○内田樹『街場の憂国論』 晶文社 2013.10
疲れているとき、内田樹さんのエッセイを読むと、いつも少し元気になる。未熟な若者、分からず屋の教師、勘違い政治家などに対して、どんなに厳しいことを言っていても、相手への敬意や信頼が根底にあるからだろう。著者のいう「呪いから身を逸らすための作法」の余得が読者に及ぶのだと思う。ただし、それは、相手が「ひと」である場合に限るようだ。本書は、日本という国家、顔の見えない「政治システム」を対象としているだけに、本物の危機感、あるいは絶望感に近いものがにじんでいて、重たかった。
「危機」の表象となっているのは、自民党安倍政権、日本維新の会。彼らと足並みをそろえる改憲派、排外的ナショナリスト、市場原理主義者、グローバル企業とその支持者たち。けれども、本書は、彼ら――浮足立って「改革だ、グレートリセットだ」とわめき散らす」とか、「とりあえず金が要るんだよ」という耳障りで雑駁な主張を繰り返すとか、「座して貧乏になるようなバカばかりの日本なんか、もうどうなっても知らない」と言い放つ人々(以上、たまたま目についた箇所の引用)と、派手な罵り合いをするための著作ではない。危機を乗り越えるために、どういう振る舞いが求められているかは、蟻の穴を塞ぐために黙って小石を拾うような「アンサング・ヒーロー」(顕彰されない英雄)という比喩が、いちばん分かりやすいのではないかと思う。
私が非常に感銘を受けたのは、著者が平川克美氏から勧められて読んだという、下村治著『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』という本だ。下村治は明治生まれの大蔵官僚で、池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした人だという。この紹介は、ちょっと警戒を誘うが、書いていることは、なかなかいい。下村は、経済の基本は「国民経済」であり、国民経済とは「この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きていくかという問題である」と喝破する。ううむ、新鮮だなあ。
このブログを書き始めて、いまや9年目。過去ログを見ればバレてしまうことだが、私はずっと国民国家を目の敵にしてきた。国民国家が解体に向かうのは、望ましいことだと思って来た。だがそれは、生まれた土地から出ていくことのできない多くの人々が、飢えてもいいということでは絶対にない。全国民を食わせるには、全国民に就業機会を与えなければならない。それには大量の雇用を引き受けれる(したがって、生産性が低い)産業が、産業構造の一部に必要なのだ。「勝てる産業」の育成だけに問題を単純化する自由貿易主義者なら、絶対に認めない理屈である。こういう経済学者の存在を知っただけでも、本書を読んだ価値はあると思った。
それから、今や手垢のついた日本語「情報リテラシー」についての内田流解釈。情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から意識的に目を逸らしているかをとりあえず意識化できる知性のことである。この定義でいくと、情報リテラシーはスキルの問題ではなく、知性の範疇に入ると思う。さらに情報リテラシーの習得は、個人の知的能力だけで達成できるものでなく、必ず「公共的な言論の場」が必要であるという。これも刺激的な卓見。一方、「情報難民」とは、自分が所有している情報の吟味を請う言論の場から切り離されてしまった人々のことだ。この指摘、自分の仕事とも関連して、いろいろ考えさせられる点が多い。
疲れているとき、内田樹さんのエッセイを読むと、いつも少し元気になる。未熟な若者、分からず屋の教師、勘違い政治家などに対して、どんなに厳しいことを言っていても、相手への敬意や信頼が根底にあるからだろう。著者のいう「呪いから身を逸らすための作法」の余得が読者に及ぶのだと思う。ただし、それは、相手が「ひと」である場合に限るようだ。本書は、日本という国家、顔の見えない「政治システム」を対象としているだけに、本物の危機感、あるいは絶望感に近いものがにじんでいて、重たかった。
「危機」の表象となっているのは、自民党安倍政権、日本維新の会。彼らと足並みをそろえる改憲派、排外的ナショナリスト、市場原理主義者、グローバル企業とその支持者たち。けれども、本書は、彼ら――浮足立って「改革だ、グレートリセットだ」とわめき散らす」とか、「とりあえず金が要るんだよ」という耳障りで雑駁な主張を繰り返すとか、「座して貧乏になるようなバカばかりの日本なんか、もうどうなっても知らない」と言い放つ人々(以上、たまたま目についた箇所の引用)と、派手な罵り合いをするための著作ではない。危機を乗り越えるために、どういう振る舞いが求められているかは、蟻の穴を塞ぐために黙って小石を拾うような「アンサング・ヒーロー」(顕彰されない英雄)という比喩が、いちばん分かりやすいのではないかと思う。
私が非常に感銘を受けたのは、著者が平川克美氏から勧められて読んだという、下村治著『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』という本だ。下村治は明治生まれの大蔵官僚で、池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした人だという。この紹介は、ちょっと警戒を誘うが、書いていることは、なかなかいい。下村は、経済の基本は「国民経済」であり、国民経済とは「この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きていくかという問題である」と喝破する。ううむ、新鮮だなあ。
このブログを書き始めて、いまや9年目。過去ログを見ればバレてしまうことだが、私はずっと国民国家を目の敵にしてきた。国民国家が解体に向かうのは、望ましいことだと思って来た。だがそれは、生まれた土地から出ていくことのできない多くの人々が、飢えてもいいということでは絶対にない。全国民を食わせるには、全国民に就業機会を与えなければならない。それには大量の雇用を引き受けれる(したがって、生産性が低い)産業が、産業構造の一部に必要なのだ。「勝てる産業」の育成だけに問題を単純化する自由貿易主義者なら、絶対に認めない理屈である。こういう経済学者の存在を知っただけでも、本書を読んだ価値はあると思った。
それから、今や手垢のついた日本語「情報リテラシー」についての内田流解釈。情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から意識的に目を逸らしているかをとりあえず意識化できる知性のことである。この定義でいくと、情報リテラシーはスキルの問題ではなく、知性の範疇に入ると思う。さらに情報リテラシーの習得は、個人の知的能力だけで達成できるものでなく、必ず「公共的な言論の場」が必要であるという。これも刺激的な卓見。一方、「情報難民」とは、自分が所有している情報の吟味を請う言論の場から切り離されてしまった人々のことだ。この指摘、自分の仕事とも関連して、いろいろ考えさせられる点が多い。