見もの・読みもの日記

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働くことの復権/仕事と日本人(武田晴人)

2008-02-06 23:58:11 | 読んだもの(書籍)
○武田晴人『仕事と日本人』(ちくま新書) 筑摩書房 2008.1

 われわれは「労働」の第一義を「収入を得るための手段」と考えている。少ない労働で、多くの収入を得、余暇を楽しむことが「望ましい生活」であるのに対して、「労働」には、できれば回避したいが、やらなければならないこと、という負のイメージがつきまとう。しかし、この受け止め方は歴史的に普遍的なものではない。「労働」という日本語は、明治初期「labour」の訳語として作られた(働は国字)。同時に、われわれの「労働」に関する概念も作られたのである。 

 「労働」を忌避すべきものと考える思想は、淵源をたどれば、生産にかかわる活動は奴隷に任せ、市民は精神的自由を楽しむものと考えた古代ギリシャ人に行き着くかもしれない。もう少し近い要因としては、近代化・工業化による、働きかたの変化が挙げられる。工場労働は、作業時間が定められ、効率が求められ、明確な指揮系統が設けられる。労働者自身が主体的に裁量できる範囲は少なく、労働は「拘束」であり「骨折り」であるという意識が強くなる。

 さらに社会が高度化し、分業と協業体制が進むと、全ての仕事は、絶えず組織の全体を参照し、相互の作業を微調整しながら行うことが必要になる。こうした働きかたは「個々の能力による差が明確には意識されにくい」のである。その結果、労働者は、賃金の支給額がすなわち能力の評価であると考えるようになり、どれだけ稼いだかで人の価値を計ることに、何の疑問も持たなくなる。

 日本では、労働組合さえも「労働者は『銭金』で動くものだという感覚」に強く支配されており、組合の要求は、経済的利益(賃上げ)の確保に偏り過ぎてきた。長時間の残業が、暗黙の賃金補填策として容認されてきたことも一例である。一面では、これは「経済学が持っている認識上の限界」とも言える。労働の供給は、労働者にとって「マイナスの効用」であり、賃金という代償を得ることで、取引が成立するというのが、経済学の基本的前提だからである。

 このように「労働の価値=収入の多寡」という等式の根拠を、著者は執拗に洗い出し、見直しを図ろうとする。もちろん、サービス残業やパート・派遣労働者の搾取は大きな問題である。労働には、正当な対価が支払われなければならない。「お金を目的に働く人を排除する必要はないのですが、そうしない人を排除し、尊重しないことが当たり前という現代社会のあり方には疑問がある」。この、しごく穏当で常識的な結論さえ、長い論証と検証を経なければ、人々の胸に届かないところが、現代日本の不幸を示していると思う。

 「あとがき」にいう。競争という手段、営利性の追求による企業の社会的機能の歪み、この病根は「大学という学問の府をも侵しつつある」。著者は、このことを、若い研究者の苦悩のうちに実感している。前近代の社会では、職人となる男子は、10歳で親方に弟子入りし、10年間の徒弟生活→お礼奉公を経て、ようやく自分で稼ぎ始める。しかし、徒弟である間も、社会の脱落者とは見られなかった。いま、十分な収入を稼ぐことのできない若手研究者に対して、社会の風当たりはずっと厳しいという。営利性の過度な追求は、もうそろそろ、引き返すときではないかと思う。
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