○中島岳志『血盟団事件』 文藝春秋 2013.8
たぶん日本史の教科書にも載らない「血盟団事件」なるものを私が知ったのは、立花隆の『天皇と東大』が最初ではないかと思う。それから、竹内洋さんの大学史研究、特に戦前の国家主義もしくは日本主義と呼ばれる学生思想運動史をめぐる著作にも出てきたかもしれない。いずれにせよ、「帝国大学の学生がかかわった右翼テロ」という文脈で、私はこの事件を理解していた。帝国大学に入れるだけの知性を持ちながら、右翼テロに加担した学生たちは愚かだと思っていたし、血盟団の首魁・井上日召については、前途ある帝国大学生をまどわせた妖僧というイメージがあった。
それが、著者の『帝都の事件を歩く』を読んだあたりから、真相は別のとろにあるらしいことに、もやもやと気づき始めて、本書を心待ちにしていた。本書は、短い序章のあと、血盟団の指導者として若者たちに仰がれ、彼らに「一人一殺」を命じた井上日召(1886-1967)という人物の生い立ちから始まる。著者は感想や批評めいた言葉をほとんど挟まず、もっぱら資料(公判記録等)の引用に語らせている。
そこに立ち現れる日召の姿は、驚くほど真面目で純粋だ。自分は何者か?という根源的な問いを抱えて、宗教を渡り歩いた青年時代。神秘体験を経て、法華信者としての自己を確立する。世界恐慌の中、貧困に苦しむ農民たちのために泣き、私利私欲を貪る指導階級に憤る。そして、日蓮のように闘い、国家革新運動に殉じることこそ天命と信じるに至る。
やがて、日召のもとには、彼より二十歳ほど年少の若者たちが集まってくる。著者は彼らを「大洗グループ」「東京帝大グループ」「京都グループ」等に分けている。血盟団の中心メンバーは「大洗グループ」で、小学校の教員や、大工の徒弟、工員、販売員などの職を転々としている農村青年たちだった。彼らは、農村の疲弊、庶民の生活苦、格差社会、政党政治の無策などを肌身で体験していた。
1930年(昭和5年)11月の浜口雄幸狙撃事件を機に、いよいよ革命を実行に移すべく、大洗グループは上京。日召のもとには、東京帝大グループ、海軍グループなど、本来交わるはずのない煩悶青年たちが吸い寄せられてくる。帝大生や海軍将校などエリート青年の背後には、安岡正篤、大川周明、北一輝、権藤成卿などのビッグネームが見え隠れする。しかし、日召は権力の掌握にも、新たな国家経営にも関心を持たず、ただ「破壊」のみを志し、青年たちに国家改造の「捨て石」になることを求めた。日召が真に信頼できたのは、大洗の農村青年たちだけだった。
そして、1932年(昭和7年)2月、小沼正による井上準之助の暗殺。3月、菱沼五郎による団琢磨の暗殺。ここに至って、本書はほとんど紙数が尽きる。純朴な農村青年たちが凶行に至るまでの長い長い曲折に比べると、嘘のように慌ただしく事件は起き、一斉逮捕をもって幕を閉じる。実際に彼らの多くは、恩赦等によって、長い後半生を生きることになるのだが。
深く印象に残るのは、彼らの可憐なほどの純粋さである。格差と貧困に追い込まれた末の凶行ということで、「現代と変わらない」「現代にも通底する問題」という表現で、血盟団事件を語る書評をいくつか読んだ。しかし、現代の多くの事件には、「得をしている誰か」と「損をしている自分」の比較に苛立つ自己愛が噴出していると思う。大洗の青年たちのように「捨て石になる」という覚悟に基づく事件は、いま私には思い当らない。
彼らが聖人だったというつもりはない。著者は冒頭の短い序章に、井上日召の娘と会った体験を記し、民衆の救済を志しながら、妻と娘を貧困の中に置き捨てて、神楽坂の芸者を妾にした日召の姿を描いている。あたかも読者に釘をさすように。
そして、やっぱり思い起こすのは、1995年のオウム真理教事件である。私の知る同時代史では、あれこそ最も純粋に「破壊」のための凶行だった気がする。オウム教団をどう片づければいいのか、いまだに分からないのと同様に、この血盟団事件も、簡単な善悪だけでは片づかない事件だなと感じた。
帝大生の四元義隆だったと思うが(今その箇所が探せない)、井上日召と大洗の青年たちの隔てなさをうらやましく思い、酒の席で和尚(日召)に抱きついてみた、というエピソードがあったと思う。むかし、オウム教団の幹部(高学歴青年)が、教祖・麻原彰晃の父性的な包容力の魅力を語っているのを読んだ記憶があるのを思い出した。時代が変わっても、疎外感に悩む青年の求めるものは似ているのかもしれない。
蛇足だが、血盟団メンバーが使っていた権藤成卿の別宅(空き家)が代々木上原にあったというのは初耳だった。私が、ずっと東京で住んでいたところの近くだ。当時の番地では「代々幡町代々木上原1186番地」らしい。いつか戻ることがあったら、痕跡を探してみたい。
たぶん日本史の教科書にも載らない「血盟団事件」なるものを私が知ったのは、立花隆の『天皇と東大』が最初ではないかと思う。それから、竹内洋さんの大学史研究、特に戦前の国家主義もしくは日本主義と呼ばれる学生思想運動史をめぐる著作にも出てきたかもしれない。いずれにせよ、「帝国大学の学生がかかわった右翼テロ」という文脈で、私はこの事件を理解していた。帝国大学に入れるだけの知性を持ちながら、右翼テロに加担した学生たちは愚かだと思っていたし、血盟団の首魁・井上日召については、前途ある帝国大学生をまどわせた妖僧というイメージがあった。
それが、著者の『帝都の事件を歩く』を読んだあたりから、真相は別のとろにあるらしいことに、もやもやと気づき始めて、本書を心待ちにしていた。本書は、短い序章のあと、血盟団の指導者として若者たちに仰がれ、彼らに「一人一殺」を命じた井上日召(1886-1967)という人物の生い立ちから始まる。著者は感想や批評めいた言葉をほとんど挟まず、もっぱら資料(公判記録等)の引用に語らせている。
そこに立ち現れる日召の姿は、驚くほど真面目で純粋だ。自分は何者か?という根源的な問いを抱えて、宗教を渡り歩いた青年時代。神秘体験を経て、法華信者としての自己を確立する。世界恐慌の中、貧困に苦しむ農民たちのために泣き、私利私欲を貪る指導階級に憤る。そして、日蓮のように闘い、国家革新運動に殉じることこそ天命と信じるに至る。
やがて、日召のもとには、彼より二十歳ほど年少の若者たちが集まってくる。著者は彼らを「大洗グループ」「東京帝大グループ」「京都グループ」等に分けている。血盟団の中心メンバーは「大洗グループ」で、小学校の教員や、大工の徒弟、工員、販売員などの職を転々としている農村青年たちだった。彼らは、農村の疲弊、庶民の生活苦、格差社会、政党政治の無策などを肌身で体験していた。
1930年(昭和5年)11月の浜口雄幸狙撃事件を機に、いよいよ革命を実行に移すべく、大洗グループは上京。日召のもとには、東京帝大グループ、海軍グループなど、本来交わるはずのない煩悶青年たちが吸い寄せられてくる。帝大生や海軍将校などエリート青年の背後には、安岡正篤、大川周明、北一輝、権藤成卿などのビッグネームが見え隠れする。しかし、日召は権力の掌握にも、新たな国家経営にも関心を持たず、ただ「破壊」のみを志し、青年たちに国家改造の「捨て石」になることを求めた。日召が真に信頼できたのは、大洗の農村青年たちだけだった。
そして、1932年(昭和7年)2月、小沼正による井上準之助の暗殺。3月、菱沼五郎による団琢磨の暗殺。ここに至って、本書はほとんど紙数が尽きる。純朴な農村青年たちが凶行に至るまでの長い長い曲折に比べると、嘘のように慌ただしく事件は起き、一斉逮捕をもって幕を閉じる。実際に彼らの多くは、恩赦等によって、長い後半生を生きることになるのだが。
深く印象に残るのは、彼らの可憐なほどの純粋さである。格差と貧困に追い込まれた末の凶行ということで、「現代と変わらない」「現代にも通底する問題」という表現で、血盟団事件を語る書評をいくつか読んだ。しかし、現代の多くの事件には、「得をしている誰か」と「損をしている自分」の比較に苛立つ自己愛が噴出していると思う。大洗の青年たちのように「捨て石になる」という覚悟に基づく事件は、いま私には思い当らない。
彼らが聖人だったというつもりはない。著者は冒頭の短い序章に、井上日召の娘と会った体験を記し、民衆の救済を志しながら、妻と娘を貧困の中に置き捨てて、神楽坂の芸者を妾にした日召の姿を描いている。あたかも読者に釘をさすように。
そして、やっぱり思い起こすのは、1995年のオウム真理教事件である。私の知る同時代史では、あれこそ最も純粋に「破壊」のための凶行だった気がする。オウム教団をどう片づければいいのか、いまだに分からないのと同様に、この血盟団事件も、簡単な善悪だけでは片づかない事件だなと感じた。
帝大生の四元義隆だったと思うが(今その箇所が探せない)、井上日召と大洗の青年たちの隔てなさをうらやましく思い、酒の席で和尚(日召)に抱きついてみた、というエピソードがあったと思う。むかし、オウム教団の幹部(高学歴青年)が、教祖・麻原彰晃の父性的な包容力の魅力を語っているのを読んだ記憶があるのを思い出した。時代が変わっても、疎外感に悩む青年の求めるものは似ているのかもしれない。
蛇足だが、血盟団メンバーが使っていた権藤成卿の別宅(空き家)が代々木上原にあったというのは初耳だった。私が、ずっと東京で住んでいたところの近くだ。当時の番地では「代々幡町代々木上原1186番地」らしい。いつか戻ることがあったら、痕跡を探してみたい。