○松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書) 中央公論新社 2001.1
あけましておめでとうございます。実質的に、今年の読書の第1冊目は、この本から。
今からほぼ百年前、ともに1901年(明治34年)に生涯を終えた、2人の思想家を対比的に扱ったもの。福沢は天保5年(1835)生まれ、中江は弘化4年(1847)生まれだから、福沢のほうが12歳年長である。
本書は、さまざまな角度から、両者の比較を試みている。イギリス・アメリカに学んだ福沢と、フランスに留学した中江。実学を奨励し、偉大な常識人ヴォルテールに比せられる福沢と、哲学を重視し、ルソーの紹介者である中江。明治日本の進路におおむね満足していた福沢と、これを「国民堕落の歴史」であったと断じ、悲憤慷慨のうちに没した中江。このほか、飲酒、喫煙、娼妓に対する態度、家庭人として、教育者として、等々。「不風流」を自任する福沢に対して、中江が義太夫や寄席芸人の讃仰者であった、というのは、初めて聞く話で、興味深かった。これ、知ってる人には有名な話なんだろうなあ(私も文楽ファンなので、ちょっと嬉しい)。→松岡正剛の千夜千冊『一年有半・続一年有半』
知名度から言えば、圧倒的に福沢諭吉のほうが上だろう。近代日本を考える上でも、(ネガティブな面も含めて)福沢の存在は避けて通れないと思う。福沢に比べると、中江は、ややマイナーな感が否めない。高校の倫理社会の教科書で「自由民権運動」の思想家として習ったけれど、最近まで、それ以上の興味はなかった。しかし、本書を読んで、彼の教育論や文学論を、非常に面白いと感じた。
中江は、ヨーロッパにおいて、ギリシャ・ラテン語の学習が、一面では文章力養成の基礎として、また一面では、ものの考え方や幅広い教養を身につけるために行われていることに範を取り、日本人が学ぶべき古典教養として、漢学を重視した。東京外国語学校長のとき、『史記』や『十八史略』をカリキュラムに入れようとして、田中不二麿、九鬼隆一ら(実学を重視する福沢派)の文部官僚の反対に遭い、激論の末、辞職してしまったという。おもしろい人だな~。洋学者なのに。
文学については、坪内逍遙の写実主義(小説の主眼は人情模写にあり)に対して、単に事実を写し取るのではなく、人間には誰しも珠玉の真実を体験する瞬間があり、そうした珠玉の瞬間をとらえるのが文学の本旨だと述べている。当時としては非常に新しい文学論ではなかったか。
さて、最も興味深いのは、「文明と侵略」に関する両者の主張の差である。福沢は、国家の行動に個人の道徳を持ち込むことは間違いであり、国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではないとする。謝罪をすれば、罪が明白になり、相手国につけこまれるだけだ。あくまで正当性を主張し、最後は軍事力に訴えて勝利を収めれば「一切の汚辱は弱者の負担と為りて」「(勝者は)正義者の名を博す可し」という。すごい。ここまで、ぬけぬけと言うか、という感じである。慶応出身の小泉首相が、靖国参拝で主義を曲げないのは、福沢の説を信奉しているのではないか、と勘ぐりたくなってしまう。
また、福沢は、文明は義であり力であり、文明が野蛮に武力で干渉し懲罰することは正当であると信じていた。そこから、彼の「脱亜論」と、対朝鮮強硬論が導かれる。「日本は既に文明に進みて、朝鮮は尚未開なり」。それゆえ、「我武威を示して其人心を圧倒し、我日本の国力を以て隣国の文明を助け進るは(略)我日本の責任と云ふ可き」。どうだろう、この「文明」を「民主主義」に入れ替えて読んでみては。すると、今日のアメリカが、あるいはアメリカに追従する日本政府が、どこかの”非文明国”について語っているのと、よく似た主張が現れてくるではないか。
一方、中江は、強圧的な対朝鮮外交に反対した。近隣諸国に「日本は悪むべき国民かな、今まに如何なる返報を為すや見よや」との怨恨を抱かせることは、長期的に観て「我国の利益にあらず、又た決して東洋の利益にあらざる」と論じたのである。この中江の論法も、今日の国際関係を論ずる際、必ずどこかで聞く主張である。
どちらの主張も、百年前に出尽くしているということか。私は中江のほうが正論だと思うけど、やっぱり弱い。今から百年後、「当時も正論を主張した人物はいた」の繰り返しでは、むなしいと思うのだけど。
あけましておめでとうございます。実質的に、今年の読書の第1冊目は、この本から。
今からほぼ百年前、ともに1901年(明治34年)に生涯を終えた、2人の思想家を対比的に扱ったもの。福沢は天保5年(1835)生まれ、中江は弘化4年(1847)生まれだから、福沢のほうが12歳年長である。
本書は、さまざまな角度から、両者の比較を試みている。イギリス・アメリカに学んだ福沢と、フランスに留学した中江。実学を奨励し、偉大な常識人ヴォルテールに比せられる福沢と、哲学を重視し、ルソーの紹介者である中江。明治日本の進路におおむね満足していた福沢と、これを「国民堕落の歴史」であったと断じ、悲憤慷慨のうちに没した中江。このほか、飲酒、喫煙、娼妓に対する態度、家庭人として、教育者として、等々。「不風流」を自任する福沢に対して、中江が義太夫や寄席芸人の讃仰者であった、というのは、初めて聞く話で、興味深かった。これ、知ってる人には有名な話なんだろうなあ(私も文楽ファンなので、ちょっと嬉しい)。→松岡正剛の千夜千冊『一年有半・続一年有半』
知名度から言えば、圧倒的に福沢諭吉のほうが上だろう。近代日本を考える上でも、(ネガティブな面も含めて)福沢の存在は避けて通れないと思う。福沢に比べると、中江は、ややマイナーな感が否めない。高校の倫理社会の教科書で「自由民権運動」の思想家として習ったけれど、最近まで、それ以上の興味はなかった。しかし、本書を読んで、彼の教育論や文学論を、非常に面白いと感じた。
中江は、ヨーロッパにおいて、ギリシャ・ラテン語の学習が、一面では文章力養成の基礎として、また一面では、ものの考え方や幅広い教養を身につけるために行われていることに範を取り、日本人が学ぶべき古典教養として、漢学を重視した。東京外国語学校長のとき、『史記』や『十八史略』をカリキュラムに入れようとして、田中不二麿、九鬼隆一ら(実学を重視する福沢派)の文部官僚の反対に遭い、激論の末、辞職してしまったという。おもしろい人だな~。洋学者なのに。
文学については、坪内逍遙の写実主義(小説の主眼は人情模写にあり)に対して、単に事実を写し取るのではなく、人間には誰しも珠玉の真実を体験する瞬間があり、そうした珠玉の瞬間をとらえるのが文学の本旨だと述べている。当時としては非常に新しい文学論ではなかったか。
さて、最も興味深いのは、「文明と侵略」に関する両者の主張の差である。福沢は、国家の行動に個人の道徳を持ち込むことは間違いであり、国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではないとする。謝罪をすれば、罪が明白になり、相手国につけこまれるだけだ。あくまで正当性を主張し、最後は軍事力に訴えて勝利を収めれば「一切の汚辱は弱者の負担と為りて」「(勝者は)正義者の名を博す可し」という。すごい。ここまで、ぬけぬけと言うか、という感じである。慶応出身の小泉首相が、靖国参拝で主義を曲げないのは、福沢の説を信奉しているのではないか、と勘ぐりたくなってしまう。
また、福沢は、文明は義であり力であり、文明が野蛮に武力で干渉し懲罰することは正当であると信じていた。そこから、彼の「脱亜論」と、対朝鮮強硬論が導かれる。「日本は既に文明に進みて、朝鮮は尚未開なり」。それゆえ、「我武威を示して其人心を圧倒し、我日本の国力を以て隣国の文明を助け進るは(略)我日本の責任と云ふ可き」。どうだろう、この「文明」を「民主主義」に入れ替えて読んでみては。すると、今日のアメリカが、あるいはアメリカに追従する日本政府が、どこかの”非文明国”について語っているのと、よく似た主張が現れてくるではないか。
一方、中江は、強圧的な対朝鮮外交に反対した。近隣諸国に「日本は悪むべき国民かな、今まに如何なる返報を為すや見よや」との怨恨を抱かせることは、長期的に観て「我国の利益にあらず、又た決して東洋の利益にあらざる」と論じたのである。この中江の論法も、今日の国際関係を論ずる際、必ずどこかで聞く主張である。
どちらの主張も、百年前に出尽くしているということか。私は中江のほうが正論だと思うけど、やっぱり弱い。今から百年後、「当時も正論を主張した人物はいた」の繰り返しでは、むなしいと思うのだけど。