見もの・読みもの日記

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おとなりの近代/西洋と朝鮮(姜在彦)

2008-02-21 23:59:19 | 読んだもの(書籍)
○姜在彦『西洋と朝鮮:異文化の出会いと格闘の歴史』(朝日選書) 朝日新聞社 2008.2

 日本の洋学と西洋思想の受容史というのは、なんとなく気になっているテーマである。また、先行例(結果的には失敗例?)として、中国の洋学受容史にも興味がある。しかし、本書を目にするまで、朝鮮については、全く考えたことがなかった。いい本が出たなあ、と感謝と期待をもって読み始めた。

 第1部(17世紀)は、ほとんど中国の洋学史である。イエズス会宣教師のマテオ・リッチは、1601年に北京入りし、キリスト教の教理書・科学書・世界地図などを次々に刊行した。毎年、ソウルから北京に往来した朝鮮の使臣たち(燕行使)は、その漢訳西洋書を朝鮮に持ち帰った。1602年刊行の『坤輿萬国全図』は、1603年には朝鮮に伝わっていたという。おお~さすが陸続きは早いな。日本には何年に伝わったんだろう?

 鄭斗源(チョン・ドゥウォン)は山東省登州でロドリゲスに出会い、昭顕(ソンヒョ)世子は北京でアダム・シャールと親交を結んだ。このように、17世紀の朝鮮と西洋の接触は、中国というトポスを抜きには語れない。唯一の例外として、1653年、オランダの商船が、済州島に漂着するという事件が起きた。しかし、著者が、いかにも残念な口ぶりで語っているように、「彼らが朝鮮に残した痕跡は何もない」。日本人は、九州南端の種子島に伝わった鉄砲が、瞬く間に国内生産可能となり、伝統的な戦術を一変させたことや、臼杵に漂着したオランダ船の航海長ウィリアム・アダムスが徳川家康に仕え、貿易相手国を新教国に切り替えるきっかけとなったことを、「当たり前」のように受け止めがちだが、朝鮮の例を見れば、そうともいえないのである。

 第2部(18世紀)に至って、ようやく本格的な洋学の流入が始まる。日本と比べて興味深いのは、朝鮮では、キリスト教への対処(受容か排斥か)が、長年にわたり、最重要課題だったという点だ。やがて、キリスト教は、朝鮮の庶民と女性たちに浸透し、保守的な特権身分層の警戒を招くようになる。

 第3部(19世紀)は、1801年のキリスト教大弾圧(辛酉教難)で開けた。この弾圧は、西洋につながる人・もの・書物・学術研究の全てに及んだ。18世紀後半に積み重ねられた西学研究の成果は放擲せられ、以後80余年、武力による「開国」を迫られるまで、全く途絶してしまうのである。

 日本とのなんという違い。日本が、19世紀のウェスタン・インパクトを切り抜けることができたのは、それ以前に洋学研究の厚い蓄積があったからである。さらに淵源を探れば、徳川家康の深謀遠慮――封建制度の脅威となるキリスト教を徹底拒絶しながら、それ以外の情報・文物の流通路を閉ざさなかったことにあると思う。このグランド・デザインがあってこそ、8代将軍吉宗の、積極的な洋学奨励策も可能だった。明治維新の成功は、家康がもたらしたと言えるかも知れない。

 かくて日本は成功し、朝鮮は失敗した。しかし、今日の日本に、いまだ人権思想や民主主義が十分根づかないのは、思想と技術を切り分けて、後者だけを熱心に受容する習い性の悪弊なのではあるまいか。また、幕府主導の日本の洋学研究は、私人によって細々と行われた朝鮮の洋学研究に比べて安定した成果を築き、社会に大きな影響力を持った。しかしまた、国家主導でないと何もできない体質も、同時に作られたのではないかと思う。19世紀のプラスは、20&21世紀のマイナスと言えなくもない。よく考えてみたい。

 東方伝道をめぐる、イエズス会と他会派の確執、ルネサンスの学問的成果(科学&人文科学)を重視したイエズス会の性格など、ヨーロッパキリスト教史の部分も興味深かったし、秀吉の朝鮮侵攻や明清の交代が、東アジアの他国に与えた影響を考える段も面白かった。『明史』に「意太利亜伝」があるとは知らなかった!

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