見もの・読みもの日記

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七人の東大生/天下之記者(高島俊男)

2008-02-27 23:55:16 | 読んだもの(書籍)
○高島俊男『天下之記者:「奇人」山田一郎とその時代』(文春新書)文藝春秋社 2008.2

 山田一郎(1860~1905)は、明治の新聞界で「天下之記者」を名乗ったフリージャーナリストの走りである。早稲田大学の前身、東京専門学校の創立に深くかかわり、教壇では政治学を教えた。昭和40年代まで、早稲田大学図書館には、山田一郎の肖像画が掲げてあったという。だから、早大関係者には、そこそこ知名度があるのかも知れないが、私は本書に出会うまで”山田一郎”なる人物を全く知らなかった。

 書店で本書を手に取って、パラパラと中をめくったら「東京開成学校から東京大学へ」「勉強会から政治結社へ」「明治十四年の政変」「改進党小野グループの誕生」等々の文字が目に入った。それで、ははあ、あの頃の人物か、と納得した。

 東京大学の歴史については、多少、読んだり調べたりしたことがある。明治初頭の東大の歴史(および前史)はおもしろい。はっきり言えば、真面目に付き合うのが馬鹿馬鹿しいほどのドタバタである。しかし、その大混乱の中から、新時代を担う逸材が輩出するのだから不思議な時代であった。やがて、全ての制度が整い、官吏養成学校としての「帝国大学」が姿をあらわすのが明治19年のことだ。

 これに先立つ明治15年(1882)、大学当局を当惑させる「事件」が起きた。法文ニ学部の卒業生12人のうち6人が改進党に行くことになったのだ。改進党(立憲改進党)は、大隈重信と、その懐刀・小野梓を中心とする反政府党である。小野梓のもとに参じて、東京専門学校の創立にかかわった6人が、岡山兼吉、山田喜之助、砂川雄峻、高田早苗、天野為之、そして山田一郎である(在学生の市島謙吉も参加、計7人)。卒業式で、かのフェノロサが「国家有為の人材を養成するこの大学に学びながら、卒業後官吏になることを拒絶して政治に関係する者がある」ことに対して、強い「遺憾」を表明したという大事件であった。

 そうか~早稲田大学って、彼ら東大のはみ出し者が作った学校であるということも初めて知った。しかし、彼ら7人(鴎渡会と称した)は一枚岩の集団ではなかった。まもなくゴタゴタが起こり、山田一郎は、学校を飛び出す。この「挫折」から、彼は生涯、立ち直れなかった。磊落な「奇人」を装っているが、その実、小心で煮え切らない性格が災いしたのである。著者の批評は公平で厳しく、またどこか優しい。一方、学校に残った高田早苗と天野為之は、今なお早大創設の功労者として称えられているし、他の仲間たちも、それぞれ社会的成功を収めている。

 興味深いことに、山田一郎の同期生(明治9年入学)には、坪内逍遥がいる(途中で1年落第)。山田一郎の挫折の後にやってきて、やすやすと早稲田大学のシンボル的な地位を占めてしまう。不器用な「政治青年」よりも「文学オタク」のほうが世渡りの才覚があったかに見える。なお『当世書生気質』に描かれた怪人物、任那透一のモデルは山田一郎と言われているそうだ。

 晩年の山田一郎は、日本橋の木賃宿に住み、あちこちの新聞社に寄稿する生活を送った。46歳で、インフルエンザをこじらせて死去。功なり名を遂げたむかしの仲間たちは、落魄の友に最後まで優しかった。山田一郎の名を後世に残すため、彼らの寄附金によって購入された漢籍コレクション(太平御覧など十部千三百六十冊)が「山田一郎記念図書」として、早稲田大学図書館に寄贈された(なるほど、大学図書館には、こんな友情の証が収められていることもあるのだな)。それにしても、社会的な成功や不成功を越えた彼らの友情の結末、女性の身には分かりにくい、不思議なものに感じられる。
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