○石光真人編著『ある明治人の記録:会津人柴五朗の遺書』(中公新書) 中央公論新社 1971.5
柴五朗は安政6年(1859)生まれ。少年時代、会津戦争で肉親を失い、流浪、下僕生活の辛酸を嘗め、のち軍界に入って、陸軍大将、軍事参議官まで栄達した。義和団事件の折、北京駐在武官として活躍したことでも有名である。というような、ひととおりの履歴は、読む前から知っていた。しかし、私は、もっとルポルタージュ色の強い本だと思っていたので、本書の大半が、実際に柴五朗本人によって綴られた「遺書」であることに、驚いてしまった。
編者によれば、本書の刊行経緯は、以下のとおりである。昭和17年、旧知の柴五朗翁を訪ねた編者は、翁から、半紙に毛筆で細々と書かれた原稿を手渡され、添削の依頼を受けた。その内容にショックを受けた編者は、筆写を乞うて許された。その後、翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺に預けて門外不出とし、昭和20年12月、87歳で永眠された。
つまり、この「遺書」は、元来、亡き肉親に手向けるために書かれた個人的な覚え書きで、それ以外の読者を想定した著作ではない。そのためか、文体は、率直平明で、「齢既に八十を超えたり」と書き出されているにもかかわらず、目の前で十代の少年が語っているような、みずみずしい感情にあふれている。薩摩の非道に対する深い怨念、下僕生活で受けた辱めと憤り、恩人への感謝、とりわけ、亡き母に寄せる純情な思慕は、読む者の胸を打つ。
「遺書」は、短くも幸福な幼年期の記憶に始まる。数え年10歳のとき、会津戦争に遭い、祖母、母、姉妹は自害。男子は一人たりとも生きながらえよ、という賢母の配慮によって脱出させられたが、「わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは」と自分を責め、悔やむ。俘虜として東京に移送され、下僕生活。続いて、極寒の下北半島に移封させられ、飢餓と凍死と戦い続ける。たまたま犬肉を手に入れたが、あまりの不味さに吐き出そうとして、父親に「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ」と叱咤される。こうして、息を呑むような悲惨な物語が、まるで昨日のことを語るような、迫真の描写とともに続く。
15歳で陸軍幼年生徒隊に入学した著者は、西南戦争の余波で、士官学校に繰り上げ入学となる。明治10年、西郷隆盛の自刃、翌年、大久保利通の暗殺の報を聞き、「当然の帰結なり」と喜ぶところで回想は終わる。会津戦争の犠牲となった肉親を弔うことを意図した文章としては、よい区切りと思ったのであろう。ときに著者は19歳。「会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ」という父の言葉を胸に過ごした少年期の終わりを以て「遺書」は閉じられる。
本書は、陸軍幼年生徒隊の生活については、ごくわずかしか触れていない。しかし、乞食小屋で犬肉を食い、みの虫のように蓆(むしろ)にくるまって眠る生活から、一転、洋服を着て洋食を食べ、フランス人教官から、作文、地理、歴史、数学に至るまで、フランス語で教育を受けたというのだから、すごい境遇の変化だったろうと思う。同期には大学南校からの転入者など、すでにフランス語を解する者もいた。入学以前に勉学の機会にめぐまれなかった著者の成績は、最下等だったらしい。それでも成績は「試験ごとに上昇」したというのだから、詳しくは記されていないけれど、どれだけ必死に勉強したか、思いやられる。
ここで思い出すのは、橋川文三の『ナショナリズム』が述べていた、近代日本の「ネーション形成の固有の表現」すなわち、身分上昇のエネルギーに支えられた人々を、立身出世のコースに移行させ、きびしい専制のもとに教化・統合してゆくというセオリーである。確かに、著者・柴五朗のケースも、このセオリーに当てはまる。
ただ、注意すべきは、この「立身出世」というのが、後世からイメージする、農民が嫌だから武士身分になりたい、というような中途半端なものではない、ということだ。著者は「東京に縁者あり」と偽って青森を出てきたものも、親戚知人はみな困窮していて、誰も著者の身元など引き受けてくれない。自活の途を求めて、活版所の文選工に応募したり、蹄鉄工に応募したりして、失敗している。いよいよ万策尽きたとき、幸いにも陸軍幼年生徒隊の募集を知るのだ。路頭に迷うか否か、餓死と背中合わせの乞食生活に戻るか否か、という、ギリギリの選択において、著者は、入学試験に合格する。必死で勉強したのも、学校を追い出されれば、もはや行くところがない、という気持ちがあったのではないか。つくづく、明治というのは過酷な時代だったんだなあと思う。
また、最晩年の翁が、「フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです」と言って、編者に「遺書」の添削を願い出たことにも、明治人の運命を思って、しみじみと感慨深いものがある。
最後になるが、先般、星亮一『<会津戦争全史』の感想をUPしたとき、本書を紹介してくれた散歩の変人さんに感謝。
柴五朗は安政6年(1859)生まれ。少年時代、会津戦争で肉親を失い、流浪、下僕生活の辛酸を嘗め、のち軍界に入って、陸軍大将、軍事参議官まで栄達した。義和団事件の折、北京駐在武官として活躍したことでも有名である。というような、ひととおりの履歴は、読む前から知っていた。しかし、私は、もっとルポルタージュ色の強い本だと思っていたので、本書の大半が、実際に柴五朗本人によって綴られた「遺書」であることに、驚いてしまった。
編者によれば、本書の刊行経緯は、以下のとおりである。昭和17年、旧知の柴五朗翁を訪ねた編者は、翁から、半紙に毛筆で細々と書かれた原稿を手渡され、添削の依頼を受けた。その内容にショックを受けた編者は、筆写を乞うて許された。その後、翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺に預けて門外不出とし、昭和20年12月、87歳で永眠された。
つまり、この「遺書」は、元来、亡き肉親に手向けるために書かれた個人的な覚え書きで、それ以外の読者を想定した著作ではない。そのためか、文体は、率直平明で、「齢既に八十を超えたり」と書き出されているにもかかわらず、目の前で十代の少年が語っているような、みずみずしい感情にあふれている。薩摩の非道に対する深い怨念、下僕生活で受けた辱めと憤り、恩人への感謝、とりわけ、亡き母に寄せる純情な思慕は、読む者の胸を打つ。
「遺書」は、短くも幸福な幼年期の記憶に始まる。数え年10歳のとき、会津戦争に遭い、祖母、母、姉妹は自害。男子は一人たりとも生きながらえよ、という賢母の配慮によって脱出させられたが、「わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは」と自分を責め、悔やむ。俘虜として東京に移送され、下僕生活。続いて、極寒の下北半島に移封させられ、飢餓と凍死と戦い続ける。たまたま犬肉を手に入れたが、あまりの不味さに吐き出そうとして、父親に「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ」と叱咤される。こうして、息を呑むような悲惨な物語が、まるで昨日のことを語るような、迫真の描写とともに続く。
15歳で陸軍幼年生徒隊に入学した著者は、西南戦争の余波で、士官学校に繰り上げ入学となる。明治10年、西郷隆盛の自刃、翌年、大久保利通の暗殺の報を聞き、「当然の帰結なり」と喜ぶところで回想は終わる。会津戦争の犠牲となった肉親を弔うことを意図した文章としては、よい区切りと思ったのであろう。ときに著者は19歳。「会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ」という父の言葉を胸に過ごした少年期の終わりを以て「遺書」は閉じられる。
本書は、陸軍幼年生徒隊の生活については、ごくわずかしか触れていない。しかし、乞食小屋で犬肉を食い、みの虫のように蓆(むしろ)にくるまって眠る生活から、一転、洋服を着て洋食を食べ、フランス人教官から、作文、地理、歴史、数学に至るまで、フランス語で教育を受けたというのだから、すごい境遇の変化だったろうと思う。同期には大学南校からの転入者など、すでにフランス語を解する者もいた。入学以前に勉学の機会にめぐまれなかった著者の成績は、最下等だったらしい。それでも成績は「試験ごとに上昇」したというのだから、詳しくは記されていないけれど、どれだけ必死に勉強したか、思いやられる。
ここで思い出すのは、橋川文三の『ナショナリズム』が述べていた、近代日本の「ネーション形成の固有の表現」すなわち、身分上昇のエネルギーに支えられた人々を、立身出世のコースに移行させ、きびしい専制のもとに教化・統合してゆくというセオリーである。確かに、著者・柴五朗のケースも、このセオリーに当てはまる。
ただ、注意すべきは、この「立身出世」というのが、後世からイメージする、農民が嫌だから武士身分になりたい、というような中途半端なものではない、ということだ。著者は「東京に縁者あり」と偽って青森を出てきたものも、親戚知人はみな困窮していて、誰も著者の身元など引き受けてくれない。自活の途を求めて、活版所の文選工に応募したり、蹄鉄工に応募したりして、失敗している。いよいよ万策尽きたとき、幸いにも陸軍幼年生徒隊の募集を知るのだ。路頭に迷うか否か、餓死と背中合わせの乞食生活に戻るか否か、という、ギリギリの選択において、著者は、入学試験に合格する。必死で勉強したのも、学校を追い出されれば、もはや行くところがない、という気持ちがあったのではないか。つくづく、明治というのは過酷な時代だったんだなあと思う。
また、最晩年の翁が、「フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです」と言って、編者に「遺書」の添削を願い出たことにも、明治人の運命を思って、しみじみと感慨深いものがある。
最後になるが、先般、星亮一『<会津戦争全史』の感想をUPしたとき、本書を紹介してくれた散歩の変人さんに感謝。