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闘ったバトンを託された 有銘政夫さんの孫の親川志奈子さん(43) 平和を希求する心を受け継ぎたい

2024-05-20 | ウチナー・沖縄

沖縄タイムス5/17(金) 9:07

有銘政夫さん(右)と沖縄こどもの国を訪れた孫の親川志奈子さん。「難しい話でもユーモアを交える、キュートなおじいちゃんだった」と思い返した=1983年3月(提供)(沖縄タイムス)

[孫と「復帰」53年目の5・15](4)

 「この子は運動仲間だよ」

 名護市辺野古の座り込みや抗議集会で一緒になると、故有銘政夫さんが周囲にこう紹介してくれた。孫の親川志奈子さん(43)は「おじいちゃんに仲間として見られていることがおもしろかったし、うれしかった」と笑う。

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 祖父と同じ沖縄市に住んでいた小学5年までは会う機会が多く、その後に那覇市へ移っても親族の行事などで交流した。嘉手納爆音訴訟の原告団や沖縄軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議(違憲共闘会議)のメンバーとしてニュースに出たり新聞に載ったりする祖父を探すのが好きだった。「基地に反対する何かをしている」姿を目にする機会は多かった。

 高校2年だった1998年、沖縄振興の一環でできた国費留学制度で米国に渡った。95年には米兵3人による暴行事件が発生したばかりで、沖縄で起きる問題に意識が向き始めていた。

 米国では「聞かれたら沖縄について話すぞ。基地問題も話すんだ」と意気込んでいたが、沖縄は全くと言っていいほど知られておらず、関心が薄かった。「沖縄では米軍相手に一喜一憂しているのに」。より沖縄について学びを深めようと思った。

 大学ではウチナーンチュのコミュニティーがあるハワイ、大学院ではスコットランド人らが熱っぽく独立を論じるロンドンに留学した。アイデンティティーを考えるきっかけになった。

 市民による抗議デモは当たり前。「本当に気軽に参加できるデモで、自分の中の敷居が下がった」。辺野古や抗議集会に行ってみようか、と足を向け出したのはこの頃からだ。

 沖縄を知ろうと動き出した時、頼りにしたのはやはり祖父だった。普段はしない政治の話も、質問すれば意見や感想を言ってくれた。

 「何で復帰したの?  と聞いたら、おじいちゃんは『ね』って。当時は基地問題を解決しなければならない、何も保障されていない状況があった。復帰は一つの選択肢ではあったと思うけど…」。復帰前に人々が求めた「基地撤去」「核抜き本土並み」が遠い現状を見ると、「だまされた感じ」が募る。

 琉球民族独立総合研究学会に設立から携わっている。国連の先住民族会議に参加するなどして、祖父とは違うやり方で基地から派生する人権侵害を世界に訴えてきた。「おじいちゃんは次世代のために闘ってバトンを渡した。孫としては託されたと思っている。平和を求める気持ちを受け継いでいきたい」と力を込めた。(社会部・勝浦大輔)=おわり

 メモ 有銘政夫さん

 小学校教諭を経て中頭地区教職員会専従職員。沖教組中頭支部委員長や中部地区労議長などを歴任した。1994~2012年は違憲共闘会議の議長を務めるなど、日本復帰後は、反戦地主として裁判闘争を引っ張った。2021年に90歳で死去。

https://news.yahoo.co.jp/articles/5ef518e357784a79da58504f076b7cd4bea8234d

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