創 4/5(月) 14:29
キム・ミレ監督との2006年の出会い
●はじめに
ここに掲載するのは月刊「創」(つくる)2021年4月号に掲載したレポートだ。1970年代に連続的な爆破事件を起こした「東アジア反日武装戦線」を追ったドキュメンタリー映画『狼をさがして』が公開中だが、執筆者の太田昌国さんはその映画の出演者でもある。
反日武装戦線について韓国の監督が掘り起こした映画を素材に、いま改めてあの事件とあの時代を総括しようという動きが広がりつつある。(編集部)
映画『狼をさがして』(韓国語原題『東アジア反日武装戦線』)を監督・制作した韓国のキム・ミレさんが私たちの前に初めて現れたのは2006年のことだった。メモはないし、記憶もおぼろげだが、その時のことから書いておきたい。
彼女は、この映画の冒頭のシーンからも分かるように、2000年代初頭に日雇い労働者の街=大阪・釜ヶ崎の取材をしている。これはその後『ノガダ(土方)』という作品にまとまる(2005年)。建設労働者として生きてきた自分の父親の生が蔑まれたまま終わることのないように願ってつくった作品だ。韓国が日本に植民地支配されていた時代にさかのぼって「土方」の起源を探るためには、釜ヶ崎を知らなければ、と思ったのだろう。その着眼点は的確だ。
その取材の時に彼女は、一労働者から「日本の日雇い運動の前身は東アジア反日武装戦線だ(以下、「反日」と表記)。彼らの映画をつくってほしい」と言われたらしい。「反日」を名乗る人びとが、いつ頃、何を考え、何をやって、いまどうしているか、を聞いたのだろう。私がそこに居合わせたわけではないから、どんな説明を聞いたのかはわからない。誰が行なうにしても、おおよそ、次のようなものになるだろうか。
――「反日」の若者たちは、1970年代前半に、戦前の日本が近隣のアジア諸国に対して行なった植民地支配や侵略戦争の責任を清算しないままでいる現実を批判した。清算するどころか、戦後は朝鮮戦争やベトナム戦争など近隣諸国の民衆を犠牲にする戦争による特需景気に沸いて経済復興を遂げていることも指摘した。このカラクリをもっともはっきりと証しているのは、アジア太平洋戦争を強行する最高責任者だった昭和天皇裕仁が、戦後は新憲法の下「平和の象徴」として君臨し続けていることだとして、彼が乗る「お召列車」の爆破を企てたが、計画は挫折した。その後は、戦前と戦後を貫いてアジア侵略の先頭に立つ、三菱・三井などの大企業のビルに対する連続的な爆破攻撃を行なった。やがて逮捕された彼ら/彼女らには死刑・重刑が科されて、いま獄にある……。
彼女には衝撃だったようだ。無理もない。1964年生まれの彼女は、「反日」が活動していた1970年代前半は、まだ10歳にもなっていない。韓国は長いこと軍事政権の支配下にあって、厳しい情報統制が続いていた。自分が生まれ育った国・韓国の人びと、広くは東アジアの民衆に対するそんな熱い思いをもって行動した若者たちが日本に実在したとは! 彼女が、興奮を伴う驚きを持ったとしても当然だったと思う。
他方、彼女に会っていた私たち数人は、いずれも、「反日」獄中メンバーの救援活動に何らかの形で関わっていた者だった。関わり合いの姿勢をひと言で表現すると、それは〈批判的〉救援だったと思う。彼ら/彼女らが持っていた初心の問題意識には深く共感する。同時に、爆弾を用いて目的を達しようとしたことについては、反対する、あるいは、賛否を留保する。ましてや、1974年8月に「反日」の狼グループが東京・丸の内の三菱重工ビル前に設置した爆弾は、死傷する人が出ないように事前に警告電話をしたことからも人を殺傷する意図がなかったことは理解するが、現実には8名の死者と385人の重軽傷者を生んだ。しかも、実行者たちはこれを「当然だ」とする声明文を出した。
本意とは真逆なことを述べたこの声明文は、発した彼ら自身を後年もっとも苦しめることになる。救援の立場からしても、この重大な過ちには決して承服できない。仮に正しい目的があるとしても、いかなる手段を用いても許されることにはならないからだ。「反日」の救援を考えた者の多くは、公判記録にある三菱の被害者の状態を示す写真の、むごい様子を見てなお、実行者を救援する論理と倫理はどこにあるかを考え抜くよう迫られたと思う。私が〈批判的〉救援と名づけた姿勢は、そこから生まれた。同時に、だからといって、国家が彼ら/彼女らを裁くこと、ましてや死刑を科すことには反対する――大まかに言えば、そんな思いからの救援活動だった。
そんな私たちには、大きな壁が立ちはだかっていた。「反日」メンバーの中にはまだ逮捕されていない人もいたので、私たちに対する公安警察のマークは厳しかった。些細なことでの家宅捜査、尾行、勤務先上司への垂れ込み、家族や恋人への警告、電話の盗聴など、警察はやりたい放題のことをやった。日常的に自転車を使うメンバーは、駅前に自転車を置くと(尾行されているから)それを持ち去られたり、鍵や荷台を壊されたりした。しかも何度にもわたって。私も数年間にわたって、自宅付近に公安警察のアジトが置かれ、1日24時間の監視下に置かれた。
他方、「反日」の救援を訴える活動にも大きな壁があった。さまざまな社会運動に関わる人びとのあいだでも、「反日」に対する拒絶感情は大きかった。「単なる爆弾魔」「テロリスト」――一般社会に浸透している評価がここにも広がっていた。私たちの〈批判的〉救援の論理が、すんなりとは受け入れられる素地は、最初のころはほとんどなかった。「反日」の過ちはどこにあったか、にも拘らず救い出すべき初心はなんであったか――私たちは、そこに焦点を当てて、救援活動を展開していた。
キム・ミレさんが私たちの前に現われたのは、そんな頃だった。「反日」のすごさとすばらしさを語る彼女に、そんな受け止め方では何ごとも始まらないよ、という思いだった。「反日」についての映画を撮りたいというのが彼女の希望だったが、話し合いはすれ違いに終わった。私は記憶していないのだが、同席した人によれば、別れるときに私はキム・ミレさんに「もっと勉強して」とまで言ったそうだ。
社会でもっとも弱い者の声を届ける映像作品
それから数年が過ぎた。2009年に彼女は、新たなドキュメンタリー作品『外泊』を監督・制作した。韓国のハイパーマーケットで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議して職場占拠で闘う姿を描いた作品だ。男性の正規労働者中心の労働運動の在り方に風穴を開ける、痛快な作品だ。女性を「妻」および「母」としての役割に特化させて、家に縛りつけたままにしようとする男(夫)との諍いも描かれていて、問題の根深さを示す。
この映画の背景を手際よく解説するブックレットが韓国で発行された。この作品の自主上映が日本で始まるのに合わせて、この冊子も刊行することになり、日本の協働者から、私が勤めていた出版社に出版の打診があった。異論があろうはずがない。それは『外泊外伝』のタイトルで2011年に刊行された(現代企画室)。それに収録されているキムさんの文章や彼女のそれまでの仕事に触れている他の人びとの文章を読んで、キム・ミレさんの歩みがよくわかった。彼女は、社会の中でもっとも弱い者、発言権を持たず、奪われている者――その声を広く社会に届けるために映像作品をつくってきた。社会運動や労働運動にも浸透している男性優位主義の価値観に疑問と批判を抱き、その延長上で『外泊』が生まれたことが理解できた。
東京でも『外泊』の上映会が開かれ、来日したキムさんとも再会した。日本で彼女の創作活動を支えているのは、「連連影展(フェミニスト・アクティブドキュメンタリー・ビデオフェスタ)」の人びとだった。上映会は、女性たちの姿で溢れていた。そのとき、キムさんとの間では「反日」の映画の話は出なかったと思う。私の方から尋ねることもしなかった。しかし、映像の仕事に関わってきた彼女が築きつつある創造の根拠の確かさ、国境を超えた人間的な連帯の強固さを、私は感じとることができた。
それからさらに数年の歳月が流れた。もっとも熱心な「反日」救援活動家のひとりで、結果的に『狼をさがして』にも出演しているHさん宛てに、東京に来ているというキムさんから電話があった。中断していた「反日」に関わる映画を、今度こそ撮るという。それが、新たな出発点になった。彼女の構想に基づいて、出演してもらいたい人と順次話し合い、撮影に入るという。今度は協力していいのではないか――私もそう考えていた。韓国と日本のあいだをメールが飛び交い、彼女が取材したいと希望する人との仲立ちをするためのやり取りを何度も行なった。
その後制作に要した数年間のなかで、私は5~6回ほど撮影現場に居合わせたと思う。記憶に残る最初の撮影は、2015年6月のことだった。救援会は、「東アジア反日武装戦線と私たちの来た道、行く道」という集会を、年に一度、5年連続で開いていた。5年目は、浴田由紀子さんが懲役20年の刑期を終えて出所する2017年に合わせた企画だ。2015年の集会はその3回目に当たり、『「狼」の誕生』と題して行なった。私はその時「『北海道』(アイヌモシリ)に生まれるということ」と題する講演を行なった。
「狼」の足跡をたどって不条理な経験も
「反日」が最初に行なった行動は、1972年北海道にあるアイヌ関連の彫像「風雪の群像」と北大の文化施設に対する爆破行為だった。明治維新直後に行なわれた、近代国家・日本によるアイヌの大地=蝦夷地の植民地化の過程を問い、人類学や文化人類学という学問が先住民族の文化遺産を一方的に奪ってきたことへの批判だった。文化表現物を爆弾によって破壊する行為が、真の意味での批判行為になり得るか、それは許されるのか、あるいは有効なのかという疑問と批判は当然にもあり得よう。
のちに「反日」の「狼」を名乗ることになるこのグループには北海道出身者が3人いた。彼ら/彼女らは、継続する植民地主義批判の方法としてこの道を選択した。『「狼」の誕生』をめぐる討論を行なったこの場をキムさんたちは取材した。それは、やがて、北海道各地へのロケへと繋がっていく。
キム・ミレさんはこの点について次のように語っている。――近代文明によって絶滅したニホンオオカミに因んで名付けられた「狼」部隊。彼らの足跡をたどる場面では、4名のメンバーのうち3名の出身地である北海道の自然風景に焦点を当てました。近代日本国家と「狼」のあいだに繰り広げられた非対称的な戦いに、自然を映像に取り込むことでその力を借りて加勢したいという思いを画面に込めました。――(キム・ミレ「プロダクション・ノート」、『狼をさがして』劇場用パンフレットに所収)。
またある時は、「狼」の大道寺将司君に面会するために、葛飾区小菅の東京拘置所に向かう私にキム監督がカメラを持ちながら同行したこともあった。その日は、獄中で俳句を詠むようになった大道寺君の何冊目かの句集が刊行され、それを差し入れする日であった。日本の行刑制度は世界に類を見ないほどに厳しい。とりわけ死刑確定者には、面会・文通・差し入れなどすべてにわたって厳格な制限がある。キムさんが獄中者に会うことなど叶うはずもない。
だから、カメラは私が拘置所へ入るところまでを見届け、あとは面会を終えて出てきた私が、狭い3畳間ほどの空間(独房)に閉じ込められている獄中者にとって、わずか17文字で表現する俳句が持つ意味を語るところを捉えるだけに終わる。17文字が語り得る世界は、広く、深い。それは、幽閉されている獄中者が、そのことに圧し潰されずに、想像力を解き放つことのできる表現空間だ。
キム・ミレさんは、東京へ来るたびに拘置所を訪れたが、大道寺君を40年間閉じ込めている堅固な建物を見ると、「彼が生きている世界と彼が持ち続け耐えている心に到底たどりつくことができないと思い」つつも「ただ彼の俳句を通して、かすかながら汲み取るだけ」だったが、「この不条理な経験が私を成長させた」と語っている(「プロダクション・ノート」)。
この記録映画の、ほんとうの意味での「主人公」でありながら、ついに姿を見せることのない/見せることができない人物への思いが凝縮した表現で、胸の詰まる思いがする。
大道寺将司君の死傷者に触れた俳句
室内スタジオでの撮影も2度ほどあった。いずれも、私が大道寺君の俳句を紹介するシーンだった。彼の句には、素人の私でもハッとするような優れたものがある。三菱重工ビル爆破による死傷者に触れるときにはとりわけ。
いなびかりせんなき悔いのまた溢る
死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ
春雷に死者たちの声重なれり
死は罪の償ひなるや金亀子
大道寺君は2017年5月、多発性骨髄腫のために拘置所内で獄死した。死の半年ほど前だったろうか、拘置所で面会した私に、彼は言った。「実際に人を殺した人間と、殺していない人間とは、徹底的に違う」。それは、その日の対面の挨拶が終わるか終わらぬかのうちに吐かれた、切羽詰まった物言いだった。何年も続く闘病の果てに、死が近いことを、彼は意識していたせいかもしれない。何度も言ってきたことだが、もう一度これだけは伝えておきたい、という気迫を感じて、私は気圧された。
「反日」の人びとへの熱い思いをもってこの映画を制作したキム・ミレさんにとっても、三菱の死傷者が重く圧し掛かっている。「日本国家に搾取され殺された東アジアの人々の〈恨みと悲しみ〉を心に、正しいと思ったことを行動に移し、最後までやり遂げようとした若者たち」は、「そのために8名の人が命を失い、数多くの負傷者が出」た。長いこと刑務所の中で犠牲者の死と向き合うことは「苦痛だったかもしれませんが、幸いにも〈加害事実〉に向き合う時間を持つことができた」。「8名の死者と負傷者たち、それがこの作品の制作過程のあいだじゅう私の背にのしかかってきた。」(「プロダクション・ノート」)。
50年近く前、「反日」の若者たちが行動していた時、彼ら/彼女らが熱い思いを寄せる韓国の人びとの間にこのような交感が生まれることは、状況的にあり得なかった。その意味では、状況は大きく変わった。
『狼をさがして』のような映画作品が韓国の人びとの手によって制作されたことは、どんなに困難な状況の中にあっても、新しい流れに棹さす人が生まれれば、事態は動き始めることの証しなのだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/147b8de8db87ffb787fd28cb416f5c5b03687b93
キム・ミレ監督との2006年の出会い
●はじめに
ここに掲載するのは月刊「創」(つくる)2021年4月号に掲載したレポートだ。1970年代に連続的な爆破事件を起こした「東アジア反日武装戦線」を追ったドキュメンタリー映画『狼をさがして』が公開中だが、執筆者の太田昌国さんはその映画の出演者でもある。
反日武装戦線について韓国の監督が掘り起こした映画を素材に、いま改めてあの事件とあの時代を総括しようという動きが広がりつつある。(編集部)
映画『狼をさがして』(韓国語原題『東アジア反日武装戦線』)を監督・制作した韓国のキム・ミレさんが私たちの前に初めて現れたのは2006年のことだった。メモはないし、記憶もおぼろげだが、その時のことから書いておきたい。
彼女は、この映画の冒頭のシーンからも分かるように、2000年代初頭に日雇い労働者の街=大阪・釜ヶ崎の取材をしている。これはその後『ノガダ(土方)』という作品にまとまる(2005年)。建設労働者として生きてきた自分の父親の生が蔑まれたまま終わることのないように願ってつくった作品だ。韓国が日本に植民地支配されていた時代にさかのぼって「土方」の起源を探るためには、釜ヶ崎を知らなければ、と思ったのだろう。その着眼点は的確だ。
その取材の時に彼女は、一労働者から「日本の日雇い運動の前身は東アジア反日武装戦線だ(以下、「反日」と表記)。彼らの映画をつくってほしい」と言われたらしい。「反日」を名乗る人びとが、いつ頃、何を考え、何をやって、いまどうしているか、を聞いたのだろう。私がそこに居合わせたわけではないから、どんな説明を聞いたのかはわからない。誰が行なうにしても、おおよそ、次のようなものになるだろうか。
――「反日」の若者たちは、1970年代前半に、戦前の日本が近隣のアジア諸国に対して行なった植民地支配や侵略戦争の責任を清算しないままでいる現実を批判した。清算するどころか、戦後は朝鮮戦争やベトナム戦争など近隣諸国の民衆を犠牲にする戦争による特需景気に沸いて経済復興を遂げていることも指摘した。このカラクリをもっともはっきりと証しているのは、アジア太平洋戦争を強行する最高責任者だった昭和天皇裕仁が、戦後は新憲法の下「平和の象徴」として君臨し続けていることだとして、彼が乗る「お召列車」の爆破を企てたが、計画は挫折した。その後は、戦前と戦後を貫いてアジア侵略の先頭に立つ、三菱・三井などの大企業のビルに対する連続的な爆破攻撃を行なった。やがて逮捕された彼ら/彼女らには死刑・重刑が科されて、いま獄にある……。
彼女には衝撃だったようだ。無理もない。1964年生まれの彼女は、「反日」が活動していた1970年代前半は、まだ10歳にもなっていない。韓国は長いこと軍事政権の支配下にあって、厳しい情報統制が続いていた。自分が生まれ育った国・韓国の人びと、広くは東アジアの民衆に対するそんな熱い思いをもって行動した若者たちが日本に実在したとは! 彼女が、興奮を伴う驚きを持ったとしても当然だったと思う。
他方、彼女に会っていた私たち数人は、いずれも、「反日」獄中メンバーの救援活動に何らかの形で関わっていた者だった。関わり合いの姿勢をひと言で表現すると、それは〈批判的〉救援だったと思う。彼ら/彼女らが持っていた初心の問題意識には深く共感する。同時に、爆弾を用いて目的を達しようとしたことについては、反対する、あるいは、賛否を留保する。ましてや、1974年8月に「反日」の狼グループが東京・丸の内の三菱重工ビル前に設置した爆弾は、死傷する人が出ないように事前に警告電話をしたことからも人を殺傷する意図がなかったことは理解するが、現実には8名の死者と385人の重軽傷者を生んだ。しかも、実行者たちはこれを「当然だ」とする声明文を出した。
本意とは真逆なことを述べたこの声明文は、発した彼ら自身を後年もっとも苦しめることになる。救援の立場からしても、この重大な過ちには決して承服できない。仮に正しい目的があるとしても、いかなる手段を用いても許されることにはならないからだ。「反日」の救援を考えた者の多くは、公判記録にある三菱の被害者の状態を示す写真の、むごい様子を見てなお、実行者を救援する論理と倫理はどこにあるかを考え抜くよう迫られたと思う。私が〈批判的〉救援と名づけた姿勢は、そこから生まれた。同時に、だからといって、国家が彼ら/彼女らを裁くこと、ましてや死刑を科すことには反対する――大まかに言えば、そんな思いからの救援活動だった。
そんな私たちには、大きな壁が立ちはだかっていた。「反日」メンバーの中にはまだ逮捕されていない人もいたので、私たちに対する公安警察のマークは厳しかった。些細なことでの家宅捜査、尾行、勤務先上司への垂れ込み、家族や恋人への警告、電話の盗聴など、警察はやりたい放題のことをやった。日常的に自転車を使うメンバーは、駅前に自転車を置くと(尾行されているから)それを持ち去られたり、鍵や荷台を壊されたりした。しかも何度にもわたって。私も数年間にわたって、自宅付近に公安警察のアジトが置かれ、1日24時間の監視下に置かれた。
他方、「反日」の救援を訴える活動にも大きな壁があった。さまざまな社会運動に関わる人びとのあいだでも、「反日」に対する拒絶感情は大きかった。「単なる爆弾魔」「テロリスト」――一般社会に浸透している評価がここにも広がっていた。私たちの〈批判的〉救援の論理が、すんなりとは受け入れられる素地は、最初のころはほとんどなかった。「反日」の過ちはどこにあったか、にも拘らず救い出すべき初心はなんであったか――私たちは、そこに焦点を当てて、救援活動を展開していた。
キム・ミレさんが私たちの前に現われたのは、そんな頃だった。「反日」のすごさとすばらしさを語る彼女に、そんな受け止め方では何ごとも始まらないよ、という思いだった。「反日」についての映画を撮りたいというのが彼女の希望だったが、話し合いはすれ違いに終わった。私は記憶していないのだが、同席した人によれば、別れるときに私はキム・ミレさんに「もっと勉強して」とまで言ったそうだ。
社会でもっとも弱い者の声を届ける映像作品
それから数年が過ぎた。2009年に彼女は、新たなドキュメンタリー作品『外泊』を監督・制作した。韓国のハイパーマーケットで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議して職場占拠で闘う姿を描いた作品だ。男性の正規労働者中心の労働運動の在り方に風穴を開ける、痛快な作品だ。女性を「妻」および「母」としての役割に特化させて、家に縛りつけたままにしようとする男(夫)との諍いも描かれていて、問題の根深さを示す。
この映画の背景を手際よく解説するブックレットが韓国で発行された。この作品の自主上映が日本で始まるのに合わせて、この冊子も刊行することになり、日本の協働者から、私が勤めていた出版社に出版の打診があった。異論があろうはずがない。それは『外泊外伝』のタイトルで2011年に刊行された(現代企画室)。それに収録されているキムさんの文章や彼女のそれまでの仕事に触れている他の人びとの文章を読んで、キム・ミレさんの歩みがよくわかった。彼女は、社会の中でもっとも弱い者、発言権を持たず、奪われている者――その声を広く社会に届けるために映像作品をつくってきた。社会運動や労働運動にも浸透している男性優位主義の価値観に疑問と批判を抱き、その延長上で『外泊』が生まれたことが理解できた。
東京でも『外泊』の上映会が開かれ、来日したキムさんとも再会した。日本で彼女の創作活動を支えているのは、「連連影展(フェミニスト・アクティブドキュメンタリー・ビデオフェスタ)」の人びとだった。上映会は、女性たちの姿で溢れていた。そのとき、キムさんとの間では「反日」の映画の話は出なかったと思う。私の方から尋ねることもしなかった。しかし、映像の仕事に関わってきた彼女が築きつつある創造の根拠の確かさ、国境を超えた人間的な連帯の強固さを、私は感じとることができた。
それからさらに数年の歳月が流れた。もっとも熱心な「反日」救援活動家のひとりで、結果的に『狼をさがして』にも出演しているHさん宛てに、東京に来ているというキムさんから電話があった。中断していた「反日」に関わる映画を、今度こそ撮るという。それが、新たな出発点になった。彼女の構想に基づいて、出演してもらいたい人と順次話し合い、撮影に入るという。今度は協力していいのではないか――私もそう考えていた。韓国と日本のあいだをメールが飛び交い、彼女が取材したいと希望する人との仲立ちをするためのやり取りを何度も行なった。
その後制作に要した数年間のなかで、私は5~6回ほど撮影現場に居合わせたと思う。記憶に残る最初の撮影は、2015年6月のことだった。救援会は、「東アジア反日武装戦線と私たちの来た道、行く道」という集会を、年に一度、5年連続で開いていた。5年目は、浴田由紀子さんが懲役20年の刑期を終えて出所する2017年に合わせた企画だ。2015年の集会はその3回目に当たり、『「狼」の誕生』と題して行なった。私はその時「『北海道』(アイヌモシリ)に生まれるということ」と題する講演を行なった。
「狼」の足跡をたどって不条理な経験も
「反日」が最初に行なった行動は、1972年北海道にあるアイヌ関連の彫像「風雪の群像」と北大の文化施設に対する爆破行為だった。明治維新直後に行なわれた、近代国家・日本によるアイヌの大地=蝦夷地の植民地化の過程を問い、人類学や文化人類学という学問が先住民族の文化遺産を一方的に奪ってきたことへの批判だった。文化表現物を爆弾によって破壊する行為が、真の意味での批判行為になり得るか、それは許されるのか、あるいは有効なのかという疑問と批判は当然にもあり得よう。
のちに「反日」の「狼」を名乗ることになるこのグループには北海道出身者が3人いた。彼ら/彼女らは、継続する植民地主義批判の方法としてこの道を選択した。『「狼」の誕生』をめぐる討論を行なったこの場をキムさんたちは取材した。それは、やがて、北海道各地へのロケへと繋がっていく。
キム・ミレさんはこの点について次のように語っている。――近代文明によって絶滅したニホンオオカミに因んで名付けられた「狼」部隊。彼らの足跡をたどる場面では、4名のメンバーのうち3名の出身地である北海道の自然風景に焦点を当てました。近代日本国家と「狼」のあいだに繰り広げられた非対称的な戦いに、自然を映像に取り込むことでその力を借りて加勢したいという思いを画面に込めました。――(キム・ミレ「プロダクション・ノート」、『狼をさがして』劇場用パンフレットに所収)。
またある時は、「狼」の大道寺将司君に面会するために、葛飾区小菅の東京拘置所に向かう私にキム監督がカメラを持ちながら同行したこともあった。その日は、獄中で俳句を詠むようになった大道寺君の何冊目かの句集が刊行され、それを差し入れする日であった。日本の行刑制度は世界に類を見ないほどに厳しい。とりわけ死刑確定者には、面会・文通・差し入れなどすべてにわたって厳格な制限がある。キムさんが獄中者に会うことなど叶うはずもない。
だから、カメラは私が拘置所へ入るところまでを見届け、あとは面会を終えて出てきた私が、狭い3畳間ほどの空間(独房)に閉じ込められている獄中者にとって、わずか17文字で表現する俳句が持つ意味を語るところを捉えるだけに終わる。17文字が語り得る世界は、広く、深い。それは、幽閉されている獄中者が、そのことに圧し潰されずに、想像力を解き放つことのできる表現空間だ。
キム・ミレさんは、東京へ来るたびに拘置所を訪れたが、大道寺君を40年間閉じ込めている堅固な建物を見ると、「彼が生きている世界と彼が持ち続け耐えている心に到底たどりつくことができないと思い」つつも「ただ彼の俳句を通して、かすかながら汲み取るだけ」だったが、「この不条理な経験が私を成長させた」と語っている(「プロダクション・ノート」)。
この記録映画の、ほんとうの意味での「主人公」でありながら、ついに姿を見せることのない/見せることができない人物への思いが凝縮した表現で、胸の詰まる思いがする。
大道寺将司君の死傷者に触れた俳句
室内スタジオでの撮影も2度ほどあった。いずれも、私が大道寺君の俳句を紹介するシーンだった。彼の句には、素人の私でもハッとするような優れたものがある。三菱重工ビル爆破による死傷者に触れるときにはとりわけ。
いなびかりせんなき悔いのまた溢る
死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ
春雷に死者たちの声重なれり
死は罪の償ひなるや金亀子
大道寺君は2017年5月、多発性骨髄腫のために拘置所内で獄死した。死の半年ほど前だったろうか、拘置所で面会した私に、彼は言った。「実際に人を殺した人間と、殺していない人間とは、徹底的に違う」。それは、その日の対面の挨拶が終わるか終わらぬかのうちに吐かれた、切羽詰まった物言いだった。何年も続く闘病の果てに、死が近いことを、彼は意識していたせいかもしれない。何度も言ってきたことだが、もう一度これだけは伝えておきたい、という気迫を感じて、私は気圧された。
「反日」の人びとへの熱い思いをもってこの映画を制作したキム・ミレさんにとっても、三菱の死傷者が重く圧し掛かっている。「日本国家に搾取され殺された東アジアの人々の〈恨みと悲しみ〉を心に、正しいと思ったことを行動に移し、最後までやり遂げようとした若者たち」は、「そのために8名の人が命を失い、数多くの負傷者が出」た。長いこと刑務所の中で犠牲者の死と向き合うことは「苦痛だったかもしれませんが、幸いにも〈加害事実〉に向き合う時間を持つことができた」。「8名の死者と負傷者たち、それがこの作品の制作過程のあいだじゅう私の背にのしかかってきた。」(「プロダクション・ノート」)。
50年近く前、「反日」の若者たちが行動していた時、彼ら/彼女らが熱い思いを寄せる韓国の人びとの間にこのような交感が生まれることは、状況的にあり得なかった。その意味では、状況は大きく変わった。
『狼をさがして』のような映画作品が韓国の人びとの手によって制作されたことは、どんなに困難な状況の中にあっても、新しい流れに棹さす人が生まれれば、事態は動き始めることの証しなのだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/147b8de8db87ffb787fd28cb416f5c5b03687b93