見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

東海岸見聞録(1):ボストン到着まで

2006-11-19 20:54:46 | ■USA東海岸見聞録2006
 このブログを始める前は、ちょっとした海外旅行に出かけると、旅行記を書いて、別サイトで友人知人に公開していた。今回は、仕事以外のネタは少ないので、こっちに統合してしまおうと思う。

 成田を出発したのは12日(土)の夕方。ワシントン(ダレス空港)で乗り換え、同じ12日の18時過ぎにボストン到着の予定になっていた。

 成田では、なじみのうすい第1ターミナルで、ちょっと迷った。私がよく行くアジア方面は第2ターミナル発着が多い。アメリカ行きは10年ぶり。ただし、このときの目的地はハワイだったので、考えてみたら、アメリカ本土に渡るのは14年ぶりである。迷いはしたが、時間の余裕をもって着いていたので、慌てることなく、旅行保険の加入を済ませ、同行の上司と落ち合い、搭乗口に向かった。

 話に聞いてはいたものの、セキュリティ・チェックは、いつになく厳しい。靴やコートは脱いでX線検査機を通らせなければならない。ペットボトル(液体物)は取り上げられる。検査場で、私は係官のお姉さんに「Boarding pass please?」と英語で話しかけられて「あ、はい」と応じたら、「あ、どうも」と気まずそうな日本語の答えを返された。いつものことだが、何国人に見えるんだろうなあ、私。

 飛行機は定刻どおりに離陸。しかし、上昇が終わっても、なかなか揺れが収まらないので、ドリンクサービスも始まらない。1時間を過ぎた頃、少し揺れが減ってきたので、(たぶん)痺れを切らしていたフライトアテンダントたちは、これ幸いと思ったのか、ドリンクサービスが始まった。ところが、カートが一周して、乗客に飲み物が行き渡った頃、再び機体の揺れが激しくなった。後方の座席だった私たちは、まだドリンクを受け取ったばかりである。「横揺れは激しいけど、上下動がない分、救われますね」なんて呑気に話していたのだが、突然、ジェットコースターのような急降下に襲われ、機内はちょっとしたパニック。私はカップを取り落として、隣席の上司の膝にオレンジジュースをぶちまけてしまった(すみません)。

 その後もさらに1時間ばかり、ローカル私鉄(たとえば京急)の特急に乗っているような、機体の揺れが続いた。トイレが我慢できなくなったお客が席を立とうとすると「危険ですから立たないでください!」と厳しい叱声のアナウンスが飛ぶ。活字も読めないので、体を機体の揺れにまかせて、ただ座っているだけ。そんな状態が、日付変更線を超える頃まで続いた。

 それから、ようやく夕食が出て、少し眠る。夜食は赤いきつねのミニサイズでびっくり(蓋に「らあーめん」とひらがなで書いてあったが違うだろう)。お湯がぬるいので全くおいしくない。コーヒーを頼めば「Milk?」と聞いて、500ml入りの牛乳パックをポイと置いていくし。アメリカの航空会社ってアバウトだなあ。

 ほぼ定刻どおりにワシントンのダレス空港に到着。ここで国内線に乗り継がなくてはならない。ところが、入国審査カウンターが遠い。複雑に曲がりくねった細い廊下を、どこまでも歩かされる。まるで、敵兵の侵入を防ぐために造られた、中世の城郭のようだよね、と上司と苦笑し合う。

 ようやくたどり着いた入国審査場は、呆然とするような大混雑。狭いホールに十重二十重に折り曲がった行列が続いている。私たちに用意された乗り継ぎ時間は1時間半。成田でチェックイン済みの搭乗券には30分前に搭乗口に行けとあるのだが、とても間に合いそうにない。「15分前に着けばなんとかなるんじゃないですか」「少し出発を遅らせて、待っててくれないかしら」と言ってみるのだが、全て希望的推測の域を出ない。試しに空港の係員に「我々は時間がない」と言ってみたが、あっさり「セキュリティが大事だ」と拒絶された。

 セキュリティのため、入国者は左右の人差指の指紋をスキャンされ(このデータ照合時間が長い)、顔写真を撮られた。それから、預け荷物を拾って、乗り継ぎロビーに進もうとすると、また足止めされて、長い列に並ばされた。何かと思えば、手荷物のX線検査である。もちろん靴もコートも脱がされる。往生際の悪い私も、さすがにこのへんで、乗り遅れの可能性が99%かな、と腹を括った。

 手荷物検査を通り抜けると、次は町工場の作業場のような雑然とした大部屋だった。ベルトコンベアつきの検査装置が何台も、喧しい音を立てて作動しており、乗客は、適当なコンベアの前にトランクを放置して去っていく。はあ?? 何がどうなっているのか、まるで呑み込めない。しばらく考えて、これで(成田で付けられた行き先タグに従って)荷物が乗り継ぎ便に積み込まれるらしいと理解する。

 乗り継ぎ手続きを全て終えたのは17:00過ぎ。16:45発の飛行機はもう飛び立っている筈だが、祈るような気持ちで掲示板を見ると、17:15発に変更されている。まだ間に合う(かもしれない)! そこで小走りに指定されたゲートに急いだが、運の悪いことに、これがまた遠い。脇目もふらず、搭乗ロビーのいちばん端まで走って、大汗をかき、なんとか機内に滑り込むことができた。

 座席に着いて、これで安心と思うと、どっと疲れが出て、思わず、ウトウトと一眠り。ところが目が覚めてもまだ飛行機が出ていない。結局、1時間以上遅れて18:00近くに離陸となった。(あんなに走るんじゃなかった・・・)

 最終目的地のボストンに到着したのは、1時間遅れの19:30頃。まあ、この時間なら、市内でゆっくり夕食も取れるだろう、と思っていた。ところが、ここからが想定外のアクシデント。2人とも、預けたトランクがなかなか出てこないのである。もしかしてレーンが違うんじゃない?と不審がって、あちこち詮索しているうちに、上司のトランクが出てきた。ああ、それなら並べて預けた私のトランクも大丈夫だろう、と、一旦は安心したのだが、それから、いくら待っても私の荷物は出てこない。「クレームしたほうがいいよ」と言われ、うわー初日から実践英会話かよ~と気が重くなったが、覚悟を決めて、Baggage Serviceと書かれたカウンターに行く。すると、正面にある電話でBaggage Centerに直通電話をかけろと言う。

 教えられたとおりにかけてみると、名前、便名、今日のホテル、荷物の特徴などを聞かれた。はじめは明日の朝までに届けると言っていたが、ボストン市内のホテル名を言うと、今夜中に届けると言う。本当かどうかわからないが、待ってみるしかない。上司には「当座、大丈夫?」と心配してもらったが、まあ1晩くらい、着のみ着のままでも全く困らない性質である。これだけ絵に描いたようなトラブルが続くと、実は面白くて仕方なかった。しかし、私はこれまで年平均1回以上の海外旅行・出張を繰り返してきて、荷物関係のトラブルに遭ったことはなかったので、掛け捨ての旅行保険に入るとき、「携行品」条項はいつも無視していた。今回も同様である。いまさらながら、ちょっと後悔。

 なんだかんだで空港を出たのは21:00頃。ガイドブックに従って地下鉄で市内に行こうと思ったら、おばちゃんに「Closed!」と注意されて、シャトルバスとタクシーを乗り継ぐことになったりしたが、長い旅路の末に、ホテルに到着。近くのレストランで遅い夕食を取り、0:00過ぎに就寝した。

 フロントには、荷物が届いたら、いつでも(anytime)受け取る、と言っておいたのだが、電話のベルで起こされたのは、結局、早朝5:30頃。それでも、やれやれ、これで2日日から予定どおりの行動ができると思って一安心。もう一眠りしたのだったか、しなかったのだか。こうして、波乱の初日が終わり、アメリカ東海岸ツアーが始まったのである。
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帰国しました。

2006-11-18 21:35:44 | なごみ写真帖
本日、アメリカ出張より帰国しました。

さて、どうするかな? フリータイムに見たもの・行ったもののことは書きたいが、仕事で見たもののことも少し書きとめておきたいと思う。

とりあえず、ハーバード大学の生協で買ったお土産のクマをご紹介。そして、今日は時差ボケ解消のため、とっとと寝ます。おやすみなさい。

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管理人不在です。

2006-11-12 09:52:49 | なごみ写真帖
ようおいでませ。まあ、ご一服。
今週はアメリカ出張中のため、記事の更新はありません。



旅は大好きで苦にならないのだが、やっぱり、休暇と出張では違うなあ。
出発当日(本日)の朝まで関係資料を読んでいたが、読みきれないので、飛行機の中で続きを読むつもり。でも、向こうに行ったら、腹をくくって、目と耳に神経を集中するのが一番ですね。

写真は、正倉院展に行ったとき、奈良博の中庭でいただいたお菓子とお抹茶。

では、そろそろ、行ってきます!

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学者から研究者へ/出版と知のメディア論(長谷川一)

2006-11-11 01:35:18 | 読んだもの(書籍)
○長谷川一『出版と知のメディア論:エディターシップの歴史と再生』 みすず書房 2003.5

 これも出張前に書棚から引っ張り出した本の1冊。著者は、晶文社、東京大学出版会で書籍編集に従事した経験の持ち主である。本書の内容は、「出版メディア」をめぐって、多岐にわたる。初めて読んだときは、「人文書」をめぐる読書空間の成立と危機を論じた第4章が印象深かった。電子メディアを論じた第3章も面白いが、いま、パラパラと読み返すと、ずいぶんトピックが古くなっている気がする。

 今回は、主として第2章の「大学と出版のメディア編制」を読み返した。ヨーロッパにおける学術出版メディアは、13~14世紀:口述を重んじた中世の大学→15~16世紀:大学都市に印刷工房と書籍商が出現(ラテン語を共通言語とすることで、広汎なマーケットが存在)→17世紀後半:学会とジャーナルの誕生、というかたちで進む。

 大学出版部は、16世紀末のイギリスに現れ、17世紀末、古典学者リチャード・ベントリーが、ケンブリッジ大学出版部の基礎を固める。彼は、利潤追求性を捨て去り、「知」のコミュニティに奉仕するメディアを理想とした。同じ頃、哲学者ライプニッツも、学者が出版社の賃労働者と化していることに警告を発し、より自由な学究生活の場である科学アカデミーの設立に腐心した。

 アメリカの大学出版部は、イギリスを親として生まれた。ただし、19世紀後半に至っても、アメリカの「ユニバーシティ」や「カレッジ」の内実は、同時代のヨーロッパとは比べものにならない貧弱なもので、知のコミュニティはいまだ存在していなかった。アメリカの大学(カレッジ)では「全人教育」の建前のもとで、24時間学生を監視・監督することが行われるのみだった。

 しかし、19世紀末葉、ハーバードやイエールなどの有力大学は、ヨーロッパ、とりわけドイツの近代大学の影響を受けて、大きな転回を図る。学部を中心とする旧体制には手をつけず、新たに大学院を設置し、ドイツ式の研究至上主義が取り入れられた。最も目覚しい効果を挙げたのは新設校のジョンズ・ホプキンス大学である。

 ただし、ドイツの研究至上主義が、自由なアイディアを持つ少数の才能によって行われる「学問」であるとすれば、アメリカのそれは、大量に養成されたB、Cクラスの職業的専門研究者による「サイエンス」であった。そして「学者」は「研究者」となり、不断に成果(論文や著作)を公表(出版)しては、その評価が大学でのポストに結びつく、というサイクルが確立される。

 このあと、話題は、上記のような「大学」および「研究者」のアメリカ・モデルの成立と、大学出版部のアメリカ・モデルの関連に及ぶのだが、今の私の直接の関心ではないので、ここで止めておく。しかし、ここまででも、ずいぶん興味深い話であると思う。多くの社会インフラが19世紀後半に成立した日本に比べると、ヨーロッパの歴史は長い。「若い国」と思われがちなアメリカでさえ、実は日本よりも、ずっと長い歴史の水脈を持っているということを再認識した。

 日本が社会システムを西洋に学んだとき、西洋はどの過程にあったのか、また、いくつかの選択肢の中でどの国をモデルにしたのか、というのも重要であると思う。日本の大学(東京大学)は、はじめはイギリス=フランス・モデルであった由。その後、ゼミナール形式の授業など、次第にドイツ式(ということは、アメリカ式なのか?)モデルに移行していったようである。しかし、幸か不幸か、「出版か消滅か(publish or perish)」的な成果主義が幅を利かせるようになったのは、もう少し最近のことではないかと思われる。
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ハーバードで語られる世界戦略(田中宇、大門小百合)

2006-11-09 22:03:17 | 読んだもの(書籍)
○田中宇、大門小百合『ハーバードで語られる世界戦略』(光文社新書) 光文社 2001.11

 出張が近いので、新しい本に手を出すことを自らに禁じて、古い本棚から、アメリカの大学に関係したものを拾い読みしている。いや、ホントは古い本を読んでいる時間もないのだけれど。

 本書は、フリーの国際情勢解説者、田中宇(さかい)氏と、その妻で新聞記者の大門小百合氏のハーバード大学留学記である。実際に留学の権利(ニーマン・フェローシップ)を獲得したのは大門氏だが、ハーバード大学の方針で、フェロー(研究員)の配偶者は、フェローのように大学の授業をとることができる(むろん、強制ではない)。

 そこで、夫婦2人でアメリカに出かけ、約1年間の留学生活を送った。最初は2人とも感心することばかりだったが、夫のほうは、次第に「おかしいぞ」と思うことが増えてくる。一方、妻のほうは、どちらかといえば前向きな視点を、最後まで保ち続けた。本書は、2人がそれぞれ異なる視点で執筆した章が、交互に現れるかたちで構成されており、その結果、「アメリカの大学」というものが、立体的に示される。なかなか興味深い留学記である。

 田中宇氏が「おかしいぞ」と指摘するのは、日本の大学ではちょっと考えられない、ハーバード大学教授陣の「生臭さ」である。ハーバードといえば、保守/リベラルで言えば、圧倒的に民主党支持が多いことで知られているが、これは日本の万年野党支持層とは全く性質の違うものだ。

 ハーバードでは、多くの愛国的な研究者が、武器の開発や戦略立案に関わってきた。冷戦中には、さまざまな「秘密研究」に応じることで、国防省やCIAから多額の予算を得ている。現在は「秘密研究」は禁止されているが、1985年に至っても、サミュエル・ハンチントンがCIAの資金で秘密研究を続けていることが新聞にすっぱ抜かれたそうだ。

 帰国して、著者の田中宇氏は思う。世界を支配するシステムを一から考えることができるのが、ハーバードのエリートたちである。一方、日本人は、システム創造よりも、雑学的で庶民的なパワーに長けている。日本人は、アメリカの真似をせず、日本の長所を維持していけばいいのではないか(そのほうが、世界に迷惑をかける点が少ないのではなかろうか)。はからずも、最近読んだ松岡正剛さんの『日本という方法』とよく似た結論であるが、私も、基本的にはこっち路線を支持したいと思った。
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敢えてするオプティミズム/ウェブ進化論(梅田望夫)

2006-11-07 00:25:36 | 読んだもの(書籍)
○梅田望夫『ウェブ進化論:本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書) 筑摩書房 2006.2

 グーグル、アマゾン、オープンソース、ブログ、そしてWeb2.0に表象される、インターネットの新しい変化について論じたもの。同じテーマを扱った、森健さんの『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』(アスペクト 2005.9)や『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書 2006.9)が、どちらかというと批判的・悲観的な立場を取るのに対して、本書は、変化の明るい面を紹介することに重点を置いている。

 ただ、両氏の認識は、実際には、そんなに大きく違わないのではないか。本書の著者は、決して手放しで、来るべき世界を礼讃しているわけではなく、その困難や危険性は十分認識しているのだと思う。それでも、著者は「オプティミズムを貫いてみたかった」という。「これから直面する難題を創造的に解決する力は、オプティミズムを前提とした試行錯誤以外からは生まれ得ないと信ずるから」である。いわば本書は、「敢えてするオプティミズム」のインターネット論ではないかと思う。

 著者は、「不特定多数は衆愚である」という、旧世代エスタブリッシュメント的思考を批判し、「不特定無限大を信頼する」若い世代の柔軟な感覚が、産業構造を変えていくとする。うーむ。しかし、旧世代的と非難されようとも、私はここのところは賛成できない。

 森健さんの『グーグル・アマゾン化する社会』でも触れたが、『「みんなの意見」は案外正しい』の著者ジェームズ・スロウィッキーは、十分に分散していて多様性と独立性の保たれた「個」の意見を集約すると、優れた専門家の価値判断より正しいことがある、と述べている。ここまではいい。

 続けて著者が、「ネット空間上の『個』とは、分散、多様性、独立性を巡るスロウィッキー仮説そのものだ」と述べていることには、私は同意できない。少なくとも社会的な問題をめぐる日本のネット言論(技術開発の分野では違うのかも知れないが)を見る限り、著者の発言は、オプティミズムを通り越して、事実誤認であると思う。

 たぶん、本来「個」の多様性や独立性が確立している社会に導入されたウェブ・テクノロジーは、その多様性や独立性を補強・助長する役割を果たし、そもそも付和雷同的で、異質なものを排除する傾向のある社会では、その特徴を拡大再生産する方向に作用するのではないか。問題はウェブ・テクノロジーにあるのではなく、テクノロジーの登場以前に、民主的な社会を作ってこれなかった我々自身にあるのだと思う。

 それならどうすればいいのか? グーグル社のウェブサイトには「10 things Google has found to be true(Googleが発見した10の事実)」と題して「Democracy on the web works(ウェブ上では民主主義が機能する)」という一文がある。けれども、日本のネット言論の現状を見ていると、私は、ウェブ上では democrat(民主主義者)であることをやめて、断然 aristocrat(貴族政治主義者)を通したくなる。

 しかしながら、若い世代が、困難を承知で取り組まなければならない本当の課題は、ウェブ・テクノロジーの進歩とともに、負の方向に拡大再生産され続ける、日本の”民主主義”を惨状から引きずり起こし、正しく「個」の多様性や独立性が保たれた社会を作り上げることだと思う。やれやれ。この困難な大仕事に、明るく笑って立ち向かえるとしたら、本当のオプティミストだと思うのだけど。
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「公共」の意味/未来をつくる図書館(菅谷明子)

2006-11-06 12:41:13 | 読んだもの(書籍)
○菅谷明子『未来をつくる図書館:ニューヨークからの報告』(岩波新書) 岩波書店 2003.9

 著者の菅谷明子さんには、とある研修の講師をお願いしたことがある。そのとき、ビジネス支援を中心に、日本の公共図書館ではまず考えられないような、積極果敢な市民サービスに取り組むニューヨーク公共図書館の事例を聞いて、目が覚めるような気持ちがした。それからしばらくして本書が出たのだが、ずっと読む機会を逸していた。それを、突然、読む気になったのは、来週に控えたアメリカ出張の準備である。

 とりあえず、読んでおいてよかった。そもそも”公共”の意味が、日本と全く違うことを、私は本書を読んで初めて理解した。ニューヨーク公共図書館は、日本のように地方自治体が運営する”公立”図書館ではなく、非営利民間団体(NPO)によって運営されている。

 同館は、19世紀半ば、篤志家の個人図書館を端緒とし、1901年、鉄鋼王カーネギーの大口寄付によって、基礎が作られた。カーネギーは寄付に際して、ニューヨーク市は建設用地を提供し、「維持・運営費用を永久に負担しなければならない」という条件をつけた。つまり、寄付を受ける自治体の側にも、相応の努力と責任を求めたのである。この「パブリック・プライベート・パートナーシップ(PPP)」の伝統は、今日にも生かされているという。

 とにかく、そのサービスの質と量はすごい。ウェブサイトには、図書館が独自に作成したデータベースもあれば、高額な外部データベースへのアクセスも用意されている。ニューヨーク市民である著者は、東京にいながらでも、図書館カード番号を入力すれば、これらの資源を無料で利用できるのだそうだ。

 デジタル・リソースを積極的に取り入れながら、同時に、人と人の結びつきを重視しているのが、同館の活動のユニークなところである。同館では、データベースの講習会のほか、履歴書の添削や面接のテクニックを教える就職支援講座、医療情報講座など、さまざまなイベントが開かれている。利用者は「インターネットでは得られない」具体的なアドバイスを、講師から得ると同時に、同じ悩みや希望を持つ人々と、情報交換のネットワークを作ることができる。図書館は、その「顔合わせ」の場を提供しているのである。

 この「顔合わせ」重視をつきつめたのが、付設の「研究者・作家センター」で、世界各国から15名の研究員を集め、1年間、自由な研究をさせるというプロジェクトである。研究員は、図書館が主宰する公演、セミナー、読書会などへの参加を求められるが、唯一の義務は「何があっても毎日一緒に昼食を取ること」(!)だそうだ。資金集めのプロモーションの側面もあるのだろうが、面白い試みだと思う。

 もちろん、厳しい現実もある。2001年の同時多発テロ以後、ニューヨークでは景気後退が続き、市は大幅な予算削減を断行した。図書館に対する資金援助もマイナスとなり、人員削減や開館日数の縮減に迫られるところも多くなっている。しかし、図書館の「資金集めのプロ」たちは、諦めることなく、熱い思いを胸に、知恵をしぼって、動きまわっている。

 本書は、アメリカ社会の「明るい面」が、次から次へと繰り広げられるレポートである。うらやましいといえば、うらやましい。一方では、こんな社会に生きていくのはチョット大変だなあ、とも思う。

 しかし、ニューヨーク公共図書館のように、「行政」から独立するということは、「公共」の真の理念を実現する上で、不可欠の条件なのではないか。日本人は、「Public」を「公儀(おかみ)」の「公」に置き換えた時点で、何か大事なものを見落としたのではないかと思った。福沢諭吉の大学民営化論を思い出す。

 「行政」から独立した組織であればこそ、同館は、政治的に微妙な問題にも堂々とコミットできると言う。ちなみに、現在の The New York Public Library のサイトを見にいくと「Branch Libraries」→「Readers and Writers」→「Staff Picks(RECOMMENDED READING - Booklists from The New York Public Library)」に、「Gay and Lesbian Pride, 2006」という推薦書リストが載っていて感心させられた(日本で考えるほど「微妙な問題」ではないのかも知れないけど)。

■The New York Public Library(英語)
http://www.nypl.org/
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関西・秋の文化財めぐり(7):おまけ色々

2006-11-05 08:37:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
 楽美術館を出たあとは、まだ少し時間があったので、野々村仁清をしのんで仁和寺に寄った。仁清は、仁和寺の門前に窯を開き、本名(通称)清右衛門の「清」に仁和寺の「仁」を合わせて、仁清と名乗ったという。ざっと門前を眺めた限りでは、何も見つからなかったが、帰ってから調べたところ、もう少し東寄り、御室小学校の近くの個人宅前に石碑があるらしい。次回は尋ねて行ってみよう。

■参考:京焼の窯跡を発掘調査した木立雅朗教授(立命館大学)のサイト
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/koho/rs/061025/kiwameru.htm

 仁和寺は、秋季名宝展を開催中で、霊宝館の阿弥陀三尊にお会いできた。穏やかな表情が懐かしい仏様である。草花に荘厳された金色の光背が、背景の白壁に映えて、ヨーロッパふうの優美さを感じさせる。

 ところで、仁和寺には、以前から気になっていることがある。白書院の外に掛かっている額に「光緒丁亥季春穀旦」「總統穀軍四川提督宋慶敬立」とあるのだ。調べてみたら、宋慶という人は、李鴻章幕下の軍人で、日清戦争(1894~1895)では日本軍と激しい陸戦を戦ったらしい。ただし、この額は「光緒丁亥(1887年)」とあるから、日清戦争以前のものだろう。なお、座敷内にある額は、山西省の懸空寺にある、李白筆「壮観」の写しではないかと思う。うーん。どういう由緒なのかなあ。



 そろそろ日も傾いてきたので、京都に別れを告げることにする。帰りの新幹線で読む本を買っていこうと、四条烏丸でバスを降りて、いつものジュンク堂に寄った。そのとき、ふと目を上げたら、おお!「円山応挙宅跡」とあるではないか。ジュンク堂の向かい側(南側)、四条高倉のバス停のあたり、しゃぶしゃぶ木曽路の入口脇である。はからずも、応挙先生に「寄っていきなさい」と招かれたみたいで嬉しかった。



 ちなみに、応挙の墓は右京区太秦東蜂岡町の悟真寺(広隆寺の近く)、蘆雪の墓は上京区御前通一条下るの回向院(北野天満宮の南)にあることが、『応挙と蘆雪』の展覧会で判明した。次回は、これらも訪ねてみたい。
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関西・秋の文化財めぐり(6):光悦と楽道入

2006-11-04 08:51:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
○楽美術館 『光悦と楽道入 二つの楽茶碗 ふたりの交友』

http://www.raku-yaki.or.jp/museum/index-j.html

 「関西文化財めぐり」2日目。行きたいところはいろいろあったのだが、前日の「京焼」がよかったので、今回は焼きものつながりで行こう!と決断して、また楽美術館に行ってしまった。ほぼ10時の開館と同時に入ったのだが、日曜日ということもあって、小さな展示室は混雑していた。

 楽美術館は2度目である。前回7月は『手にふれる楽茶碗観賞会』に参加できたことが収穫だったが、『夏とあそぶ』と題した展示は、あまりパッとしたものではなかった。しかし、今回はすごい。前回が「ハレとケ」の「ケ」であるとしたら、今回は、目も眩むばかりの「ハレ」そのものである。

 総合芸術家の光悦は、楽家二代常慶、三代道入親子の手伝いを得て茶碗作りを始めた。伝世する光悦茶碗のほとんどは楽家の窯で焼かれ、特に黒楽茶碗は道入の釉薬と同じ釉質を認めることができるという。展示室の冒頭で待っているのは、光悦作の黒楽茶碗『雨雲』。以前、三井記念美術館の開館記念特別展で見て、たちまち魅了されてしまった逸品である。ほかにも『東』『朝霧』『水翁』と光悦の作品が並ぶ。

 ふと、ごった返す見学者の中で、ひときわ背の高いジーンズ姿の男性(ぱっと見には青年のようで、年齢が分からない)が、品のいい年配のご夫婦に、展示品の説明をしているのに気がついた。男性の横には、黒のフォーマルドレスの女性が、一歩下がって控えている。男性は『朝霧』『水翁』を指して、光悦が茶碗を作り始めた頃の作ではないか、と言い、「言葉は悪いけど、まだちょっと、どんくさいでしょ」とうれしそうに評する。誰なんだ、この人は?と不思議に思っていたら、別の観客グループから 「ご当代...」という囁き声が聞こえた。あ! そうか。どうやら、楽家十五代当主の吉左衛門氏であったらしい。連れのご夫婦はお知り合いなのであろうか。申し訳ないとは思いつつ、ご当代のギャラリートークに聞き耳を立てることにした。私以外の、その場に居合わせた人々も、同じ思いだったに違いない。

 ご当代のお話は、展示品を「茶碗」として使ったことのある者にしか分からない点が多々あって、興味深かった。道入の茶碗は薄い(破れノンコウとも言う)ので手のひらにお茶の熱さを感じるとか、ふくらみがなくて高台の低い光悦茶碗は指がかからないので持ちにくいとか、茶席で見たほうが見栄えがする茶碗と、逆に展示ケース栄えするもの(たとえば道入の『青山』)があるとか。光悦には大ぶりの茶碗が多いので、彼は手が(体が)大きかったのではないか、とか。

 楽美術館のサイトに案内が出ているが、10月16日(月)には、三井記念美術館に出品中(休館日)の『村雲』を用いて、特別茶会を開き、ご当代が席主をつとめられたという。ひえ~大胆な! いや、しかし茶碗は使われてこそ茶碗なのだから、こうした取り組みは正しいと思う。しかし、翌17日(火)に三井記念美術館を見に行った人々は、展示ケースの中の光悦茶碗が、まさか前日に茶席で使われていたとは思わなかったろうなあ。参加者は抽選だったそうだが、そんな幸運に浴した方がいたら、ぜひ当日の様子を教えてほしい。

 展示品の1つに光悦の「ちゃわんや吉左宛書状」がある。「ちゃわん四分ほど白土赤土御持候而いそぎ御出可有候」という文面で、光悦が、作陶のための土を楽家に所望したものである。しかし、「土は茶碗家の命」であり(何年もかけて練り上げる)、光悦はそのことをよく承知していたから、「ちゃわん四分ほど」のように控えめな表現を用いているのだという(四の字が、迷った末のように端に寄っている)。楽家のご先代は、この書状を非常に愛して(書いてもいいかしら→)病床に持ってこさせたというお話も、立ち聞きしてしまいました。

 2階の奥の展示室は、光悦と道入の名品が交互に並んでいて、美の競い合いは、息詰まるような迫力である。道入の黒茶碗『青山』はキラキラ輝く釉が主役。口径部では白色光が青く光る。光悦の『乙御前』は、光悦茶碗にしては小柄だが、底部が大きくふくらんでいるため、高台は意味なく本体にめりこんで浮いている状態である(”桃尻”とも)。道入の『稲妻』、光悦の『紙屋』、いずれも絶品だと思った。
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女たちの国/あめりか物語(永井荷風)

2006-11-03 11:51:56 | 読んだもの(書籍)
○永井荷風『あめりか物語』(岩波文庫) 岩波書店 1952.11

 「関西・文化財めぐり」のレポートは、まだ完結しないのだが、先週、読んだ本の記憶が薄れてしまうので、とりあえず。

 さ来週、仕事でアメリカに行く。ボストンに入り、鉄道で移動して、ニューヨークから帰国する。この出張が決まったとき、即座に私の脳裡に浮かんだのは、仕事と全く関係のない、末延芳晴さんの『荷風のあめりか』(平凡社ライブラリー 2005.12)であった。ものすごく面白い評論だったが、実は、荷風の『あめりか物語』自体は、読んだことがない。初めてニューヨークの地を踏む前に、ぜひともこれを読んでおこうと思った。

 荷風は、1903年(明治36年)に渡米、1905年暮れから1907年まで正金銀行ニューヨーク支店に勤め、フランスを経由して、1908年に帰国した。ふーむ。今からちょうど100年前の話だ。そして、1908年(明治41年)に発表されたのが本書である。

 実のところ、本書のエッセンスは、末延芳晴さんの評論の引用で、ほぼ読み尽くしていたようで、あまり新味はなかった。末延さんの本に漏れている部分は、「目の前のアメリカを見ず、出来合いの観念で頭を一杯」(本書解説)にしている感じが否めない。登場人物は「江戸の芝居か人情本の人物」のように(!)型どおりで、憧れの西洋社会に入り込んだ著者の自画像は、厳しく言えば、自己陶酔的で「一種の浮わついた調子」がある。

 作品は、ほぼ時系列的に並んでいると思われ、後半になると文体が落ち着いて、嫌味がなくなる。最後の「六月の夜の夢」は、事件というほどの事件も起きないが、美しい小品である。

 表現の成熟とは別に、自分を美しく飾ることに長け、肉体の美を誇り、感情や愛情を自由に表現する西洋の女性たちに魅了される著者の気持ちは、終始一貫して本物だと思う。その比較の題材として提示されている、当時の日本の、典型的な家庭婦人の姿を読んでいると、日本の女性も、ずいぶん変わったものだと思う。荷風先生の喜ぶ方に変わったわけである。

 「六月の夜の夢」に登場するロザリンは、聡明で愛らしい女性である。若き荷風は「ロザリン嬢は米国婦人の例としてやはり独身主義者ではあるまいか」と思ったという。当時のアメリカの女性って、既にいまの日本みたいな状況だったのだろうか。明治の日本人男性なら、こう思いたくなるのも分かる。これに対してロザリンは、「私は決して独身主義者ではない、けれども、きっと独身でおわらなければならないと思っている」と答え、しかし、イギリス育ちの自分は、フランスの寡婦のようなものにも、米国の偏狭で冷酷なオールドミスにもならない、「私は死ぬまでこの通り、いつまでもこの通りのお転婆娘です」と答える。

 荷風は、この答えを聞いてどう思ったのだろう。わざわざ書き留めているのだから、それなりの衝撃と感慨があったにちがいないのだが。なんだか、現代女性と明治の荷風が対話しているような感じがした。
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