見もの・読みもの日記

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健康は家族のために/ラジオ体操の誕生(黒田勇)

2006-01-05 23:42:58 | 読んだもの(書籍)
○黒田勇『ラジオ体操の誕生』(青弓社ライブラリー4) 青弓社 1999.11

 ラジオ体操といえば、小学生時代の夏休みを思い出す。私が通った会場は、大きな寺の境内だった。私の家が学区のはずれにあったため、学校の友だちに会うことはほとんどなかった。それなのに私は、毎朝、早起きをして、律儀にラジオ体操に通った。体操が始まる時間まで、寺の境内をひとりで探検してまわるのが好きだったのだ。

 「ラジオ体操」と呼ばれてはいたけれど、子供心に、それを「ラジオ放送」と結びつけて考えたことはなく、レコードをかけているのだろうと思っていた。時間になると、集まった人々は、整列するわけでもなく、勝手気ままな場所で、或る者は熱心に、或る者はだらだらと体を動かした。学校の授業と違うから、適当に手を抜いても、怒られる心配はない。そして短い体操が終わると、群集はほっとしたように、声高におしゃべりを始めながら、出口に殺到する。

 そんなわけで、私の記憶の中の「ラジオ体操」は、統制とも団体行動とも、徹頭徹尾、無関係だったように思う。しかし、そんな個人的記憶とは裏腹に、ラジオ体操の誕生に、ファシズムの予兆を見てとる批評があることを、大人になってから知った。

 1920年代に発明されたラジオ放送は、日本においては1925年(大正14年)に放送が始まり、1930年代に普及し始める。ラジオの普及は、文字どおり、「一瞬にして日本列島を隅々まで同一の情報でぺったりと塗りつぶしてしまうこと」を可能にした。そうしたラジオの機能を、最も如実に示すものが、「何百万人もの人間が、日本列島のいたるところで、同時に、同一の情報に対して、同一の行動をもって反応する」ラジオ体操なのである――この考えかたは、なかなか魅力的だ。

 しかし、実際は、そう簡単には割り切れないのだよ、ということを、丹念に論じたのが本書である。確かに、ラジオ体操には、日本人の「身体」や「時間」を近代化した面がある。

 ラジオ体操は、もと、簡易保険局が創案し、手軽な健康増進法として普及した。共同体の中で「身体」が維持・再生産されていた前近代と異なり、近代の都市労働者は、みずからの身体によって、個人と家族の生活を支えなければならない。家族の健康は、明るい家庭生活を生み出す。ラジオ体操の効能は健康増進なのだが、それが最終的に意味を持つのは、国家でも個人でもなく、私生活領域としての家庭においてだった。

 日本が戦時体制に入ると、個々の身体と国家の連続性が強化されてゆく。ラジオ体操もまた、国旗掲揚、「君が代」斉唱などの動作と結びつき、国家イデオロギーに「利用」された。しかし、はじめから国家的精神性を表現するために作られた「日本体操」(筧克彦が作った!)などに比べれば、やはり、それは異質なものだった。「ラジオ体操が国民を総動員していくことは不可能だったのである」と著者は結論づける。

 ラジオ体操は、敗戦後の8月23日にはもう復活していたという。やれやれ。ようやく国家の呪縛から取り戻した身体を、彼らはいとおしんだことだろう。そうとも、我々の身体は、健康も不健康も、個人(とその家族)のものだ。あの、気ままで、無統制な夏の朝の光景こそ、ラジオ体操の正しい姿だったのだ。めでたし、めでたし。
コメント
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