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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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非戦のダンディズム/荷風のあめりか(末延芳晴)

2006-01-06 00:41:05 | 読んだもの(書籍)
○末延芳晴『荷風のあめりか』(平凡社ライブラリー) 平凡社 2005.12

 この記事を書こうと思って、いろいろ調べていたら、「荷風ほど女性に人気のない作家はいない」と書かれたホームページに行き当たって、なるほどと苦笑した。それほどではないけれど、私も、永井荷風という文学者に対しては、どこか警戒心を解くことができない。同じ耽美派でも、谷崎潤一郎のほうが、ずっと愛嬌があって、つきあいやすいと思う。しかし、男性は逆の感想をもらすのではないかしら。「荷風ほど男性に愛される作家はいない」と言ってみたら、うなずく男性は多いはずである。

 さて、荷風といえばフランス。これは私ひとりの偏見ではないらしい。著者も書いているとおり、「どういうわけか、荷風の欧米体験を語るとき、フランス体験の方が重視され、アメリカ体験はフランスに渡るための予行演習くらいにしか見なされてこなかった」。確かに荷風はフランス行きを熱望していたが、アメリカで実業を身に付けさせたいという父の意向を受け、やむなく「東回り」に旅立つ。しかし、この不本意に始まったアメリカ体験によって、荷風は、生涯を貫く文学的主題と思想を獲得したのである。

 永井荷風は、1903年(明治36年)9月、横浜を発って、航路でシアトルに向かった。シアトル南部の小さな港町タコマにしばらく滞在したのち、ワシントン、アイダホ州を横断、ロッキー山脈を超え、ノース・ダコダ、ミネソタと抜けて南下し、セントルイス万国博を見物、再び北上してシカゴを経由し、ニューヨークに到着。この間、さまざまな傍証資料を駆使し、文学評論とは思えない、自由な筆致で活写される当時のアメリカ社会の諸相は、ロード・ムービーを見るように楽しい。

 ニューヨークで過ごした2年間、荷風は、アズベリー・パークの海辺で「空飛ぶ鳥」のように、笑い、戯れる、解放された女性たちに、親愛と連帯の眼差しを投げかけながら、夜になれば、性の快楽を求め、娼婦の街を遍歴することをやめない。ワシントンで出会った娼婦イデスと馴染みを重ね、泥沼のような性愛に溺れる一方で、ロザリンという、ピアノを弾きオペラを解する少女に出会い、甘いプラトニックな恋に落ちる。正直なところ、このへん(中盤)を読んでいたときは、いい気なもんだよな~という反発が強かった。こんなオトコは全く信用に値しないということを、理論武装して書いてやろうかと思っていた。

 そんな私の強硬姿勢が崩れてしまうのは、いよいよ、念願のフランス渡航が叶うことになった荷風が、2人の恋人(イデスとロザリン)に別れを告げる場面である。ロザリンは、荷風にとって理想的な伴侶だった。しかし、異国で彼女の「愛」を得て幸福な結婚生活をおくるためには、荷風は「日本語」という言語共同体を捨てなければならない。「日本語」によって「書く」ことを生きる証しとして選んだ荷風にとって、それは精神の「死」を意味していた。それゆえ、荷風は「余の胸中には最早や芸術の功名心以外何物もあらず」と冷酷な決意を日記に記す。それでも、フランスに発つ最後の日まで、イデスの愛にほだされ、最後は、その足元に跪いて、和解を乞う。

 この荷風は、無類にカッコいい。思わず知らず、惚れてしまうくらい。『舞姫』の鴎外と、なんという差だろう! 『舞姫』の主人公は、異国の底辺生活者となることを恐れ、エリート国費留学生という記号を身につけたまま、共同体に帰還しようとした(彼が「書く」営為に出会うのは、もう少し先のことである)。一方、荷風は、断念した「愛」の代償として、「毛虫が蝶に変身するように」、書き続ける人、作家・永井荷風に変身して、故郷の土を踏むのである。それは、まるで、貴種流離譚の、英雄の帰還のような趣きがある。

 そして、このアメリカ体験(とフランス体験)を精神の支柱とし、荷風は、生涯、無記号者の視点から「書く」ことを貫いた。近代日本のあらゆる事象に絶望し、絶え間ない弾圧や発禁処分を受けながらも、日本語で「書く」ことの可能性を信じ続けた。その信念の強さは、彼が断念した「愛」の深さを表しているにちがいない、と言ったら、ロマンチックに過ぎるかしら。

 最後に、彼が徹底して軍人や国家、戦争を嫌悪し、「非戦」を貫いた文学者であったことも付記しておきたい。20世紀初頭のアメリカで、「性愛」を通じて「非戦」の思想を獲得した荷風を、あらためて読み直すことは、今日的にも意味のある仕事だと思う。
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健康は家族のために/ラジオ体操の誕生(黒田勇)

2006-01-05 23:42:58 | 読んだもの(書籍)
○黒田勇『ラジオ体操の誕生』(青弓社ライブラリー4) 青弓社 1999.11

 ラジオ体操といえば、小学生時代の夏休みを思い出す。私が通った会場は、大きな寺の境内だった。私の家が学区のはずれにあったため、学校の友だちに会うことはほとんどなかった。それなのに私は、毎朝、早起きをして、律儀にラジオ体操に通った。体操が始まる時間まで、寺の境内をひとりで探検してまわるのが好きだったのだ。

 「ラジオ体操」と呼ばれてはいたけれど、子供心に、それを「ラジオ放送」と結びつけて考えたことはなく、レコードをかけているのだろうと思っていた。時間になると、集まった人々は、整列するわけでもなく、勝手気ままな場所で、或る者は熱心に、或る者はだらだらと体を動かした。学校の授業と違うから、適当に手を抜いても、怒られる心配はない。そして短い体操が終わると、群集はほっとしたように、声高におしゃべりを始めながら、出口に殺到する。

 そんなわけで、私の記憶の中の「ラジオ体操」は、統制とも団体行動とも、徹頭徹尾、無関係だったように思う。しかし、そんな個人的記憶とは裏腹に、ラジオ体操の誕生に、ファシズムの予兆を見てとる批評があることを、大人になってから知った。

 1920年代に発明されたラジオ放送は、日本においては1925年(大正14年)に放送が始まり、1930年代に普及し始める。ラジオの普及は、文字どおり、「一瞬にして日本列島を隅々まで同一の情報でぺったりと塗りつぶしてしまうこと」を可能にした。そうしたラジオの機能を、最も如実に示すものが、「何百万人もの人間が、日本列島のいたるところで、同時に、同一の情報に対して、同一の行動をもって反応する」ラジオ体操なのである――この考えかたは、なかなか魅力的だ。

 しかし、実際は、そう簡単には割り切れないのだよ、ということを、丹念に論じたのが本書である。確かに、ラジオ体操には、日本人の「身体」や「時間」を近代化した面がある。

 ラジオ体操は、もと、簡易保険局が創案し、手軽な健康増進法として普及した。共同体の中で「身体」が維持・再生産されていた前近代と異なり、近代の都市労働者は、みずからの身体によって、個人と家族の生活を支えなければならない。家族の健康は、明るい家庭生活を生み出す。ラジオ体操の効能は健康増進なのだが、それが最終的に意味を持つのは、国家でも個人でもなく、私生活領域としての家庭においてだった。

 日本が戦時体制に入ると、個々の身体と国家の連続性が強化されてゆく。ラジオ体操もまた、国旗掲揚、「君が代」斉唱などの動作と結びつき、国家イデオロギーに「利用」された。しかし、はじめから国家的精神性を表現するために作られた「日本体操」(筧克彦が作った!)などに比べれば、やはり、それは異質なものだった。「ラジオ体操が国民を総動員していくことは不可能だったのである」と著者は結論づける。

 ラジオ体操は、敗戦後の8月23日にはもう復活していたという。やれやれ。ようやく国家の呪縛から取り戻した身体を、彼らはいとおしんだことだろう。そうとも、我々の身体は、健康も不健康も、個人(とその家族)のものだ。あの、気ままで、無統制な夏の朝の光景こそ、ラジオ体操の正しい姿だったのだ。めでたし、めでたし。
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二人の明治人/福沢諭吉と中江兆民(松永昌三)

2006-01-03 10:33:57 | 読んだもの(書籍)
○松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書) 中央公論新社 2001.1

 あけましておめでとうございます。実質的に、今年の読書の第1冊目は、この本から。

 今からほぼ百年前、ともに1901年(明治34年)に生涯を終えた、2人の思想家を対比的に扱ったもの。福沢は天保5年(1835)生まれ、中江は弘化4年(1847)生まれだから、福沢のほうが12歳年長である。

 本書は、さまざまな角度から、両者の比較を試みている。イギリス・アメリカに学んだ福沢と、フランスに留学した中江。実学を奨励し、偉大な常識人ヴォルテールに比せられる福沢と、哲学を重視し、ルソーの紹介者である中江。明治日本の進路におおむね満足していた福沢と、これを「国民堕落の歴史」であったと断じ、悲憤慷慨のうちに没した中江。このほか、飲酒、喫煙、娼妓に対する態度、家庭人として、教育者として、等々。「不風流」を自任する福沢に対して、中江が義太夫や寄席芸人の讃仰者であった、というのは、初めて聞く話で、興味深かった。これ、知ってる人には有名な話なんだろうなあ(私も文楽ファンなので、ちょっと嬉しい)。→松岡正剛の千夜千冊『一年有半・続一年有半』

 知名度から言えば、圧倒的に福沢諭吉のほうが上だろう。近代日本を考える上でも、(ネガティブな面も含めて)福沢の存在は避けて通れないと思う。福沢に比べると、中江は、ややマイナーな感が否めない。高校の倫理社会の教科書で「自由民権運動」の思想家として習ったけれど、最近まで、それ以上の興味はなかった。しかし、本書を読んで、彼の教育論や文学論を、非常に面白いと感じた。

 中江は、ヨーロッパにおいて、ギリシャ・ラテン語の学習が、一面では文章力養成の基礎として、また一面では、ものの考え方や幅広い教養を身につけるために行われていることに範を取り、日本人が学ぶべき古典教養として、漢学を重視した。東京外国語学校長のとき、『史記』や『十八史略』をカリキュラムに入れようとして、田中不二麿、九鬼隆一ら(実学を重視する福沢派)の文部官僚の反対に遭い、激論の末、辞職してしまったという。おもしろい人だな~。洋学者なのに。

 文学については、坪内逍遙の写実主義(小説の主眼は人情模写にあり)に対して、単に事実を写し取るのではなく、人間には誰しも珠玉の真実を体験する瞬間があり、そうした珠玉の瞬間をとらえるのが文学の本旨だと述べている。当時としては非常に新しい文学論ではなかったか。

 さて、最も興味深いのは、「文明と侵略」に関する両者の主張の差である。福沢は、国家の行動に個人の道徳を持ち込むことは間違いであり、国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではないとする。謝罪をすれば、罪が明白になり、相手国につけこまれるだけだ。あくまで正当性を主張し、最後は軍事力に訴えて勝利を収めれば「一切の汚辱は弱者の負担と為りて」「(勝者は)正義者の名を博す可し」という。すごい。ここまで、ぬけぬけと言うか、という感じである。慶応出身の小泉首相が、靖国参拝で主義を曲げないのは、福沢の説を信奉しているのではないか、と勘ぐりたくなってしまう。

 また、福沢は、文明は義であり力であり、文明が野蛮に武力で干渉し懲罰することは正当であると信じていた。そこから、彼の「脱亜論」と、対朝鮮強硬論が導かれる。「日本は既に文明に進みて、朝鮮は尚未開なり」。それゆえ、「我武威を示して其人心を圧倒し、我日本の国力を以て隣国の文明を助け進るは(略)我日本の責任と云ふ可き」。どうだろう、この「文明」を「民主主義」に入れ替えて読んでみては。すると、今日のアメリカが、あるいはアメリカに追従する日本政府が、どこかの”非文明国”について語っているのと、よく似た主張が現れてくるではないか。

 一方、中江は、強圧的な対朝鮮外交に反対した。近隣諸国に「日本は悪むべき国民かな、今まに如何なる返報を為すや見よや」との怨恨を抱かせることは、長期的に観て「我国の利益にあらず、又た決して東洋の利益にあらざる」と論じたのである。この中江の論法も、今日の国際関係を論ずる際、必ずどこかで聞く主張である。

 どちらの主張も、百年前に出尽くしているということか。私は中江のほうが正論だと思うけど、やっぱり弱い。今から百年後、「当時も正論を主張した人物はいた」の繰り返しでは、むなしいと思うのだけど。

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過酷な少年期/ある明治人の記録(石光真人)

2006-01-02 10:51:39 | 読んだもの(書籍)
○石光真人編著『ある明治人の記録:会津人柴五朗の遺書』(中公新書) 中央公論新社 1971.5

 柴五朗は安政6年(1859)生まれ。少年時代、会津戦争で肉親を失い、流浪、下僕生活の辛酸を嘗め、のち軍界に入って、陸軍大将、軍事参議官まで栄達した。義和団事件の折、北京駐在武官として活躍したことでも有名である。というような、ひととおりの履歴は、読む前から知っていた。しかし、私は、もっとルポルタージュ色の強い本だと思っていたので、本書の大半が、実際に柴五朗本人によって綴られた「遺書」であることに、驚いてしまった。

 編者によれば、本書の刊行経緯は、以下のとおりである。昭和17年、旧知の柴五朗翁を訪ねた編者は、翁から、半紙に毛筆で細々と書かれた原稿を手渡され、添削の依頼を受けた。その内容にショックを受けた編者は、筆写を乞うて許された。その後、翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺に預けて門外不出とし、昭和20年12月、87歳で永眠された。

 つまり、この「遺書」は、元来、亡き肉親に手向けるために書かれた個人的な覚え書きで、それ以外の読者を想定した著作ではない。そのためか、文体は、率直平明で、「齢既に八十を超えたり」と書き出されているにもかかわらず、目の前で十代の少年が語っているような、みずみずしい感情にあふれている。薩摩の非道に対する深い怨念、下僕生活で受けた辱めと憤り、恩人への感謝、とりわけ、亡き母に寄せる純情な思慕は、読む者の胸を打つ。

 「遺書」は、短くも幸福な幼年期の記憶に始まる。数え年10歳のとき、会津戦争に遭い、祖母、母、姉妹は自害。男子は一人たりとも生きながらえよ、という賢母の配慮によって脱出させられたが、「わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは」と自分を責め、悔やむ。俘虜として東京に移送され、下僕生活。続いて、極寒の下北半島に移封させられ、飢餓と凍死と戦い続ける。たまたま犬肉を手に入れたが、あまりの不味さに吐き出そうとして、父親に「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ」と叱咤される。こうして、息を呑むような悲惨な物語が、まるで昨日のことを語るような、迫真の描写とともに続く。

 15歳で陸軍幼年生徒隊に入学した著者は、西南戦争の余波で、士官学校に繰り上げ入学となる。明治10年、西郷隆盛の自刃、翌年、大久保利通の暗殺の報を聞き、「当然の帰結なり」と喜ぶところで回想は終わる。会津戦争の犠牲となった肉親を弔うことを意図した文章としては、よい区切りと思ったのであろう。ときに著者は19歳。「会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ」という父の言葉を胸に過ごした少年期の終わりを以て「遺書」は閉じられる。

 本書は、陸軍幼年生徒隊の生活については、ごくわずかしか触れていない。しかし、乞食小屋で犬肉を食い、みの虫のように蓆(むしろ)にくるまって眠る生活から、一転、洋服を着て洋食を食べ、フランス人教官から、作文、地理、歴史、数学に至るまで、フランス語で教育を受けたというのだから、すごい境遇の変化だったろうと思う。同期には大学南校からの転入者など、すでにフランス語を解する者もいた。入学以前に勉学の機会にめぐまれなかった著者の成績は、最下等だったらしい。それでも成績は「試験ごとに上昇」したというのだから、詳しくは記されていないけれど、どれだけ必死に勉強したか、思いやられる。

 ここで思い出すのは、橋川文三の『ナショナリズム』が述べていた、近代日本の「ネーション形成の固有の表現」すなわち、身分上昇のエネルギーに支えられた人々を、立身出世のコースに移行させ、きびしい専制のもとに教化・統合してゆくというセオリーである。確かに、著者・柴五朗のケースも、このセオリーに当てはまる。

 ただ、注意すべきは、この「立身出世」というのが、後世からイメージする、農民が嫌だから武士身分になりたい、というような中途半端なものではない、ということだ。著者は「東京に縁者あり」と偽って青森を出てきたものも、親戚知人はみな困窮していて、誰も著者の身元など引き受けてくれない。自活の途を求めて、活版所の文選工に応募したり、蹄鉄工に応募したりして、失敗している。いよいよ万策尽きたとき、幸いにも陸軍幼年生徒隊の募集を知るのだ。路頭に迷うか否か、餓死と背中合わせの乞食生活に戻るか否か、という、ギリギリの選択において、著者は、入学試験に合格する。必死で勉強したのも、学校を追い出されれば、もはや行くところがない、という気持ちがあったのではないか。つくづく、明治というのは過酷な時代だったんだなあと思う。

 また、最晩年の翁が、「フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです」と言って、編者に「遺書」の添削を願い出たことにも、明治人の運命を思って、しみじみと感慨深いものがある。

 最後になるが、先般、星亮一『<会津戦争全史』の感想をUPしたとき、本書を紹介してくれた散歩の変人さんに感謝。
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マス・コミュニケーション以前/新聞と民衆(山本武利)

2006-01-01 00:40:08 | 読んだもの(書籍)
○山本武利『新聞と民衆:日本型新聞の形成過程』 紀伊國屋書店 1973.9(新装復刊2005.6)

 日本の新聞ジャーナリズムには、いくつかの特異な性格が見出せる。格調ある言論活動を行う高級紙(クオリティ・ペーパー=大新聞)と、娯楽中心の大衆紙(マス・ペーパー=小新聞)の区別がないこと。「不偏不党」をうたって、いずれの政党、政治的主張からも一定の距離をおいていること。その結果、幅広い読者層を持ち、世界でもまれな巨大な発行部数を誇っていること。

 本書は、そうした「日本型新聞」の形成過程を、明治から大正初年に追ったものである。短い期間に、さまざまな新聞が、離合集散と変貌・興亡を繰り返す。長谷川如是閑、池辺三山など、著名なジャーナリストのほか、福沢諭吉、中江兆民、内村鑑三、黒岩涙香など、当時の知識人・思想家・文学者の多くが「同時に新聞人だった」ことをあらためて思い出させる。

 日本の新聞は、幕末~明治初年、言論のメディアとして誕生する。考えてみれば、電話も電信も鉄道もなかったのだ。昨日、東京で起きた事件が、今日、九州や東北に伝わることはあり得なかった。したがって、初期の新聞は、すばやく事実を伝える報道メディアでなく、じっくり読む論説のメディアだった。

 明治前期の新聞は、民衆の啓蒙と指導への使命感、自負に燃えていた。一方、読者も新聞記者に対して敬意を抱いていた。そんな中で、政府に与する「御用新聞」と見なされることは、人気の失墜(→営業上の不利益)を意味した。ちなみに、最も「御用」色が強かったのは、福地桜痴の『東京日日』で、逆に、政党からも政界からも「独立不羈」をうたったのは、福沢諭吉の『時事』であった。

 新聞がなかなか普及しなかった原因は、民衆のリテラシー(よみかき)水準の低さにある。『文部省年報』によれば、1880年(明治13年)当時、自分の姓名を書けない者が、滋賀県で32.2%、群馬県で48.6%だという。これにはちょっと驚いた。「日本は江戸時代から寺子屋の普及によって、民衆のリテラシー水準が高かった」という俗説を、私は漫然と信じていたので。しかしまあ、視野を農民まで広げれば、こんなものかも知れない。

 明治10年代に入ると、言論活動を主とする「大新聞」に対して、娯楽中心の「小新聞」が部数を伸ばしてきた。前者は教員や官吏に読まれ、後者は商家や芸娼家で読まれた(そうか、公務員が勤務時間中に職場で新聞を読んでも怒られないのって、この頃からの伝統なのね)。

 明治20年代には、政党・政府から独立しつつも、一定の理念をもった新聞が現れる。陸羯南の『日本』、徳富蘇峰の『日本』、「小新聞」系では、黒岩涙香の『万朝報』と、秋山定輔の『二六新報』。特に『万朝報』は、弱者を擁護し強者を攻撃する「勇肌(いさみはだ)」の編集方針が、江戸っ子気質の下層読者に歓迎されたという。

 しかしながら、日清・日露戦争を期に、読者のニーズは「論説」から「報道」に移る。これにいちはやく適応したのが『朝日』だった。新型輪転機の導入、電信・電話の活用など、大胆な資本投下によって、読者や競合他社を驚かせた。その背後には、国民リテラリーの向上による読者層の拡大がある。すなわち、新聞事業は、巨大な大衆を購読層とするマス・コミュニケーション産業として始動しつつあった。

 そうして、新聞と民衆の関係は「生産者と消費者の関係」になっていき、今日に至る、というのが本書の見取り図である。私としては、明治20年代の新聞ジャーナリズムの活況が、今日に続かなかったことを、とても残念に思う。日本の新聞には、「不偏不党」の大衆商品になる以外の可能性もあったはずなのに。

 本書によって、明治期のさまざまな新聞の性格が、大雑把に分かったことはありがたかった。今後、明治期の文献を読む上で、非常に助けになると思う。『二六新報』と『万朝報』は、ゆっくり読んでみたいなー。

 ところで、本書が書かれた1970年代には、マス・コミュニケーション産業としての新聞の地位は盤石だったろうと思う。2006年の今はどうなんだろう? やっぱり、インターネットとの競合で衰退しつつあるのかしら。それとも、大衆商品から、何か別のものに変貌していく兆しはあるのだろうか?
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