見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

お側付きから官僚へ/お殿様たちの出世(山本博文)

2007-12-06 23:50:24 | 読んだもの(書籍)
○山本博文『お殿様たちの出世:江戸幕府老中への道』 (新潮選書) 新潮社 2007.6

 江戸時代260年の間、「老中」に就任したのは124名。ひとりひとりが、どんな事情で幕府政治の最高中枢に抜擢されたのかを丹念に追った労作である。

 徳川政権の初期は、全ての決定権が将軍にあり、老中は将軍意思の取次役だった。それゆえ、幼い頃から将軍の側に仕え、将軍の意向をよく知る者が重用された。綱吉の代に、奏者番→寺社奉行→京都所司代ないし大阪所司代→老中という昇進コースが確立し、官僚的老中制に移行する。家治の代に至ると、政務が複雑化し、老中の補佐役である若年寄の重要性が増した。そのため、若年寄経験者が老中に昇進する例が目立つようになった。やがて天保の改革の挫折により、老中制は弱体化し、機能不全のまま、幕府の終焉を迎える。このように、ひとくちに「老中」と言っても、江戸の初期と末期では、性格の差があることが分かった。

 ただし、本書は、背景となる政治社会史の説明は最少限度しかない。そのうえ、老中職124名のほか、将軍、有力大名など、多数の人名が交錯するのだが、私は知識が乏しくてなかなかイメージを結ばず、ちょっと読むのがしんどかった。

 それでも、後年「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱(←『柳生十兵衛七番勝負』で覚えた)は、わずか8歳のとき、家格の高い叔父に「猶子(養子)になさってください」と願い出たという話とか、堀田正盛は将軍家光と「格別の恩寵」(=衆道)の関係にあり、主君の没後、追い腹を切って殉死するのが当然と思われたとか、興味深い知識も仕入れた。江戸の後半になると、真田氏とか諏訪氏、小笠原氏など、戦国武将から続く意外な家柄の老中が現れるのも面白かった。

 あと、外様大名から老中は選ばれなかったということ。外様と譜代の区別って、200年間も続いたんだなあ(天保年間に破られる)。逆に親藩(徳川一門)も除かれたというのも面白い。そういう家に生まれて、政治的野心を抱いた人間はどうしたんだろう?

 また、老中は、常時江戸で政務を取らなければならないため、だいたい江戸近郊に城地を与えられていたというのも、なるほどと思った。今の我が家に近い、川越城には、さまざまな老中職が、入れ替わり立ち替わり入っている。今も、東京近郊の政府出先機関には、こういう人事交流用のポストってあるなあ、官僚の生態って変わらないなあ、と苦笑した。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする