見もの・読みもの日記

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日米開戦への経緯/近衛時代(松本重治)

2006-01-23 01:08:22 | 読んだもの(書籍)
○松本重治著、蝋山芳郎編集『近衛時代:ジャーナリストの回想』(上下)(中公新書) 中央公論社 1986.1-1987.1

 戦前、同盟通信の上海支社長を務めた松本重治氏の回想録。日中戦争の勃発、上海事変、南京事件を経て、1938(昭和13)年に上海を離れるまでを描いた『上海時代』の、いわば続編である。本書は、日中和平運動の挫折に始まり、日米間の緊張の高まりと開戦、そして終戦までを、著者が身近に接した近衛文麿という政治家を通して描く。

 近衛文麿は、1937(昭和12)年6月、国民的な期待を背に第1次近衛内閣を組織したが、7月、盧溝橋事件が勃発。戦争の不拡大を主張し、著者たちの和平工作に理解と共感を寄せたが、中国側が必須の条件とした「撤兵」の宣言を、陸軍の干渉によって削られてしまう。1940(昭和15)年、第2次近衛内閣を組織し、日独伊三国軍事同盟を締結。翌41年、南進か北進かをめぐって、北進派(対米強硬派)の松岡洋右外相を更迭するため、総辞職。引き続き、第3次近衛内閣を組織し、戦争回避のための対米交渉を続けたが、東條陸相の強い開戦要求に押されて、10月総辞職。12月に太平洋戦争が始まった。

 ふーむ。どうなんだろう、この履歴。見ようによっては、日中戦争から太平洋戦争にかけて、近代日本の進路を誤らせた最大級の責任者である。小堀桂一郎などはそのように考えているらしい。→Wikipedia-東條英機

 一方、著者は、一貫して近衛を「悲劇の宰相」として描く。そもそも明治憲法下では、軍の統帥権が天皇にあり、慣習的に統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)がこれを補弼することとなっていた。従って、責任内閣の長である首相は、統帥部に対して、何の影響も行使することができなかった。軍の暴走を制御するすべのないまま、あえて首相の地位に留まって、できる限りの努力を払い、大逆転をねらって苦悶し続けた人物と見る(ちょっと文革期の周恩来みたいだと思った)。

 近衛は、日中戦争を早期に収拾できなかったことに深く責任を感じていた。それゆえ、日中関係を解決する唯一の途は米国にあると考え、日米交渉に全力を尽くした。終戦後、その米国に戦争犯罪人と呼ばれることを潔しとせず、青酸カリを仰いで服毒自殺した。

 家族や親友の証言を交えて語られる近衛文麿の人物像は、非常に興味深かった。戦前までは、日本にもこういう「高貴な人種」が存在したんだなあ、と感じた。

 また、日米開戦前夜、最後通牒となった「ハル・ノート」が提出されるに至るまでの交渉経過については、初めて知る事実が多くて、これも興味深かった。たとえば、当時の野村吉三郎駐米大使は、あまり英語が堪能でなく、外交家としても素人であったこと。松岡洋右外相は、日米交渉は全て自分が仕切るつもりで、野村大使との意志疎通がうまく行っていなかったこと。民間人のウォルシュ神父とドラウト神父という人物が、結果的には、日米交渉を混乱させる要因となったことなど。外交の現場とは、けっこう人間臭いものだ。

 終戦直後、近衛はマッカーサーに対して、「日本を今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼の結合した勢力であった」と述べたという。一瞬、目を疑ったが、「右翼」ではない。なぜなら、暴走する軍部の核となった職業的士官は、大部分が「農村の中流以下の家庭に属するもの」であったから。そして「皇室を中心とする封建的勢力と財閥」は、むしろ「常に軍閥を抑制するブレーキの役割をつとめた」と証言する。ここには、戦後の「通説」が目を塞いで来た、重要な問題点が提起されていると思う。

↓本書のレファレンスに最適なサイト。どこの運営かと思ったら、下の方に小さく「国立公文書館アジア歴史資料センター」と出ている。

■特別展『公文書に見る日米交渉~開戦への経緯~』
http://www.jacar.go.jp/nichibei/

※追伸。『上海時代』のコメントで、本書を教えてくれたSonicさんに感謝。
 
コメント (1)
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