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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

食卓の光景/普通の家族がいちばん怖い(岩村暢子)

2008-02-17 01:54:02 | 読んだもの(書籍)
○岩村暢子『普通の家族がいちばん怖い:徹底調査!破滅する日本の食卓』 新潮社 2007.10

 刊行まもなく、何かの書評で本書の内容を知って、うわあ、これは大変なことだ、と驚愕した。本書は、1999~2000年と2004~2005年の2回にわたり、総計223世帯を対象に実施された「フツウの家族の実態調査(クリスマス・お正月編)」をもとにしている。首都圏在住の子どもを持つ主婦たち(20~50代)に、各家庭のクリスマス・お正月の過ごし方(飾りつけ、食卓など)を写真と日記で提出してもらい、さらにグループインタビューを行ったものである。

 提出された写真を見ると、「(菓子パンやシリアルを)テーブルに出しておいて、『各自勝手に起きてバラバラに食べた』四人家族の朝食」とか「元旦の食卓には残りご飯とハムエッグのみ」とか、私の想像の許容範囲を超える光景が次々に登場する。なるほど恐ろしい。これは話題沸騰のベストセラーになるにちがいない、と思っていた。

 ところが予想は外れて、刊行から3ヶ月以上経っても、あまり話題になっていない。私は拍子抜けするとともに、少し冷静になって、ほんとにこれが普通の家族の実態なのか?伝統家族擁護の立場から針小棒大に書かれた煽り本じゃないのか?と、疑いながら読んでみた。その結果、タイトルや帯など、宣伝にかかわる部分には”煽り”が感じられるが、本文の記述は、事実に依拠しており、おおむね中立的に思えた。

 では、なぜ、この驚愕の事実が騒がれないのか。よく考えてみると、いまの普通の家族には、これが”普通の風景”だから、誰も騒がないのではないか、と思い当たった。家族を形成していない私は、70代の母親に作ってもらう御節とお雑煮の正月を相変わらず続けている。もしも自分が主婦だったら?と胸に手をおいて考えてみると、やっぱり御節は作らなかっただろう。好きじゃないし。それに、「家族がいちばん」「食を大事に」なんていう、精力的な啓蒙活動をしているライターや評論家の方々も、売れっ子であればあるほど、実態は似たような食卓なんじゃなかろうか。

 まあ食文化というのは、意外と短いサイクルで変わっていくものだし、人生これほどの楽しみはない(?)のだから、食べたいものを食べればよいと思う。世田谷文学館によれば、永井荷風先生だって、大正8年の元旦をショコラとクロワッサンで過ごしているのだし。

 それよりも、私がうすら寒く感じるのは、中高生になる子供たちにサンタクロースの実在を信じさせておこうとする親たちである。それは、クリスマスを楽しく過ごすために必要な条件だからだ。クリスマスやお正月は「みんなで楽しく盛り上がる」ためにあり、そのことによって、ふだんバラバラな家族の一体感を(嘘でも)確認するのである。また、他の家がやってることは、つねに自分の家でもやっておきたい。「周りのみんな」に合わせるのは、とても大事なことなのだ。

 こういう家庭と社会では、本当に自己決定できる人間は育たないだろうなあ。これって、内田樹さんのいう「みんなにちょっとずつ愛されたい」共生戦略の、負の側面が拡大された状態なのではないかと思った。どうだろうか。

 追記。この調査を行ったのは、アサツー・ディ・ケーという広告会社である。こんな仕事が会社のためになるのだろうかと悩む著者に対して、同社の社長は、生活者の実態を探ることは重要なマーケティングの仕事であると言い、会長は「会社の仕事を利用して自己実現し、成長するくらいの気持ちでいてもらいたい」と諭したという。大学とか、本来の学術機関から、基礎研究の場がどんどん奪われている一方で、一私企業が、営利性のない調査研究を担保しているのは、少し皮肉な感じがする。
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横浜散歩・春節娯楽表演

2008-02-16 22:50:30 | なごみ写真帖
横浜に行った。県立歴史博物館の『瓦が語る-かながわの古代寺院-』と、大佛次郎記念館の特別展『21世紀の鞍馬天狗』(w)を見て、中華街へ。山下町公園特設ステージで中国伝統芸能の表演あり、という情報を得ていたので。どこ?と思ったら、関帝廟の隣りの小さな公園だった。

神戸市立兵庫商業高校の生徒による龍舞。動きが速くてカッコイイ!



横浜中華学校校友会による獅子舞。目をパチパチするのがかわいい。



手前の獅子が掲げるのは「紫気東来」。対聯の「祥雲○○」には様々なバリエーションがあるみたい。チラリ見えているのは「祥雲北聚」かな?



最後はものすごい爆竹。新年好~!!
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雪の近畿周遊(4):京都国立博物館

2008-02-15 23:56:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 特別展覧会 修好通商条約締結150周年『憧れのヨーロッパ陶磁-マイセン・セブール・ミントンとの出会い-』

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 関西に行くときは、京博の催しものは必ずチェックを入れるのだが、今回は「なんだ、ヨーロッパ陶磁か」と思って、全く相手にしていなかった。常設展だけ覗いたら帰るつもりでいた。ところが、博物館の前まで行ったら、大きな看板に「Japan's Encounter with European Ceramics」と、英文が併記されているのが目に入った。直訳すれば「日本の(ヨーロッパ陶磁との)遭遇」である。単にヨーロッパ陶磁の美を愛でる展覧会ではなくて、日本文化との歴史的なかかわりに焦点を当てた企画らしい、と初めて気づいた。俄然、興味が湧いたので、常設展を早めに切り上げて、特別展に入ることにした。

 「ヨーロッパ陶磁との出会い」と題された最初の部屋で待っていたのは、17世紀前半、ドイツ製の奇妙な人面髭徳利。19世紀中頃の陶磁器と一緒に、高野山の塔頭跡から出土したものだという。また、17世紀、オランダかイギリスで焼かれた薬壺(アルバレロ)の陶磁片は大阪城から出土した。そのおおらかで鮮やかな色づかいは、乾山や仁阿弥に影響を与えているという。そうそう、先日、出光美術館の『乾山の芸術と光琳』でも同じような影響例を見たばかりだ。

 年紀の分かるものでは、寛政5年(1793)の箱書を持つ銅版転写のヨーロッパ陶磁(藍絵西洋風景図蓋物・杓子)が伝わっており、文化13年(1816)刊本『陶器指南』には、阿蘭陀写のつくり方が懇切に説明されている。逆にオランダでは、伊万里写や景徳鎮写(?)が作られた。巧妙に似せようと努力したものもあるし、図様の一部を換骨奪胎した作品もある。文化や芸術の世界で、ゆっくりとグローバリゼーションの時代が始まったことを感じさせる。

 さすが京都!と思ったのは「京都伝来の阿蘭陀焼」のセクション。八坂神社鳥居下の二軒茶屋(中村楼として現存)は、オランダ商館長(カピタン)が長崎から江戸参府の折、必ず立ち寄ったそうだ。それゆえ、数々のヨーロッパ陶磁が今に伝わっている。白磁金彩のソース容れ(カレーポット)まであるのにびっくり! ちなみに二軒茶屋に現れるカピタンは、天明7年(1787)刊『拾遺都名所図会』にも描かれる”名物”だったようだ。日文研の『平安京都名所図会データベース』の画像にリンクしておこう。

 建仁寺もまた、禅宗ネットワークを介して、海の外に通じていたようだ。われわれは、幕末明治の認識にとらわれて、中国(おくれた東洋)とオランダ(進んだ西洋)を真逆の方向に考えてしまうが、江戸中期までは、どちらも等しく”エキゾチシズム”と”先進文化”の地だったように思う。確か、羽田正『東インド会社とアジアの海』にも、南蛮船が長崎に運んできたものは、中国産品がほとんどだったという記述があった。

 後半では、生産地ごとにヨーロッパの名陶を紹介。明治初期の日本は、フランスのセブール陶磁(1対の壺)を入手するため、69点の日本古陶を交換に差し出したそうだ。う~ん、輸出産業としては、マーケティングリサーチと技術移植のため、必要な初期投資だったんだろうけど、高い買い物だなあ。今となっては流出した日本古陶のほうが気になる。

 また、ドイツ人フリッツ・ホッホベルク伯爵は、20世紀初頭にアジア・オセアニア地域を旅行し、すっかり日本びいきになってしまった。特に京都の陶磁産業に関心を抱いた彼は、帰国後、母国ドイツの陶磁器40点余りを京都帝室博物館に寄贈した。東京帝室博物館ではなく京都に、と指定したところがミソ。京都人、嬉しかっただろうなあ。私としては、豪華絢爛のセブール陶器より、京菓子のように繊細で愛らしいマイセンのほうがずっと好みだ。趣味のいい伯爵様である。第1回の輸送で破損した分を追加で送ってくれたり、何かと気のまわる伯爵だったらしい。会場の解説板に「実に親切な人である」と、担当者の感嘆が漏れていたのに笑った。

 常設展では、江戸時代の仏師・清水隆慶(初代、二代)の”余技”の数々を紹介。絵画では、涅槃図の小特集が面白かった。全て14世紀作品だが、雲に乗って来迎する摩耶夫人のスピード感とか、横臥する釈迦の姿勢に微妙な差異がある。玉台(寝台)の前には、舞踊する胡人のペアがいたり、黒い手長ザル(水墨画ふうの)が交じっているものもある。
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京都のお楽しみ・カフェキューブ

2008-02-14 23:24:30 | 食べたもの(銘菓・名産)
細見美術館の一角、吹き抜けの地下庭園に面したレストラン「カフェ・キューブ」。
美術館がオープンした当初から、一度入ってみたいと思いながら、満席だったり、時間がなかったりで、まだ機会がなかった。今回、初入店。

写真はパスタセットの前菜。丁寧に手をかけた3品で、贅沢な気分が味わえる。
パンも美味。選んだパスタ(ボロネーゼ)にも満足でした。

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雪の近畿周遊(3):琵琶湖文化館~細見美術館

2008-02-13 23:14:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
■琵琶湖文化館 収蔵品特別公開:近江の美術 第2期『かざり kazari』

http://www2.ocn.ne.jp/~biwa-bun/

 琵琶湖文化館に行ってきた。同館が直面している「存続の危機」については、以前、書いたとおりである。休日の朝の館内には、数人の先客があった。お互いに声はかけなかったけれど、私同様、同館の公開中止(休館)問題を案じている人々ではないかと思った。それにしても、館内が寒い。2階の常設展示場は小さなヒーターが入っているだけ。3階の絵画ギャラリーはそれもなかったように思う。これも経営努力なのかと涙ぐましい。

 さて、この展示会は、近江の風土に根づいた、さまざまな装飾美術品を紹介するもの。近江の美術には、京(みやこ)の飾りと異なる味わいがある。たとえば、国宝『金銀鍍透彫華籠』など、精緻を極めた手仕事には、深い祈りが宿っているように感じる。それから、直感的に感じるのは、朝鮮文化との親近性である。園城寺に伝わる高麗時代(918~1392)の銅鐘には「太平十二年」という銘が入っているが、Wikipediaで調べると、ぴたり該当する年号がないのが、かえって興味深い。「太平(遼)」は10年までしかないのである。

 最大の見ものは、文句なしに『紙本墨画淡彩楼閣山水図屏風』(近江神宮蔵)だろう。別名を『月夜山水図屏風』ともいう。曽我蕭白の傑作中の傑作である。参考までに、画像はこちら(個人サイト)。私は、この作品を題材に(狂気を装う蕭白でなく)「醒めた蕭白の恐ろしさ」を語った文章を読んだ記憶があるのだが、いま、筆者を思い出せない。特に左隻がすごいと思う。霞んだ遠山は亡霊のようだし、黒ベタと白で極端なツートンカラーに塗り分けた岩の表現もすごい。引っかいた平行線のような霞の表現は、2005年、京博の曽我蕭白展の図録を引っ張り出してみたら「この霞の表現のみなもとにあるのは、断言してもいい、岩佐又兵衛である」という。とろりとして、美しい山水図なのだが、どこか鬼気が染み出るようで怖い。蕭白の描く美人画に通ずるかもしれない。

 しかし、琵琶湖文化館、上記サイトにせっかく載せた展示品リストから、どうして蕭白の名前を落とすかな~。東博が長谷川等伯の『松林図屏風』だけで常設展に客を呼んでいることを思えば、この一作品だけで、吸い寄せられる美術ファンは絶対いると思うのに、もったいない!

 このほかでは、尾形乾山のハマグリ形菓子鉢が、あまりにもそのままで笑った。また、揉み紙の第一人者だった松田喜代次という名前を覚えた。3階の絵画ギャラリーは「瑞祥の造形」を特集。蘆雪の『鶴上寿老人』は飄然として可愛い。狩野常信『南山寿星図』は、梅林に囲まれ、鹿を連れた老翁を描く。構図はコテコテだが、淡彩で嫌味のないところが、日本の中華料理みたいだと思った。


■細見美術館 特別展『芦屋釜の名品:筑前、釜の里が生んだ鉄の芸術』

http://www.emuseum.or.jp/

 京阪大津線で京都に戻る途中、思いつきで、細見美術館に寄る。全く期待していない展覧会だった。私は、茶道でいう「芦屋釜」の芦屋が福岡県遠賀郡芦屋町を指すということさえ知らなかったのである。

 これが意外と面白かった。3合炊きの炊飯釜くらいの大きさ(1人暮らしサイズ)の鉄釜がずらりと並んでいて、観客はこれを神妙な顔つきで見ている。その状態が、まず可笑しい。芦屋釜の特徴のひとつは「真成(しんなり)」と呼ばれる自然な丸みである。まれに甘栗みたいな下膨れの釜があると思ったら、香炉を転用したものだった。

 釜というのは、底部が壊れやすい。壊れても使い続けるには、別の底を付けて鋳なおすのだそうだ。このとき、小さめの底を当てると「尾垂(おだれ)」と呼ばれる形態になる。もちろん、リサイクル品であることが目立たないように、同型の底を当ててもいいのだが、生活の必要が生んだかたちに、敢えて興趣を見出しているわけで、その姿勢が面白いと思う。

 表面の装飾には、植物・動物・幾何学文などが用いられる。あまり繊細な文様は表現できないので、素朴で大胆なものが似合う。上記サイト(過去の展覧会)にも図像のある『芦屋霰地楓鹿図真形釜』は、細見古香庵が、芦屋釜の蒐集に没頭するきっかけとなったものだそうだ。紅葉の下で群れ遊ぶ鹿の姿が愛らしい。蓋には若草山をあらわす稜線が描かれ、鳥居形のつまみに作り手の遊び心が集約されている。
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雪の近畿周遊(2):大和文華館~伊丹市立美術館

2008-02-12 23:12:04 | 行ったもの(美術館・見仏)
 収穫の多い関西遊だったので、取り急ぎ。

■大和文華館 『宋元と高麗-東洋古典美の誕生-』

http://www.kintetsu.jp/kouhou/yamato/index.html

 今回の目的はこれだった。李迪筆『雪中帰牧図』が出るのね!と思ったら、どうしても行きたくなってしまったのだ。しかし(ちゃんと出陳目録を見ておけばよかったのだが)思ったより絵画は少なくて、ちょっと落胆。

 その代わり、陶磁器は堪能した。入ってすぐの『青磁雕花蓮華文瓶』は、私の好きな耀州窯である。北方の青磁は皿・鉢が多く、瓶・壺・水注などの袋物(この用語、初めて覚えた!)はなぜか遺例が少ないのだそうだ。なるほど、言われてみればそうかもしれない。耀州窯の袋物といえば、安宅コレクションの吐魯瓶が思い浮かぶが、あれとはまた違って、色も描線も軽やかで、程よい”いい加減さ”が感じられた。「心にしみ入るような美しい釉色」のうつわの列は、インスタレーションのような愛らしさ。並べていて、楽しかっただろうなあと想像する。

 『文姫帰漢画巻』は明代の作だが、宋代の原本の雰囲気をよく伝えているということで、出陳されていた。匈奴の王族に嫁した蔡文姫の物語を詠った『胡笳十八拍』に絵を付けたもの。右端から、絵→文→絵→文の順で展開する。つねに挿絵が先で文(七言律詩)が後。中国にも、ストーリー展開を持つ絵巻物ってあるんだなあ。初めて見た。元代の絹本着色『六道図』は、生前の罪を裁かれる亡者と地獄・極楽の見慣れた図様だが、景教(ネストリウス派)の聖像の可能性がある山梨県・栖雲寺蔵『虚空蔵菩薩』に酷似するとも、マニ教の図ではないかともいう。どこで分かるんだろう。気になる。

 変な褒め方になるが、この展覧会、会場に配された解説の文章がものすごく良かった。平明で無駄がなく、限られた字数で、私の知りたいこと(伝来など)が全て書かれていた。特に、宋代の芸術は「東アジアにとっての古典主義」であり、元代、高麗、そして日本に伝えられて「ダイナミックな美の変容」を生み出したという歴史の見取り図は、とても分かり易かった。

↓誰がこしらえたのか、玄関で出迎えてくれた小さな雪だるま。




■伊丹市立美術館 開館20周年記念事業『外骨-稀代のジャーナリスト』

http://www.artmuseum-itami.jp/

 午後は大阪に足を伸ばした。伊丹市立美術館は2005年の『笑いの奇才・耳鳥斎』以来である。会場には、外骨が刊行した数々の雑誌が、おもちゃ箱をひっくり返したように並べられていて(というより、散らかされていて)実に楽しかった。とりわけ、1部屋まるまる使った『滑稽新聞』の展示は、思わずニヤニヤしてしまうアイディアばかりで見飽きなかった。Wikipediaに「各種ウェブサイトで一般化した技法(アスキーアートや縦読みなど)の原形も見られる」とあるのは、言われてみれば、本当にそのとおりだ。

 『滑稽新聞』の挿絵は、実力派の絵師(山本永暉、前野春亭)が変名で描いていたらしいが、不明なものも多いそうだ。同紙が大阪で創刊されたものであることや、梅田駅の達磨屋を取り次ぎとして、弁当や牛乳と一緒に駅売りされていたというのは初めて知った。

 会場には、着物と羽織(葡萄色=えびいろというのかなあ)をはじめ、外骨の遺品や関係資料も展示されていた。思わず見入ってしまったのは、昭和3年12月、東京大学明治新聞雑誌文庫の主任だった外骨が「後継者を求む」と題した求人広告。自分はもう老齢なので後継者がほしいのです、という前書きに始まる。9時から4時の勤務で日曜休、土曜半休。初任給50円に相当の手当あり。大卒30歳以下で「終身勤務の決意ある方に限ります」という。「双方ともいそがないでユックリ精査考慮の上決定したい」というのが、のんびりした時代を思わせて、微笑を誘われる。名刺大の、東京帝国大学附属図書館證票(利用者カード)には「B423 法学部嘱託 宮武外骨」とあり(名前は自著)。

 明治新聞雑誌文庫は、何度か前を通ったことがあるのだが、不幸にして、一度も中に入ったことがない。今後、一度くらい入れる機会はあるかしら。

 会場は、意外なほど熱心な観客が多かった。東京から来ておいてナンだが、外骨ってファン多いんだなあ。併設の所蔵品展『花開く風刺画-フランス』『風刺雑誌の誕生-日本』も面白くて、特に大阪の錦絵新聞を多数見られたのはよかった。大阪の錦絵新聞は、東京ものの半分ほどの小型版で、価格も半分、地元発行の新聞が少なかったため、独自取材ネタが多いそうである。明治の初めは、まだ東京文化と大阪文化に差異があったことをあらためて発見。
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奈良のお楽しみ・酒肆春鹿

2008-02-11 22:40:13 | 食べたもの(銘菓・名産)
旅はひとりが気楽だけど、美味しいものを食べるには連れがいたほうがいい。
ということで、今回は、同じく東京から来ていた友人に、初日(土曜日)の夕食だけ付き合ってもらった。

雪で新幹線が遅れたため、30分待たせて、合流。(いまどき携帯を持たない相手なので気を揉んだ)
一日踏み荒らされた雪道に気をつけながら、暗い路地の奥にある「酒肆春鹿」へ。

遅い到着になってしまったが、お馴染みらしいおじさんがいたおかげで、なかなか看板にならず、ゆっくり出来た。
料理はおまかせコース。お酒は「新ばしり」「而妙酒白滴(じみょうしゅはくてき)」「超辛口」の3種を空けた。2番目がいちばん日本酒らしくて美味しかった。

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雪の近畿周遊(1):唐招提寺

2008-02-10 20:58:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○唐招提寺(奈良県奈良市)

 いま、京都駅前のネットカフェ。三連休のところ、昨日の午後は仕事が入ってしまったので、夕方、東京を発った。雪の影響で新幹線が止まるんじゃないかと危ぶまれたが、予定より30分ほどの遅れで奈良着。尼ヶ辻のビジネスホテルに泊まった。

 せっかく西の京に泊まったので、朝は雪道を歩いて唐招提寺へ。右手には、広いお濠に囲まれた垂仁天皇陵。鬱蒼とした木立に降った雪は、あらかた落ちてしまったようだが、田道間守の墓とされる小島は、すっぽり雪に埋もれていた。

 やがて見えてきたのは、大きなプレハブ(?)舎。唐招提寺に来るのは久しぶりである。前回は「金堂平成大修理事業」が始まる直前のはずだから、たぶん平成12年(2000)のことだ。正面の門を入ると、金堂があった(ある)はずの場所には、大きな覆い屋が建っている。殺風景な覆い屋の中に入ると、金網と足場の鉄骨越しに、金堂の建物が覗ける。雪のせいか、休日のためか、作業員の姿はなかった。

 覆い屋の裏にまわると講堂。細長い堂内には、多くの寺宝・仏像が並んでいた(東寺の講堂=立体曼荼羅の雰囲気)。「唐招提寺」の勅額(孝謙天皇筆。無駄を削ぎ落とした細身の行書)や諸仏の顔とお姿を見て、たちまち東博の『唐招提寺展』の記憶がよみがえってきた(だが、不思議と、この講堂で拝観した記憶が戻ってこない)。本尊の弥勒菩薩は、周囲を圧する堂々たる巨像。ただし本尊だけが鎌倉時代で、他は全て奈良時代の作である(400年以上も先輩の諸像に囲まれているんじゃ、本尊もやりにくいだろうな、と思う)。

 本尊の左右には、子供がやっと隠れられるくらいの厨子が置かれていて、それぞれ、秘仏の千手観音と薬師如来が収められているという。2つの厨子の四方は、四天王と帝釈天、梵天らが厳粛に固めている。この講堂、一見した場合の本尊は弥勒仏だが、実は2つの厨子のほうが重きを成しているように思った。私は、素朴な初々しさを感じる吉祥天像が好きだ。

 新宝蔵に久しぶりに寄る。まず仏頭、首のない如来形立像(唐招提寺のトルソー)、唐風の濃厚な木彫立像群、という構成は変わっていない。しかし、このところ近代的な博物館の”演出”のもとで仏像を見ることに慣れてしまった目には、あれっと思うような記憶との齟齬があった。この新宝蔵は、今日ふうのスポットライト(タングステン照明)を使っていないので、印象が平板なのである。でも、以前は”平板”と感じなかったはずなのに。濃い味付けに馴らされて、味覚の鋭敏さを失っていくみたいで、ちょっと不安である。

 それにしても、表面の乾漆が剥がれ落ちた仏頭は、人間なら、皮膚や肉を削がれて骨がのぞいているような無残な姿である。にもかかわらず、相貌の高貴さは失われていない。別の菩薩形立像は、顔から胸部の半分以上を破壊されて、それでも立っている姿は、さながらターミネーターのようだ。全身が赤錆色に劣化(?)し、焼死体を思わせる菩薩形立像もある。かなり怖い。全てのものは朽ちゆく、と静かに脅されているようで、「九相図」みたいだ。

 気分を変えて、受付のおばさんに「いま、金堂の仏様はどちらにいらっしゃるんですか」と聞いてみたところ、金堂の左(東)の仮設修理所に収容されているそうだ。解体された千手観音の腕3本が新宝蔵内に展示されている。「今しか見られないから、よく見ておきなさい」と促された。また、金堂修復中のため、代わりに、これまで入れなかった講堂内部を公開しているのだという。道理で、講堂内部の記憶がなかったわけだ、と納得した。

2008/02/11追加更新:講堂の瓦に積もる雪





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祝福のキャッチボール/ひとりでは生きられないのも芸のうち(内田樹)

2008-02-07 23:46:43 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』 文藝春秋 2008.1

 内田樹(うちだ・たつる)さんの名前を初めて知ったのは、武道的身体論の本だったと思う。実はフランス現代思想の先生だと知ったのは最近のことだ。これまで私が読んだのは『街場の中国論』と『下流志向』。こうして並べると、世間の関心に媚びているだけの、節操のない自称評論家みたいだが、どれも嫌味がなくて面白かった。近頃、私のおすすめの書き手である。

 著者自ら、「たぶん私は一部メディアからはどんな質問でも『それはね……』と即答する『占い師』のようなものだと思われているのであろう」と書いている。いや、哲学者の本分というのは、元来、そういうものなのかもしれない。本書もまた、非婚・少子化、階層社会、メディア、教育、ナショナリズムなど、幅広い題材を自由に論じたものだ。共通するコンセプトは、書名のとおり、「ひとりでは生きられないのも芸のうち」である。巧いなあ~このタイトル。私は、たまたまネットのベストセラーランキングで本書のタイトルを見てハッとして、著者は誰だろう?とクリックしてしまった。

 自己責任・自己決定・自己利益の追求という生活規範は、特定の条件下でのみ有効性を持つのであって、オールマイティなものではない。むしろ、人間という生物は、自己利益よりも共同体全体のパフォーマンスを優先すること(及び、そのことに「快楽を感じる」能力)によって、長い過酷な歴史を生き延びてきたのである。だから、ひとりひとりおのれの得手なことは他人の分までやってあげて、不得手なことは他人に任せようではないか。5人に1人がオーバーアチーブを引き受けることができれば、それで社会はまわるのである。

 ええ~そんな不公平、と思いながら丸め込まれてしまうような、この、香具師の口上まがいのぐだぐだ感がいいのである(失礼)。同じように「共生」を語る論者は多いが、ひとりでも生きていける強者であることを前提に、上から目線で他者との共生を図ろうとするか、弱者であることに居直って、割り前を受け取る権利だけを主張するか、どちらかであるように思う。こういう共生論は、押し付けがましいし、うさんくさい。

 著者の示す「共生」の奥義は、自立主義から遠く離れた「あなたなしでは生きていけない」というメッセージの交換である。それは、私の無能や欠乏の表明ではなくて、「だからこそ、あなたに元気で幸福でいてほしい」という祝福と祈りを相手に捧げることである。だから「誰にも頼らず、ひとりで生きていける」人よりも、「あなたなしでは生きていけない」というメッセージを発することのできる人のほうが(相互的に同じ祝福を受け取ることによって)健康と幸福にめぐまれる確率が高い。逆説的であるけれど、「その人なしでは生きていけない人間」の数を増やしていくことが「成熟」の指標である、と著者はいう。

 下手な要約をしてしまったけれど、この最終章は、かなり感動的である。キャッチボールの快感に托した比喩も巧みだと思う。哲学者たるもの、やっぱり、これくらいの文章の達人であってほしい。自己責任・自己決定の呪縛にへとへとになって、絶望している若者に読んでほしいし、こういうの、国語の教科書に採ってほしいな、と思った。

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働くことの復権/仕事と日本人(武田晴人)

2008-02-06 23:58:11 | 読んだもの(書籍)
○武田晴人『仕事と日本人』(ちくま新書) 筑摩書房 2008.1

 われわれは「労働」の第一義を「収入を得るための手段」と考えている。少ない労働で、多くの収入を得、余暇を楽しむことが「望ましい生活」であるのに対して、「労働」には、できれば回避したいが、やらなければならないこと、という負のイメージがつきまとう。しかし、この受け止め方は歴史的に普遍的なものではない。「労働」という日本語は、明治初期「labour」の訳語として作られた(働は国字)。同時に、われわれの「労働」に関する概念も作られたのである。 

 「労働」を忌避すべきものと考える思想は、淵源をたどれば、生産にかかわる活動は奴隷に任せ、市民は精神的自由を楽しむものと考えた古代ギリシャ人に行き着くかもしれない。もう少し近い要因としては、近代化・工業化による、働きかたの変化が挙げられる。工場労働は、作業時間が定められ、効率が求められ、明確な指揮系統が設けられる。労働者自身が主体的に裁量できる範囲は少なく、労働は「拘束」であり「骨折り」であるという意識が強くなる。

 さらに社会が高度化し、分業と協業体制が進むと、全ての仕事は、絶えず組織の全体を参照し、相互の作業を微調整しながら行うことが必要になる。こうした働きかたは「個々の能力による差が明確には意識されにくい」のである。その結果、労働者は、賃金の支給額がすなわち能力の評価であると考えるようになり、どれだけ稼いだかで人の価値を計ることに、何の疑問も持たなくなる。

 日本では、労働組合さえも「労働者は『銭金』で動くものだという感覚」に強く支配されており、組合の要求は、経済的利益(賃上げ)の確保に偏り過ぎてきた。長時間の残業が、暗黙の賃金補填策として容認されてきたことも一例である。一面では、これは「経済学が持っている認識上の限界」とも言える。労働の供給は、労働者にとって「マイナスの効用」であり、賃金という代償を得ることで、取引が成立するというのが、経済学の基本的前提だからである。

 このように「労働の価値=収入の多寡」という等式の根拠を、著者は執拗に洗い出し、見直しを図ろうとする。もちろん、サービス残業やパート・派遣労働者の搾取は大きな問題である。労働には、正当な対価が支払われなければならない。「お金を目的に働く人を排除する必要はないのですが、そうしない人を排除し、尊重しないことが当たり前という現代社会のあり方には疑問がある」。この、しごく穏当で常識的な結論さえ、長い論証と検証を経なければ、人々の胸に届かないところが、現代日本の不幸を示していると思う。

 「あとがき」にいう。競争という手段、営利性の追求による企業の社会的機能の歪み、この病根は「大学という学問の府をも侵しつつある」。著者は、このことを、若い研究者の苦悩のうちに実感している。前近代の社会では、職人となる男子は、10歳で親方に弟子入りし、10年間の徒弟生活→お礼奉公を経て、ようやく自分で稼ぎ始める。しかし、徒弟である間も、社会の脱落者とは見られなかった。いま、十分な収入を稼ぐことのできない若手研究者に対して、社会の風当たりはずっと厳しいという。営利性の過度な追求は、もうそろそろ、引き返すときではないかと思う。
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