○丸善本店 慶應義塾図書館貴重書展『論語の世界-現代に生きる論語-』
http://www.maruzen.co.jp/home/tenpo/keio/keio_top.html
会期の短い展覧会なので、取り急ぎ、書いておこう。慶應義塾図書館が所蔵する貴重図書を、丸善のギャラリーで展示する展覧会である。「論語」の、日本で最も古い写本(鎌倉時代)と最も古い刊本(天文版)を含む70点余りの資料を見ることができる。会場はさほど広くないが、なかなか見応えがある。初日に、斯道文庫(しどうぶんこ)の高橋智先生の講演「慶應義塾の論語蒐集について」を聴いてきた。
論語は、もちろん日本人に最もよく知られた中国の古典である。しかし、各地の図書館や文庫の蔵書を調べてみると、残っている善本は意外に少ない。それは、論語があまりにもありふれた書物だったので、あえて善本を求めようという愛書家が少なかったためであろう。そんな中で、慶應の論語コレクションは、突出した水準を誇る。今回の展覧会では、全貌の10分の1も紹介できていない、と高橋先生は言う。
しかし、なぜ慶應に論語なのか? 講演に先立って、慶應義塾図書館の館長先生が演台に立ち、「皆さんは、なぜ慶應に論語なのか、と不思議に思われることでしょう」と述べ、「本日は、そのあたりをよく聞いていただきたい」という前振りをした。このとき、私は、ぼんやり感じていた疑問を明確に意識した。そうだ、福沢諭吉は「脱亜入欧」を唱えた洋学者ではなかったか。正月に読んだ松永昌三の『『福沢諭吉と中江兆民』でも、福沢は(兆民と違って)漢学嫌いで通していたはずだ。
高橋先生は言う。福沢先生は、形式に縛られた俗流儒者を嫌ったのであって、孔子の思想を否定していたわけではない。むしろ、福沢にしろ、勝海舟にしろ、明治維新を成し遂げた人々の思想的バックボーンには、正しく理解された「論語」の思想があった。慶應義塾図書館の論語コレクションには、福沢の弟子たちの旧蔵書が多く流れ込んでいる。「義塾」という名称も、「ただで学べる塾」の意味で、中国に由来するものだ。だから、福沢と慶應社中の人々の思想は、東洋文明を排除するものではない。
上記の説明の是非はともかくとして、私は、若い高橋先生が、さかんに「福沢先生」という表現を使うのを面白いと思って聞いていた。慶應では、今も昔も福沢だけが「先生」で、あとはみんな、「君」で呼び合う対等な同志であるらしい。(→理念上は。それとも、実際に教員どうしは「先生」って呼び合わないのかな?)
そのほか、高橋先生の講演では、明治期の東京帝国大学で漢学を講じた根本通明(かなりエキセントリック!)の話、朱子学と古学の対立を超えて江戸期儒学を集大成した安井息軒の話(しかし、そのことが以後の儒学をつまらなくした)に加えて、福沢の「学問のススメ」の版木が、まだ慶應義塾図書館の階段の下に眠っている、などのこぼれ話も興味深かった。
展示品では、「最近、発見されたばかり」という天文版論語の初刷本が見もの。この版木は、堺の南宗寺(なんしゅうじ)に伝わり、明治大正の頃まで(とおっしゃったような)使われていたらしい。戦争で焼けて、今日には伝わっていないそうだが、版木の寿命って長いんだな~。なお、天文版に継いで古い、正平版論語の版木は東博に現存するそうだ。
いちばん驚いたのは、室町期以前のおびただしい写本の存在である。「論語の世界」と聞いたとき、私は反射的に、刊本ばかりが並んだ図を思い描いていた。これが本場中国の「漢籍」に限った展覧会なら、当然、そうなるだろう。しかし、日本においては、中世までは、論語といえども写本で伝えられてきたということを、あらためて認識した。
蛇足。この展示会は「慶應義塾図書館」と「斯道文庫」の蔵書で構成されていることになっているけど、「高橋智蔵」の蔵書印が混じっているのを見つけてしまった。あれは高橋先生の個人蔵では?(笑)
蛇足その2。斯道文庫は、麻生セメント社長の麻生太賀吉が、東洋の精神文化を研究するために設立した研究所を前身とするのだそうだ。初めて知った。息子の麻生太郎外務大臣が、東アジア関係でトラブっているようでは、お父さん、泣いてないか...
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会期の短い展覧会なので、取り急ぎ、書いておこう。慶應義塾図書館が所蔵する貴重図書を、丸善のギャラリーで展示する展覧会である。「論語」の、日本で最も古い写本(鎌倉時代)と最も古い刊本(天文版)を含む70点余りの資料を見ることができる。会場はさほど広くないが、なかなか見応えがある。初日に、斯道文庫(しどうぶんこ)の高橋智先生の講演「慶應義塾の論語蒐集について」を聴いてきた。
論語は、もちろん日本人に最もよく知られた中国の古典である。しかし、各地の図書館や文庫の蔵書を調べてみると、残っている善本は意外に少ない。それは、論語があまりにもありふれた書物だったので、あえて善本を求めようという愛書家が少なかったためであろう。そんな中で、慶應の論語コレクションは、突出した水準を誇る。今回の展覧会では、全貌の10分の1も紹介できていない、と高橋先生は言う。
しかし、なぜ慶應に論語なのか? 講演に先立って、慶應義塾図書館の館長先生が演台に立ち、「皆さんは、なぜ慶應に論語なのか、と不思議に思われることでしょう」と述べ、「本日は、そのあたりをよく聞いていただきたい」という前振りをした。このとき、私は、ぼんやり感じていた疑問を明確に意識した。そうだ、福沢諭吉は「脱亜入欧」を唱えた洋学者ではなかったか。正月に読んだ松永昌三の『『福沢諭吉と中江兆民』でも、福沢は(兆民と違って)漢学嫌いで通していたはずだ。
高橋先生は言う。福沢先生は、形式に縛られた俗流儒者を嫌ったのであって、孔子の思想を否定していたわけではない。むしろ、福沢にしろ、勝海舟にしろ、明治維新を成し遂げた人々の思想的バックボーンには、正しく理解された「論語」の思想があった。慶應義塾図書館の論語コレクションには、福沢の弟子たちの旧蔵書が多く流れ込んでいる。「義塾」という名称も、「ただで学べる塾」の意味で、中国に由来するものだ。だから、福沢と慶應社中の人々の思想は、東洋文明を排除するものではない。
上記の説明の是非はともかくとして、私は、若い高橋先生が、さかんに「福沢先生」という表現を使うのを面白いと思って聞いていた。慶應では、今も昔も福沢だけが「先生」で、あとはみんな、「君」で呼び合う対等な同志であるらしい。(→理念上は。それとも、実際に教員どうしは「先生」って呼び合わないのかな?)
そのほか、高橋先生の講演では、明治期の東京帝国大学で漢学を講じた根本通明(かなりエキセントリック!)の話、朱子学と古学の対立を超えて江戸期儒学を集大成した安井息軒の話(しかし、そのことが以後の儒学をつまらなくした)に加えて、福沢の「学問のススメ」の版木が、まだ慶應義塾図書館の階段の下に眠っている、などのこぼれ話も興味深かった。
展示品では、「最近、発見されたばかり」という天文版論語の初刷本が見もの。この版木は、堺の南宗寺(なんしゅうじ)に伝わり、明治大正の頃まで(とおっしゃったような)使われていたらしい。戦争で焼けて、今日には伝わっていないそうだが、版木の寿命って長いんだな~。なお、天文版に継いで古い、正平版論語の版木は東博に現存するそうだ。
いちばん驚いたのは、室町期以前のおびただしい写本の存在である。「論語の世界」と聞いたとき、私は反射的に、刊本ばかりが並んだ図を思い描いていた。これが本場中国の「漢籍」に限った展覧会なら、当然、そうなるだろう。しかし、日本においては、中世までは、論語といえども写本で伝えられてきたということを、あらためて認識した。
蛇足。この展示会は「慶應義塾図書館」と「斯道文庫」の蔵書で構成されていることになっているけど、「高橋智蔵」の蔵書印が混じっているのを見つけてしまった。あれは高橋先生の個人蔵では?(笑)
蛇足その2。斯道文庫は、麻生セメント社長の麻生太賀吉が、東洋の精神文化を研究するために設立した研究所を前身とするのだそうだ。初めて知った。息子の麻生太郎外務大臣が、東アジア関係でトラブっているようでは、お父さん、泣いてないか...