○五味文彦『義経記』(物語の舞台を歩く 10) 山川出版社 2005.7
歴史教科書で有名な山川出版社による「物語の舞台を歩く」というシリーズの1冊。妙に活字のポイントが大きいのは、老眼に悩む中高年読者を狙っているからかもしれない。しかし、活字の大きい本にありがちな、スカスカした内容ではなくて、私の知らなかったことも書かれていたし、きちんと読み応えがあった。そこは五味文彦先生である。
構成は『義経記』に従い、つまり源義経の人生をなぞっていく。出生・成長の場であった京都周辺。迷いながら尋ねあてた伝・源為義の墓が懐かしかった。義朝の乳母子・鎌田正清(政清)の子・正近が、四条聖と呼ばれて、四条室町に住んでいたというのは知らなかった。『義経記』だけの伝承なのだろうか。
奥州に下った義経が再び上洛して、一条堀河の鬼一法眼から兵法書を盗み出すというのも『義経記』の創作。鬼一法眼は北白河に住む「印地の大将」湛海に命じて、義経を斬らせようとする。面白いなあ。銀閣寺のそばにある北白川天満宮にはぜひ行ってみたい。天満宮と言っても、菅原道真でなく、少彦名命を祀る古い神社である。
さて、武蔵坊弁慶の物語を求めて、熊野、比叡山、書写山、京の清水寺をめぐる。余談になるが、筆者は梁塵秘抄の歌に「淡路はあな尊 北には播磨の書写を目守(まも)らへて」とあるのを確かめようと書写山に登り、実際に淡路島が見えたことに感動して、思わず梁塵秘抄の歌を「うたってしまった」という。こういう、文献上の研究に終わらない、ライブ感覚のある歴史学者は大好きだ。弁慶と義経の決闘の場を五条大橋としたのは『弁慶物語』(御伽草子)で、中世の賀茂川には、四条橋と五条橋の二つの橋がかかっていたという。『洛中洛外図屏風』によれば、五条橋は中島が間にあって二つの橋からなり、中島には安倍晴明の流れをくむ陰陽師が法成寺を立てて根拠としており(雍州府志)、その寺は三条橋東詰めに移されて、心光寺と称している。以上、長々と引用したのは、いつか現地も典拠資料も調べてみたいため。
治承4年、兄・頼朝の挙兵。頼朝の足跡は、伊豆、相模、房総半島にあるというイメージだったが、房総半島を北上しながら「墨田渡」に至る。白髭神社の北にある石浜神社のあたりが中世の渡だという。のちに頼朝が鶴岡八幡宮を造営するとき、浅草の大工を召したという記録もあり、徳川氏が本拠を置く以前の江戸も、俗に言われるような、ただの野っ原だったわけではないのだな、と思った。
兄との対面を果たした義経は再び京へ。義経の邸宅は六条堀川とされる。源頼義の邸宅跡に頼朝が創建した若宮八幡宮の写真が懐かしい。その北側一帯が後白河法皇の院御所(六条殿)で、持仏堂の長講堂は、いまは六条通の突当りに移転してしまっている。そして義経の逃避行が始まるが、文楽でおなじみ、摂津の大物浦は尼崎市なのか。今日では、かなり内陸になってしまっている。義経を助けた人々は、次々に捕えられる。藤原忠信の首は鎌倉に運ばれ、由比浜の八幡の鳥居に掛けられたが(うわあ)、のち勝長寿院の後ろに埋められた。あ、初詣の習慣は、頼朝が元旦に鶴岡八幡宮に詣でるようになってからのもの、というのも覚えておこう。
しばし京都に隠れ住んでいた義経は、北陸道から奥州へ。衣川で最期を迎える。あくまで『義経記』に即した解説本だから、さらに北へ向かう義経伝説には触れない。それにしても中世人の足跡は、現代人の標準を軽々と超えて広範囲である。
歴史教科書で有名な山川出版社による「物語の舞台を歩く」というシリーズの1冊。妙に活字のポイントが大きいのは、老眼に悩む中高年読者を狙っているからかもしれない。しかし、活字の大きい本にありがちな、スカスカした内容ではなくて、私の知らなかったことも書かれていたし、きちんと読み応えがあった。そこは五味文彦先生である。
構成は『義経記』に従い、つまり源義経の人生をなぞっていく。出生・成長の場であった京都周辺。迷いながら尋ねあてた伝・源為義の墓が懐かしかった。義朝の乳母子・鎌田正清(政清)の子・正近が、四条聖と呼ばれて、四条室町に住んでいたというのは知らなかった。『義経記』だけの伝承なのだろうか。
奥州に下った義経が再び上洛して、一条堀河の鬼一法眼から兵法書を盗み出すというのも『義経記』の創作。鬼一法眼は北白河に住む「印地の大将」湛海に命じて、義経を斬らせようとする。面白いなあ。銀閣寺のそばにある北白川天満宮にはぜひ行ってみたい。天満宮と言っても、菅原道真でなく、少彦名命を祀る古い神社である。
さて、武蔵坊弁慶の物語を求めて、熊野、比叡山、書写山、京の清水寺をめぐる。余談になるが、筆者は梁塵秘抄の歌に「淡路はあな尊 北には播磨の書写を目守(まも)らへて」とあるのを確かめようと書写山に登り、実際に淡路島が見えたことに感動して、思わず梁塵秘抄の歌を「うたってしまった」という。こういう、文献上の研究に終わらない、ライブ感覚のある歴史学者は大好きだ。弁慶と義経の決闘の場を五条大橋としたのは『弁慶物語』(御伽草子)で、中世の賀茂川には、四条橋と五条橋の二つの橋がかかっていたという。『洛中洛外図屏風』によれば、五条橋は中島が間にあって二つの橋からなり、中島には安倍晴明の流れをくむ陰陽師が法成寺を立てて根拠としており(雍州府志)、その寺は三条橋東詰めに移されて、心光寺と称している。以上、長々と引用したのは、いつか現地も典拠資料も調べてみたいため。
治承4年、兄・頼朝の挙兵。頼朝の足跡は、伊豆、相模、房総半島にあるというイメージだったが、房総半島を北上しながら「墨田渡」に至る。白髭神社の北にある石浜神社のあたりが中世の渡だという。のちに頼朝が鶴岡八幡宮を造営するとき、浅草の大工を召したという記録もあり、徳川氏が本拠を置く以前の江戸も、俗に言われるような、ただの野っ原だったわけではないのだな、と思った。
兄との対面を果たした義経は再び京へ。義経の邸宅は六条堀川とされる。源頼義の邸宅跡に頼朝が創建した若宮八幡宮の写真が懐かしい。その北側一帯が後白河法皇の院御所(六条殿)で、持仏堂の長講堂は、いまは六条通の突当りに移転してしまっている。そして義経の逃避行が始まるが、文楽でおなじみ、摂津の大物浦は尼崎市なのか。今日では、かなり内陸になってしまっている。義経を助けた人々は、次々に捕えられる。藤原忠信の首は鎌倉に運ばれ、由比浜の八幡の鳥居に掛けられたが(うわあ)、のち勝長寿院の後ろに埋められた。あ、初詣の習慣は、頼朝が元旦に鶴岡八幡宮に詣でるようになってからのもの、というのも覚えておこう。
しばし京都に隠れ住んでいた義経は、北陸道から奥州へ。衣川で最期を迎える。あくまで『義経記』に即した解説本だから、さらに北へ向かう義経伝説には触れない。それにしても中世人の足跡は、現代人の標準を軽々と超えて広範囲である。