見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

西へ東へ、また京へ/物語の舞台を歩く・義経記(五味文彦)

2013-10-03 23:19:06 | 読んだもの(書籍)
○五味文彦『義経記』(物語の舞台を歩く 10) 山川出版社 2005.7

 歴史教科書で有名な山川出版社による「物語の舞台を歩く」というシリーズの1冊。妙に活字のポイントが大きいのは、老眼に悩む中高年読者を狙っているからかもしれない。しかし、活字の大きい本にありがちな、スカスカした内容ではなくて、私の知らなかったことも書かれていたし、きちんと読み応えがあった。そこは五味文彦先生である。

 構成は『義経記』に従い、つまり源義経の人生をなぞっていく。出生・成長の場であった京都周辺。迷いながら尋ねあてた伝・源為義の墓が懐かしかった。義朝の乳母子・鎌田正清(政清)の子・正近が、四条聖と呼ばれて、四条室町に住んでいたというのは知らなかった。『義経記』だけの伝承なのだろうか。

 奥州に下った義経が再び上洛して、一条堀河の鬼一法眼から兵法書を盗み出すというのも『義経記』の創作。鬼一法眼は北白河に住む「印地の大将」湛海に命じて、義経を斬らせようとする。面白いなあ。銀閣寺のそばにある北白川天満宮にはぜひ行ってみたい。天満宮と言っても、菅原道真でなく、少彦名命を祀る古い神社である。

 さて、武蔵坊弁慶の物語を求めて、熊野、比叡山、書写山、京の清水寺をめぐる。余談になるが、筆者は梁塵秘抄の歌に「淡路はあな尊 北には播磨の書写を目守(まも)らへて」とあるのを確かめようと書写山に登り、実際に淡路島が見えたことに感動して、思わず梁塵秘抄の歌を「うたってしまった」という。こういう、文献上の研究に終わらない、ライブ感覚のある歴史学者は大好きだ。弁慶と義経の決闘の場を五条大橋としたのは『弁慶物語』(御伽草子)で、中世の賀茂川には、四条橋と五条橋の二つの橋がかかっていたという。『洛中洛外図屏風』によれば、五条橋は中島が間にあって二つの橋からなり、中島には安倍晴明の流れをくむ陰陽師が法成寺を立てて根拠としており(雍州府志)、その寺は三条橋東詰めに移されて、心光寺と称している。以上、長々と引用したのは、いつか現地も典拠資料も調べてみたいため。

 治承4年、兄・頼朝の挙兵。頼朝の足跡は、伊豆、相模、房総半島にあるというイメージだったが、房総半島を北上しながら「墨田渡」に至る。白髭神社の北にある石浜神社のあたりが中世の渡だという。のちに頼朝が鶴岡八幡宮を造営するとき、浅草の大工を召したという記録もあり、徳川氏が本拠を置く以前の江戸も、俗に言われるような、ただの野っ原だったわけではないのだな、と思った。

 兄との対面を果たした義経は再び京へ。義経の邸宅は六条堀川とされる。源頼義の邸宅跡に頼朝が創建した若宮八幡宮の写真が懐かしい。その北側一帯が後白河法皇の院御所(六条殿)で、持仏堂の長講堂は、いまは六条通の突当りに移転してしまっている。そして義経の逃避行が始まるが、文楽でおなじみ、摂津の大物浦は尼崎市なのか。今日では、かなり内陸になってしまっている。義経を助けた人々は、次々に捕えられる。藤原忠信の首は鎌倉に運ばれ、由比浜の八幡の鳥居に掛けられたが(うわあ)、のち勝長寿院の後ろに埋められた。あ、初詣の習慣は、頼朝が元旦に鶴岡八幡宮に詣でるようになってからのもの、というのも覚えておこう。

 しばし京都に隠れ住んでいた義経は、北陸道から奥州へ。衣川で最期を迎える。あくまで『義経記』に即した解説本だから、さらに北へ向かう義経伝説には触れない。それにしても中世人の足跡は、現代人の標準を軽々と超えて広範囲である。
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2013年9月・東京の展覧会拾遺

2013-10-03 00:16:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
関西レポートを書き終わったので、9月最初の三連休に行った東京の展覧会について書いておく。

センチュリーミュージアム 『中世の日本美術』(2013年8月19日~11月30日)

 書跡が充実していて、「和様」と「唐様」を比べることができるのが面白かった。中世というのが、そういう時代なのかもしれない。気に入った作品は、室町時代の僧侶、愚極礼才の大字の屏風。長谷寺縁起絵巻(素朴絵っぽい)の断簡。伏見天皇宸筆の「広沢切」は、薄墨色の宿紙(綸旨に用いられる)に書写された珍しいもの。伏見天皇ご自身が「御座所身辺のありあわせの紙を卒然と使用したさまがうかがえ」という解説に感興を誘われる。

五島美術館 『秋の優品展-禅宗の美』(2013年9月13日~10月20日)

 9月16日に参観。台風接近のため、朝のテレビは「外出はお控えください」という呼びかけを繰り返していた。しかし、旅行者の身では、ホテルをチェックアウトしてしまうと引きこもる先もないので、予定どおり展覧会巡りに出かけてみた。五島美術館はフツーに開いていたが、私のほかに観客はいなかった。外の樹木が強風でゴウゴウ唸っているのを聴きながら『寒山図』(風吹き寒山)を眺めるのは、なかなか乙だった。この図、舞い散る葉っぱなどは描かれていなくて、吹き上げられた衣だけで風を表している。白隠の『猿図』は可愛かったなあ。鼻の下を伸ばした猿の顔! 長い腕とは対照的に、短く縮めた足! 白隠の『鐘馗図』の賛には、謡曲「鐘馗」の一節が引かれている。鐘馗は菩提心を発起し、国土を守る存在となったという。謡曲の常識がないと、絵画って十分に理解できないなあ。

 書跡は、まず一山一寧が好き。全体に統一が取れた草書で「和様」だと思う。南宋の希叟紹曇や元の馮子振は、中国人の書だ。偏見かもしれないけど、一字一字がなんとなくバラバラ。いや、そこが魅力でもある。小さくまとまりやすい日本人には、なかなか書けない書風だと思う。今回は版本も多く出ていて、面白かった。しかし補刻とか覆刻とか再刊とか、版本の年代判定はややこしい。1時間ほど館内にいたが、結局、最後まで私ひとりだったので、帰りに受付の方に「独り占めでしたね」と声をかけられ、笑って「はい」と答えた。

泉屋博古館・分館(東京) 特別展『「図変わり」大皿の世界 伊万里 染付の美』(2013年9月14日~12月8日)

 いよいよ風が強くなってきた昼過ぎ、入館時に「警報が発令された場合は臨時休館となります」と注意された。館内には、私のほかに男性の先客がひとり。会場内の解説によれば、19世紀後半につくられた伊万里の染付大皿は「庶民の雑器」とみなされ、あまり評価されてこなかった。本展は、その魅力に気づいた個人蒐集家のコレクションから115点を紹介するもの。会場には、確か蒐集家のお名前も掲げてあったはずなのに、なぜか泉屋博古館のホームページにはお名前がなく、会場でもらってきた展示品リストにも記載がない。いまネットで調べて、たぶん瀬川竹生さんだろうと分かったが、なぜ記載がないのか、気になる。

 でも面白かった。「素朴絵」につながる魅力だ。『染付十二支文大皿』(前期のみ展示)の呆然と目をむく下手くそさ。『染付赤壁文大皿』(数種あり)の子供が描いたような船の図も。「群鹿文様」とか「群馬文様」とか、文字通りなのだが、こんな図柄の上にどんな料理を置くのだろうか、と可笑しくなる。「大明成化年製」というのが、ほとんどお札の呪文のように記載されているのも面白いと思った。

江戸東京博物館 開館20周年記念特別展『明治のこころ-モースが見た庶民のくらし-』(2013年9月14日~12月8日)

 泉屋博古館を出て、地下鉄→JRを乗り継いで、江戸東京博物館に行こうと思ったら、総武線の下りがお茶の水で止まっていた。なんと、どうすればいい? しばし路線図を見て考え、地下鉄の大江戸線に乗り継いで両国に出た。本展は、大森貝塚の発見者として知られるアメリカの動物学者エドワード・モースが、日本から祖国に持ち帰った「モース・コレクション」320点を、ピーボディー・エセックス博物館とボストン美術館の協力を得て紹介する。この展覧会、もっと話題になっていいと思うのに。

 「モース・コレクション」には、さまざまな(むしろ、ありとあらゆる!)明治の日本の生活道具が含まれていることは噂に聞いていたが、面白かった。下駄、腰巻、紅皿、お歯黒道具。砂糖菓子、海苔、かつお節、本郷藤村の金平糖(の箱)。箱枕は、使ってみたら快適だったと書いてあった。真っ黒になった子供の手習い帳、迷子札、火打がね。さまざまな看板。意外だったのは、モノだけでなく、写真も多数残っていること。モースが日本陶器のコレクターでもあったこと(あまり趣味がいいようには思えない)。あらためて『日本その日その日』が読んでみたくなった。
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