈天が見たかったためだ。展示室3に直行すると、左に帝釈天立像、右に梵天立像が並ぶ。この展示室は、狭いけれど、高い天井から足元までが全面ガラス張りで、しかも透明度が高く反射の少ないガラスを使っているので、何の障壁もなく仏像に向き合っている気持ちになる。ガラスの存在を忘れて、まっすぐ歩み寄ってしまいそうだ。

 二つの像は、どちらも奈良の興福寺に由来する。治承4年(1180)平重衡の焼き討ちの後、仏師定慶によって作られたもので、銘文から、帝釈天立像は建仁元年(1201)、梵天立像は建仁2年(1202)の作と分かっている。帝釈天立像は、明治年間に益田鈍翁に渡り、のち根津美術館の所蔵するところとなった。後ろの壁には、根津嘉一郎(初代)と帝釈天のツーショット写真も展示されていた。梵天立像は、現在も興福寺の所蔵である。実は、あまり記憶がなかったが、ふだんは国宝館で展示されているらしい。2009年に国宝館を見たときに「気になった」という印象をメモしている。

 このたび、興福寺の国宝館が耐震改修工事のため、平成29年1月1日から12月31日まで休館することを機縁に、梵天立像に東京においでいただき、112年ぶりに梵天と帝釈天が再会する特別展示が実現することとなった。どちらも鎌倉風(宋風)の清新で溌剌とした仏像だが、並べてみると印象はかなり異なる。像高はほぼ同じだが、帝釈天のほうが頭部が大きく、眼も鼻も大きくて、顔立ちがはっきりしている。胸の前にあげた右手は変わった印を結び、左手には蓮華を持つ。高く結った髪は台形に近いスマートなかたちである。

 帝釈天がソース顔なら梵天はしょうゆ顔か。卵形の温和な顔立ち。ぽってりした唇は少しへの字に結ぶ。右手は胸の前、左手はお腹の横あたりで軽く握っている。結髪は円筒形。よく見ると、髪の生え際から上が不自然にへこんでいて、本来は宝冠を取り付けるかたちになっていたものと思われる。心なしか梵天のほうが、宋風彫刻との近さを強く感じさせる。そして、どちらも華やかな彩色の名残を微かにうかがうことができる。

 あらためて、コレクション展の会場へ。本展は、平成10年(1998)に山本正之氏から寄贈された作品を中心に、17世紀から19世紀までの肥前磁器を概観する。開催趣旨によれば、世界中が憧れたやきものである磁器は、日本では今からおよそ400年前の元和2年(1616)、朝鮮半島より渡来した陶工・李参平が、肥前でその焼成に成功したのが始まりとされている。これは知らなかった。1610年代から磁器の焼成が始まったというのは、だいたい認識していたけれど、「元和2年(1616)」というのが何の記録によるのかは確かめていない。しかし、有田は2016年に「日本磁器誕生・有田焼創業400年」という記念事業をやっていたのだな。全然知らなかった。

 展示は、おおよそ時代順に、初々しい小さな染付磁器に始まり、次第に大皿やバラエティに富んだ意匠が誕生し、色絵や金襴手も登場する。展示室2は、洗練をきわめた鍋島の特集だが、私は、展示室1に戻って、民窯らしい「抜けた」図柄が好き。職人が描いた山水図や人物画は、自由で無防備で、専門絵師の作品にはない、幸せな味わいがある。種類は分からないが、顔が長くて背びれの大きいサカナ、大きく口を開けて無心に歌っているトリの姿にも惹かれる。

 なお、東大構内(看護師宿舎、中央診療棟などの病院エリア)で出土した施釉磁器の破片も展示されていた。このエリアは大聖寺藩上屋敷跡に当たるらしい。多くは小さな断片だったが、直径20センチほどの完形に近い染付皿も発見されていた。

 展示室5は、この季節にふさわしい『百椿図』。展示室6は「点て初め-新年を祝う-」と題したしつらえで、1階が染付磁器の特集であるため、わざとそれ以外の茶器を選んで展示しているように思った。大井戸茶碗とか絵唐津とか、中国磁器の『呉州赤絵玉取獅子文鉢』や『祥瑞山水文徳利』も大好き。青の染付もいいが、赤絵もいいのである。
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普通の人々の選択/ポピュリズムとは何か(水島治郎)

2017-01-10 22:53:11 | 読んだもの(書籍)
〇水島治郎『ポピュリズムとは何か:民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書) 中央公論新社 2016.12

 近年、世界各地でポピュリズム(大衆迎合主義)と呼ばれる政党や政治運動が躍進している。本書は、ポピュリズムを理論的に位置づけたうえで、ヨーロッパとラテンアメリカを中心に、各国におけるポピュリズム成立の背景、展開と特徴などを分析したものである。はじめ本書のタイトルを見たときは、理論的な分析が主なのだろうと思ったが、読んでみると、具体例の記述のボリュームが多くて面白かった。

 まず南北アメリカ。19世紀末のアメリカ合衆国に現れた人民党(People's Party)は、短い期間で消えてしまったが、ポピュリズムすなわち、「普通の人々に依拠してエリート支配に対抗する政治運動」の起源というべき存在で注目に値する。20世紀には、ラテンアメリカをポピュリズムが席巻する。寡頭支配層の権力独占に抗し、主に中間層出身のリーダーが民衆を大規模に動員して改革を訴えた。アルゼンチンのファン・ペロンと妻のエヴァ(エビータ)の例が詳しく語られている。

 続いてヨーロッパ。まずフランスの国民戦線、オーストリアの自由党、ベルギーのVB(フラームス・ブロック)を取り上げる。これらは、もともと極右系の老舗政党だったが、近年は、デモクラシーを受容することによって幅広い支持を受けるポピュリズム政党への脱皮に成功した。既成政党批判と移民排除(反イスラム)が重要なテーマになっている。

 「反イスラム」という点で注目されるのが、デンマークとオランダである。両国のポピュリズム政党は、歴史的に極右勢力との結びつきを持たず、むしろ「リベラル」な価値を重視するがゆえに、自由や人権、男女同権などの西欧的価値を共有しないイスラムへの批判を展開している。極右とは一線を画す、啓蒙主義的排外主義とでも呼ぶべき主張である。

 スイスは国民投票が制度化されており、デモクラシーの理想を体現した国というイメージが普及している。しかし近年は、その国民投票を梃(てこ)ととしてポピュリズム政党が躍進している。国民投票は、人民の主権を発露する場である一方、議会では到底多数派の支持を得られないような急進的な政策を通してしまうという点で、諸刃の剣なのである。

 イギリスでは国民投票でEU離脱が決まった。離脱キャンペーンの中心となったイギリス独立党の躍進の背景には、イギリス社会の分断と「置き去りにされた人々」(中高年の労働者層)の出現が指摘されている。既成政党が高学歴の中間層にターゲットを置き、政党政治が中道化していく中で、見捨てられた労働者層の共感を集めたのがイギリス独立党だった。

 そして、2016年アメリカの大統領選挙。トランプの勝利をもたらしたのは、中西部から北東部にかけてのラストベルト(錆びついた地域)と呼ばれる旧工業地帯の白人労働者層であったと言われており、イギリスの「置き去りにされた人々」と大きな親近性がある。

 (日本の橋下徹と「維新」に少し触れたあと)最後にフランスとドイツの近況について。マリーヌ・ルペンを党首とするフランスの国民戦線は、党の現代化に成功し、三大政党の一角を占めるに至っている。ドイツは、小党乱立を防ぐ選挙制度や反民主的政党の禁止など、従来、ポピュリズム政党の躍進が困難だったが、AfD(ドイツのための選択肢)は、一定の成功を収めつつあり、今後、ドイツにとって厄介な存在となる可能性がある。

 正直にいうと、私は諸外国の政治状況には全く疎くて、フランスの国民戦線が支持を拡大、などというニュースを見ると、どうしてまた極右政党が?とあやしんでいた。本書を読んで、かつての極右政党が、すっかり面目を改めているということが得心できた。極右とは全くかかわりのない「リベラル」な排外主義という主張があることは、内藤正典さんの『となりのイスラム』で読んで、へえ~と思っていたが、本書によって、だいぶその中身が分かった。

 そもそも「右」とか「左」という分類は、もう世界規模で崩壊しているのだな。どの国・地域でもポピュリズム躍進の背景にあるのは、エリートと普通の人々の分断・対峙である。普通の人々(労働者層)は、政治・文化エリートが主導するグローバリズムに違和感を持ち、移民受け入れが引き起こす財政負担や雇用不安を忌避し、伝統的な価値観に固執している。しかし、イギリスにしろアメリカにしろ、そうした普通の人々が下した判断を「無知」「無責任」と非難し、侮辱するだけでは、分断は深まるばかりで何も変わらない。

 日本でも社会の分断が進行していると思う。そして、明日の生活の心配をしなくてよいという点で、私はたぶんエリート層に属するだろう。そういう自分が、もっと厳しい現実に向き合っている「普通の人々」と、どんな言葉で語り合うことができるのかをいろいろ考えさせられた。
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トリも猫も/日本画の教科書・京都編(山種美術館)

2017-01-08 12:07:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 開館50周年記念特別展 山種コレクション名品選III『日本画の教科書 京都編-栖鳳、松園から竹喬、平八郎へ-』(2016年12月10日~2017年2月5日)

 会場に入って、まず迎えてくれるのは、竹内栖鳳の『斑猫』。京都の日本画といえば、やっぱりこの人だよな、と思う。肉付きの薄い背を向けて、体を曲げて、思わぬ青い目でこちらを見上げる姿。絵画の中の日本美人みたい。なお、モデルになった実際の斑猫の写真あり。近代日本画の猫と言ったら、この斑猫と菱田春草の黒猫が双璧かなあ、などと考える。

 栖鳳は、このほか『晩烏』『みみづく』『鴨雛』など、トリ年にちなんで、鳥類を描いた作品が多いように思った。ウサギとかサルもたくさん描いているのに。『憩える車』と題して、農家の水車を縦長画面の半分くらいの大胆なアップで描き、その上にとまった青鷺(?)を描いた作品が好き。

 栖鳳は優れた指導者で、画塾「竹杖会」の弟子に上村松園、西村五雲、橋本関雪らがおり、京都市立絵画専門学校の弟子に村上華岳、小野竹喬らがいる。なお絵画専門学校の同僚には都路華香、菊池芳文。これは、会場の小さなパネルに書いてあった説明をメモしてきた。山種美術館は、こうした説明パネルを目立たせないようにしているので、読まずに作品を鑑賞したい人の邪魔にならないし、読むといろいろ興味深いので、ありがたいと思っている。

 西村五雲の『松鶴』は、長い首を胸の中につっこんで毛づくろいしている鶴の姿が、いかにもありそうで面白いなあと思った。土田麦僊『大原女』は、何度も見ていて、そんなに好きな作品ではなかったのだが、あ、これは「四曲一双」の屏風なんだ、ということに初めて気づいた。隣りの福田平八郎『桃と女』が六曲屏風だったので、画面の広さがぜんぜん違うということに気づいたのだ。このおおらかで躍動的な画面を構成するには、四曲でないと駄目だと思う。じゃあ、屏風でなく平面の大画面では?と考えると、右隻の大原女の前のめりな姿勢と、左隻の群竹の左に傾いた並びが交差する面白さが半減すると思う。

 小野竹喬は『冬樹』と『沖の灯』の2点で、どちらも最晩年の作。写実とか抽象とかの言葉で語るのが面倒くさくなるくらい、色彩がまっすぐに美しくて好き。『沖の灯』は、ネットで検索すると、いくつか画像がヒットするが、色の印象が違いすぎる。これは本物を見ないと駄目。画面前方(下方)の魚の群れらしきもの、またたく星のような沖の灯、雲の垂れこめた暗い水平線、まだ桃色の夕映えの残る空、と順に目を移していく(この逆でも)のがいい。上村松篁も『千鳥』『春鳩』と鳥類シリーズだったが、女王様のような『白孔雀』が、いつ見てもすてき。上村松園の美人画はやや苦手なのだが、名作『砧』が出ていることを記録しておこう。

 なお、日本画の絵具の原料や筆などを参考展示しているケースがあって、昨年末に見た目黒区美術館の『色の博物誌』を思い出した。
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アイヌの蜂起/シャクシャインの戦い(平山裕人)

2017-01-06 23:10:29 | 読んだもの(書籍)
〇平山裕人『シャクシャインの戦い』 寿郎社 2016.12

 これも年末に東京の書店で購入したもの。「シャクシャインの戦いは、1669年6月にシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。日本の元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれる」というのは、今、調べてみたWikipediaの説明である。私は、もともと北海道に何の縁もなかったが、札幌に2年間暮らす機会があって、北海道の歴史に関心を持つようになった。「シャクシャインの戦い」という単語も、その当時、覚えたものだ。

 しかし、詳しいことは分かっていなかったので、本書のタイトルを見て、これはいいと思って購入した。すると、シャクシャインの戦いは17世紀であるはずなのに、なかなかそこに行き着かない。本書は、まず14世紀にさかのぼり、『諏訪大明神絵詞』という資料に拠って、渡島半島のアイヌと思われる「渡党(わたりとう)」と呼ばれる人々が、津軽地方に交易に来ていたことを示す。15世紀の渡党については『新羅之記録』(17世紀成立)に記録があり、ここでは、本州から渡った和人の子孫ということになっている。

 1456年、函館郊外のシノリでアイヌの少年が鍛冶屋に殺されたことをきっかけに、和人とアイヌの間に「コシャマインの戦い」が起きる。コシャマインはアイヌの首長、和人側の総大将は上之国の守護・武田信広(松前・蠣崎氏の祖)だった。戦いの後の100年間、渡島半島ではアイヌの勢力圏が拡大し、16世紀のアイヌは自由交易を謳歌していた。ところが、豊臣秀吉が天下を統一し、蠣崎氏が豊臣政権の一大名となることで、和人が北海道を往来するにも、アイヌに接するにも、蠣崎氏の許可が必要となった。この体制は徳川政権下にも引き継がれる。そこで、自由交易の回復を求めて、アイヌが蜂起したのがシャクシャインの戦いである。

 シャクシャインはシベチャリ(静内)にいたアイヌの首長で、60歳とも80歳とも言われている。そもそもアイヌの地域勢力どうしの争いを発端に、アイヌから松前藩に対する不信と不満が強まり、ついにシャクシャインの檄が「全道のアイヌの怒りに火をつけた」と著者は述べている。『津軽一統志』等の資料によれば、戦闘による和人の死者は350人余り、ただし多くは零細漁民と思われる。10月、シャクシャインは松前藩によって謀殺される。和睦の宴に呼び出されて、殺されたのである。

 あっけない…。実は本書の中で、シャクシャインについて記述している分量は、全体の三分の一程度に過ぎない。また、著者は、脚色の多い伝承を避け、信頼できる史料に基づいて記述するよう努めている。その結果、シャクシャインがどのような人物だったかは、ほぼ何も伝わっていない、ということだけがよく分かった。

 ただし、『蝦夷蜂起』等の記録に残るシャクシャインの檄は、よく道理をふまえていて、共感できる。この戦いが、やられたからやり返すというような単純なものでなかったことが分かる。だが、アイヌが戦った相手は、松前藩ではなく、徳川幕藩体制そのものであった。自由に交易する権利をわれらに、というアイヌの要求は正義だが、日本の隅々に及ぶ盤石の統治体制をつくった徳川には力がある。やっぱり、この時代は、正義は力に及ばないのだ(現代もそうであっていい、という意味ではない)。その後、アイヌの抵抗も次第に止んで、戦いは終結する。

 シャクシャインの戦いの間、日本海側のイシカリアイヌにはハウカセという首長がいた。松前藩の脅しに対して、ハウカセは使者を追い返し、「最大の啖呵」を切ったと著者は評価する。しかし、ハウカセはシャクシャインの戦いにも加わらず、中立を守ったらしい。だとすると、シャクシャインの檄が「全道のアイヌの怒りに火をつけた」という表現は、ちょっと言い過ぎじゃないかなあ、と私は思う。

 最後に「サンタン交易圏とラッコ交易圏」と題して、道北・道東の交易についての記述がある。サンタンすなわち「山丹」は沿海州を意味し、カラフト(サハリン)および道北との間で交易が行われた。ラッコ交易はラッコ皮の交易でもあり、千島列島にあるウルップ島はラッコ島と呼ばれた。このへんは、サハリンアイヌとかニブフとかオランカイとか、さまざまな北方民族の名前が交錯して、よく分からないけど、魅力的である。

 題名の「シャクシャインの戦い」を知るための本としては、物足りないところもあるが、アイヌと和人の歴史を知る最初の手がかりとしては、とにかく類書が少ない中で、役立つものだと思う。なお、本書に利用されている文献史料については、もう少し解説があると(成立年代、史料批判に耐えられるか)素人にはうれしいと思った。
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今年はトリ年/2017博物館に初もうで(東京国立博物館)+常設展

2017-01-04 21:01:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館の新年恒例企画。今年は1月2日にさっそく出かけた。

■本館14室 特集『掛袱紗-祝う心を模様にたくす』(2016年12月20日~2017年2月19日)

 祝い事で贈り物をする際に、お祝いの品の上に掛ける掛袱紗(かけふくさ)を特集。華やかでめでたい絵柄が多く、お正月にぴったりの企画である。日本民芸館などで、類似の品を見たことはあるが、東博には染織工芸の常設コーナーがないので、所蔵品をまとめて見るのは初めての機会である。二匹の鯛が向き合った図柄は、2014年の新春企画でも使われたもので、見覚えがあった。個人的には、三国志に由来するという騎馬人物図が気に入った。



■本館15室(歴史資料)特集『臨時全国宝物取調局の活動-明治中期の文化財調査-』(2016年12月20日~2017年2月19日)

 日本の文化財調査といえば、明治5年(1872)の壬申検査が有名だが、これは明治21年(1888)から10年間にわたって、臨時全国宝物取調局がおこなった調査を特集する。宮内省図書寮附属博物館と連携した事業であり、明治30年(1897)にその残務を帝国博物館(宮内省図書寮附属博物館の後身)が引き継いだことから、東博に関係資料が残されており、平成28年(2016)には重要文化財に指定された。展示室では、いきなり李迪の国宝『紅白芙蓉図』が出ていて、え?と混乱する。本物だった。別の展示ケースにこの『紅白芙蓉図』が、調査の結果、文化財として登録されたことを示す鑑査状が出ていた。福岡孝紹子爵の所蔵だったのか。

 明治32-33年(1899-1900)には「鑑査状交付済ノ宝物異動調」という事後調査が行われており、この帳簿の、たまたま開いていたページが大阪・孝恩寺のもので、好きなお寺なのでテンションが上がった。また、『監査状番号簿』は、教王護国寺(東寺)の箇所が開いていて「夜叉神」の文字を見つけた。しかし、これらの記録類は、どうして国立公文書館に入らなかったんだろう?

■特別1室・2室 特集『博物館に初もうで 新年を寿ぐ鳥たち』(2017年1月2日~1月29日)+常設展示

 2階に上がり、特別1室→常設展→特別2室の順序で参観。特別1室のテーマは「祝の鳥」で、酉(ニワトリ)に限らず、さまざまな吉祥の鳥を紹介する。鳥って、今よりずっと身近だったんだなあと感じる。京焼の孔雀香合とか仁阿弥道八作の楽雀香合とか、小物がかわいい。明代の絵画だという『蒼鷹搏雁図』は記憶にないものだった。統一新羅時代の迦陵頻伽像は、東博の膨大なコレクションからよく見つけてきたなあ。毎年、この企画にかかわる学芸員さんは楽しいだろうと思う。

 それから、常設展「日本美術の流れ」をひとまわり。国宝室は新春特別公開『松林図屏風』(2017年1月2日~1月15日)で、文字通り黒山の人だかりだった。もはや新春恒例だなと思ったが、今後のスケジュールを見たら、来年1月は『釈迦金棺出現図』になっていた。これは楽しみ!

 本館7室(屏風と襖絵)は、応挙の『雪景山水図』が楽しかった。写実的で雄大な雪山の峰の間に、雲に浮かんだ仙人たちが小さく描かれている。琴を背負った従者がいるのだが、細長い袋がスキー板に見えてしまう。池大雅の『西湖春景・銭塘観潮図屏風』は、よくこんなわけのわからない絵を描くなあ、と惚れ惚れ。本館8室(書画の展開-安土桃山~江戸)に入って、絶対、若冲のニワトリあるよね、と思っていたら、黒川亀玉筆『芭蕉孤鶴図』とか秦意冲筆『雪中棕櫚図』とか、ものすごく若冲ふうの絵画はあるのに、ついに若冲の作品はなし。ええ~そうきたか、と思いつつ、まだ特別2室を見ていなかったことを思い出す。

 特別2室は「暁の鳥」でニワトリ特集。若冲の『松梅群鶏図屏風』がありました。淡彩がきれいだけど、少し硬い感じがする。南宋絵画『竹鶏図』(怖いニワトリ)も出ていたが、斉白石の『雛鶏図』と『菊群鶏図』の愛らしさに悶絶する。初めて見ると思ったら、個人蔵だった。明治時代の『旧儀式図画帖「闘鶏御覧」』に関連して、唐の玄宗皇帝がトリ年で闘鶏を好んだことにちなみ、平安時代の頃から3月3日に宮中行事として行われるようになったという説明があった。桃の節句は闘鶏の節句だったのか。

■アジアギャラリー(東洋館)8室(中国の書画)特集『董其昌とその時代-明末清初の連綿趣味-』(2017年1月2日~2月26日)

 董其昌(とうきしょう、1555-1636)に関心はないのだが、まあ見て置くかと思って立ち寄った。絵画は、ざっと見たところ、山水画が多い。董其昌の作品は『渓山仙館図』1点のみ。ゆるゆる、ふわふわした木炭スケッチのような薄墨の山水図。あとは董其昌の「創造」を受け継いだ明末清初の「奇想派」の作品が展示されている。呉彬とか龔賢とか米万鍾とか、不穏な雰囲気の山水図がたくさんあって、私好みで嬉しい。藍瑛の『天目喬松図』もよかった。東博コレクションではなく、個人蔵の絵画がけっこう出ている。

 ふと目の前に、見覚えのある淡彩の山水図が。これは!京都・泉屋博古館の石涛筆『廬山観瀑図』ではないか。ええ~京都を離れることがあるんだあ、と驚く。次に平台の展示ケースを覗き込むと、なんとなく惹きつけられる山水図の画帖。キャプションを見たら『安晩帖』とあって、思わずヘンな声が出てしまった。これは…これは…大事件である(~1/29展示)。

 あらためて『董其昌とその時代のチラシ』を確認すると、八大山人こと朱耷(しゅとう)筆『安晩帖』の写真は、小さな魚の図と片足で立つ鳥の図が使われている。果たして、場面替えはあるのか? インフォメーションのお姉さんに聞いてみたが分からなかった。まだ学芸員は出勤していないので、5日過ぎくらいにお電話くださいとのこと。そりゃあそうだよね。『安晩帖』は22面から成るが、私はこれで5面を見たことになる(※過去の記録はこちら)。もちろん図録でも複製でも魅力は伝わるだが、せっかく日本にあるのだし、いつか全面を見たいのだ。

 なお、この展覧会は台東区立書道博物館との連携展示。董其昌の画は、書道博物館のほうが点数が多いようだ。董其昌の書は東博にも複数あり。書風は変幻自在だが、狂草風の『行草書羅漢賛等書巻』が好きだ。
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青と白の意外な使われ方/染付古便器の粋(Bunkamuraギャラリー)

2017-01-03 21:00:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
Bunkamuraギャラリー 『染付古便器の粋-青と白、もてなしの装い』(2016年12月28日~2017年1月9日)

 常滑にあるINAXライブミュージアム収蔵の古便器の中から、美術品のように美しく華やかな染付古便器の逸品を展示するもの。年末、SNSに写真や感想が流れてきて気になっていたので、1月2日の朝にさっそく行ってみた。ほかにお客さんの姿がなかったので、会場内に座っていたおじさんが解説をしてくれた。



 「青と白」の色合いは江戸時代から非常に好まれ、浴衣、食器、花器など、生活のさまざまな場面で使われた。殿様のお屋敷や高級料亭では、この頃から陶器の便器が使われたかもしれないが、実物は残っていない。ここにあるような染付便器が広まったのは、明治24年(1891)の濃尾地震の後で、大打撃を受けた瀬戸村(現・愛知県瀬戸市)が、地場産業の瀬戸焼(窯業)復興のために生産を始め、次第に全国各地で作られるようになった。え、そうなのか、と思って、展示品のキャプションを見直すと、ほぼ全て「明治時代後期」とある。さっきまで江戸の伝統だと思って見ていたので、慌てる。



 江戸時代の便器は主に木製だった。初期の大便器の金隠しにあたる部分が板状なのは、木製便器の名残りである。焼きものでは、平たい板型を整形するのが難しかったため、現在のように丸みを帯びたかたちになった(へえ!)。はじめは陶器製だったが、陶器は水を吸うため、耐久性や衛生面に優れた磁器の便器が好まれるようになる。関東大震災以降は、白無地の便器が普及し、染付便器の流行は終焉した。

 絵柄は植物が多く、たまに鳥や動物が添えられている。野外で用を足す爽快感を演出してるのかしら。さすがに山水とか人物はないのだな。大便器の金隠しの外側に絵があっても、用を足す当人には見えないだろうと思ったら、お客様用の便所では、入口に対して横向きに大便器を据え付けるが作法なのだそうだ。万国博覧会で注目されたというので、輸出されたんだですか?と聞いてみたら、ヨーロッパは水洗トイレの時代だったので、トイレではなく美術品として、花瓶などに使われたらしいとのこと。笑った。さらに、この展覧会の核となっている染付古便器の収集家・千羽他何之(せんばたかし)氏も、いけばなの家元であることを教えてくれた。

 どうやって集めるんですか?古いお屋敷が壊されるときに貰いにいく?と聞いたら、骨董市に出るのだという。なお、染付便器が設置された状態で残っているお屋敷として、福岡の旧伊藤伝衛門邸や佐賀・唐津の旧高取邸の写真があった。高取邸は行ったんだけど、便器までは覚えていないなあ。ギャラリー内にも、設置状況を模した展示があったが、床板や壁まわりにも染付タイルを嵌めて統一感を出すんだなあ。あと、小便器に付随する陶器製の厠下駄というのは初めて見た。

 これらの古便器コレクションは、ふだんINAXライブミュージアムの一角にある資料館に展示されているのだが、資料館が耐震工事に入るため、Bunkamuraギャラリーで展示会をすることになったそうだ。しかし、ギャラリーの向かいがカフェなので、あまりいい顔はされなかったらしい。確かに外から見ると、何をやっているのか全く分からない飾りつけになっていた(笑)。いろいろ楽しいお話を聞かせてくれたおじさんは、学芸員の方だとのこと。ありがとうございました。
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2016初詣は秦野大日堂

2017-01-02 23:55:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
大日堂(神奈川県秦野市)

 「県指定重要文化財の木造大日如来坐像など、2017年元旦に特別公開」というニュースを年末に見て、ちょうど東京に帰省しているので、行ってみることにした。小田急線の秦野駅から蓑毛行きのバス(1時間に2本程度)に乗り、終点で下りると、すぐ目の前に小さな山門(仁王門)がある。これをくぐったところに、だいぶ朱塗りの剥げたお堂があり、手前に仮設のテントがあって、待っていたおじさんから「どうぞ、中に入って拝観できますよ」と案内をいただいた。



 お堂の中は集会所のようで、背もたれのない長椅子が並んでいた。正面に坐像の仏像が並んでいるのはすぐ分かったが、ふと右手を見ると、ものかげに大きな立像がおいでになって、びっくりした。平安時代の作と推定されている木造聖観音菩薩立像である。少し寸づまりな感じがする。顔も体もかなり傷みが激しい。

 あらためて正面に向き直ると、中央には、やや面長で堂々とした体躯の、たぶん智拳印を結んだ大日如来坐像。孔雀の羽根を思わせる、ハート形の穴の開いた光背が珍しかった。「当山開基 行基菩薩」という札が下がっていたのは「伝・行基作」の意味だろうか? 左右に二体ずつの如来坐像は、中尊よりひとまわり小さい。左に釈迦と阿弥陀、右に宝生と阿閦という構成で、五智如来と言われる。

 お堂の裏手の階段を上がると不動堂や御岳神社があった。バス通りを挟んで反対側には、大日堂の管理をしている宝蓮寺がある。禅寺らしく気持ちのよい境内は散策自由だが、観光寺院ではない。御朱印は遠慮して帰った。
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