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キノコ雲がトレードマークで誇りの町へ。原爆を作るために生まれた町がいまだ知られていない理由

2024-08-05 | 先住民族関連

Yahoo!ニュース 水上賢治 映画ライター 8/4(日) 10:25

 キノコ雲がシンボルマークとしていたるところに掲げられ、「原爆は戦争の早期終結を促した」と核兵器を誇りとする町がある。

 アメリカ・ワシントン州南部の閑静な郊外にある町、リッチランド。

 この町は第二次世界大戦時、秘密裏に進められたマンハッタン計画の核燃料生産拠点となった「ハンフォード・サイト」で働く人々とその家族が生活するためのベットタウンとして作られた。

 日本とは無縁ではなく、1945年8月9日、長崎に落とされた「ファットマン」のプルトニウムはハンフォード・サイトで精製されたものだった。

 そのような歴史があり、先で触れたように“キノコ雲”のマークが町のいたるところに掲げられ、地元高校のフットボールのチーム名は「リッチランド・ボマーズ」、そして「原爆は戦争の早期終結を促した」と口にする人は少なくない。ただ、その一方で多くの人々を殺戮した事実を前に認識を新たにした人たちもいる。

 また「ハンフォード・サイト」はすでに稼働終了。現在はマンハッタン計画に関連する研究施設群として「国立歴史公園」に指定され、アメリカの栄光を見ようと多くの観光客が訪れる場所となっている。2000年代以降はワイン産業が急成長して、いまではワインの名産地でそれ目当てに訪れる人も多い。

 その一方で、設立当初から土地の放射能汚染が叫ばれ、いまも核の廃棄物の人体の影響への不安を抱えながら住んでいる人がいる。さらにハンフォード・サイトはもともとネイティブアメリカンから略奪した土地。いまもネイティブアメリカンが、核の汚染を完全に取り除いた上での土地の返還を求めている。

 ドキュメンタリー映画「リッチランド」は、このような一筋縄ではいかない町に深く分け入っていく。

 ともするとよそ者は排除されてもおかしくない地に、足を踏み入れたのは、縁もゆかりもなかった女性映画作家のアイリーン・ルスティック。

 なぜ、この地を訪れることになったのか?現地で何を感じ、作品を通して何を伝えようとしたのか?

 彼女に訊く。全五回/第三回

「リッチランド」のアイリーン・ルスティック監督   筆者撮影

リッチランドはアメリカではほとんど知られていないと思います

 前回(第二回はこちら)は、リッチランドを初めて訪れてから数年を経て、本格的に調べてみようと思った経緯について語ってくれたアイリーン・ルスティック監督。

 そもそものところで「リッチランド」とはすごいネーミングの町だと思うのだが、アメリカではよく知られた町なのだろうか?

「残念ながらアメリカではほとんど知られていないと思います。

 わたしも撮影でリッチランドを訪れるまで、正直なところ町の名前をきいたことはありませんでした。

 リッチランドは、第二次世界大戦時に進められた『マンハッタン計画』で、急遽作られた核燃料生産拠点『ハンフォード·サイト』で働く人々のベッドタウンとして生まれました。

 『マンハッタン計画』は極秘裏に進められた計画で、ハンフォード・サイトはプルトニウムの生産拠点となり、そのプルトニウムは長崎に落とされた原子爆弾『ファットマン』に使用されました。

 第二次世界大戦以降も、核燃料生産工場としてアメリカ国家の核開発を推しめる重要拠点となっていました。そして、1987年まで核燃料生産が行われ、アメリカの軍事用プルトニウムの約3分の2がこの場所で生産されたといわれています。

 ですから、広い目でみたとき、世界史においてひじょうに大きな役割を果たした場所であり町だと思います。核兵器について語るときに外せない場所といっていいでしょう。

 でも、『マンハッタン計画』自体が極秘プロジェクトで社会に広く知らされるものではありませんでした。

 リッチランドはその秘密裏の計画のために人工的に作られた町ですから、当然、町の存在もさほど広く知らされることはなかった。

 あと、映画でも触れていますが、『ハンフォード・サイト』は、古くからワナパム族等の先住民族の居住地だった。

 でも、広大な敷地があること、近隣に多くの住民が住む都市がないこと、原子炉冷却に必要な水が豊富なこと、といった条件を満たした土地として、先住民族から奪い、1942年に核燃料生産拠点の建設が決定され、1943年から施設が稼働を開始しました。

 つまり人口の少ない土地で、周囲の目に触れずらい場所だった。そのことも存在が明るみになかなかならなかった理由のひとつにあると思います。

 原子力爆弾開発を目的とする研究所が設立されたニューメキシコ州のロスアラモスや、テネシー州にあるウラン精製工場のオークリッジに比べると、『ハンフォード・サイト』と『リッチランド』は人目に触れることなくここまできてしまった。

 そういういくつかの理由が重なって、あまり知られないできたところがあると思います。

 少なくともわたしは、リッチランドを訪れるまではまったく知りませんでした。

 ハンフォード・サイトもリッチランドも、聞いたこともありませんでした。

 ですから、リッチランドを初めて訪れたときは、作品内に映し出されますけど、あの画一的な町並みに圧倒されましたし、キノコ雲のマークに驚きました」

「リッチランド」より

原爆を生み出した町で暮らす人々のメンタルや記憶というものを丹念に紐解く

 話しを戻すが、リッチランドという共同体をきちんと見つめることで、分断の進むアメリカ社会の現状が見えてくるかもしれないと思ったとのこと。

 まず作品を作る上でなにからとりかかったのだろう。

「リッチランドのような共同体は、アメリカが自らの暴力の歴史をいかに処理してきたのかについて何かしらの示唆を与えてくれるのではないかと考えて、まずはリサーチを始めました。

 ただ、わたしのリサーチはほかとはちょっと違うといいますか。

 ハンフォード・サイトおよびリッチランドをテーマにして何かを発表しようとしたジャーナリストや作家、反核アクティビストはけっこういます。

 でも、彼らのほとんどが目を向けるのは、核兵器産業の真実や国の核開発について。その真実を暴いたり、国の核政策を批判することを目的としたリサーチがほとんどなんです。

 でも、わたしが知りたいのはそういうことではない。

 ハンフォード・サイトおよびリッチランドがどのようにして生まれて、どのようなコミュニティが生まれ、どのような文化や歴史が育まれてきたかを、わたしは探求したかった。

 この地で暮らす人々のメンタルや記憶というものを丹念に紐解くことで、なぜキノコ雲がトレードマークになるのか、核開発が町の誇りになるのか、そういった事の本質が見えてくると考えたんです。

 わたし自身がチャウシェスク政権下のルーマニアを政治亡命者として逃れてきた両親の間に生まれた米国人1世ということもあって、もともとコミュニティの在り方や自身の過去とどう折り合いをつけていくかということに興味がありました。

 初めての長編映画も自分の家族の隠された歴史を5年間かけて掘り起こしたもので。いろいろな人と親密な関係を結び、その人の痛みを伴う歴史と向き合いました。

 以来、映画作家としてのわたしは、人々とその過去の間に繊細に仲介する立場にいようと考えているところがあります。

 ですので、まずは町のことをきちんとリサーチして、リッチランドの人々と辛抱強く向き合って、人間関係をきちんと構築して、コミュニティのリスニングを数年かけて行おうと思いまた」(※第四回に続く)

【「リッチランド」アイリーン・ルスティック監督インタビュー第一回】

【「リッチランド」アイリーン・ルスティック監督インタビュー第二回】

「リッチランド」ポスタービジュアル

「リッチランド」

監督・製作・編集:アイリーン・ルスティック

公式サイト https://richland-movie.com/#

全国順次公開中

筆者撮影の写真以外はすべて(C) 2023 KOMSOMOL FILMS LLC

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3d7e5e8b2e47ec9a02f1fe8979e9aa8a3ad3941a

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