朝日新聞 2011年08月26日
【北の文人 立ち話 高山美香】
■アイヌ民族復興へ一途
アイヌ歌人、違星(いぼし)北斗(滝次郎)は、余市町で漁業を営む父と教育熱心な母との間に誕生。明るく活発な少年でしたが、和人の子供が通う小学校に入るとひどい差別を受けます。理不尽ないじめに、「手当たり次第、物をたたき割って暴れ死にたくなった」というつらい青年時代を送りました。
しかし、ある時、一人の和人教師からアイヌ民族を気遣う優しい言葉をかけられ「こんな人もいるんだ」と考えが一変。北斗は積極的に和人の中に入り、また、アイヌ青年の修養会「茶話笑学会」を結成。俳句も作り始めました。
23歳の時、事務職を得て上京。アイヌ語研究者、金田一京助宅を訪問し、「アイヌ神謡集」を残した知里幸恵の存在を知り衝撃を受けます。東京生活は充実していましたが、自分だけ幸せならいいのかと悩み、アイヌの手で民族復興をと帰郷を決意。民族への思いを短歌にし小樽新聞社に投稿、選者の並木凡平から「心から絞った叫び」と絶賛されます。
薬売りとして道内中のアイヌコタンを巡りアイヌの地位向上を訴えて歩きますが、「昼飯も食はずに夜も尚歩く売れない薬で旅する辛さ」。結局、志半ばで病に倒れてしまいますが、最後まで民族復興を願い歌い続けました。
「世の中は何が何やら知らねども死ぬことだけは確かなりけり」 享年27歳でした。
◇
違星北斗(1902~29)。余市町生まれ。小学校を出て地元で働くが、25年に上京後にアイヌ民族問題に目覚め帰郷。短歌作りを始め同人誌を創刊。薬の行商をしながら創作とアイヌ復興の活動を続けた。死後に遺稿集「コタン」が出された。
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000961108260001
【北の文人 立ち話 高山美香】
■アイヌ民族復興へ一途
アイヌ歌人、違星(いぼし)北斗(滝次郎)は、余市町で漁業を営む父と教育熱心な母との間に誕生。明るく活発な少年でしたが、和人の子供が通う小学校に入るとひどい差別を受けます。理不尽ないじめに、「手当たり次第、物をたたき割って暴れ死にたくなった」というつらい青年時代を送りました。
しかし、ある時、一人の和人教師からアイヌ民族を気遣う優しい言葉をかけられ「こんな人もいるんだ」と考えが一変。北斗は積極的に和人の中に入り、また、アイヌ青年の修養会「茶話笑学会」を結成。俳句も作り始めました。
23歳の時、事務職を得て上京。アイヌ語研究者、金田一京助宅を訪問し、「アイヌ神謡集」を残した知里幸恵の存在を知り衝撃を受けます。東京生活は充実していましたが、自分だけ幸せならいいのかと悩み、アイヌの手で民族復興をと帰郷を決意。民族への思いを短歌にし小樽新聞社に投稿、選者の並木凡平から「心から絞った叫び」と絶賛されます。
薬売りとして道内中のアイヌコタンを巡りアイヌの地位向上を訴えて歩きますが、「昼飯も食はずに夜も尚歩く売れない薬で旅する辛さ」。結局、志半ばで病に倒れてしまいますが、最後まで民族復興を願い歌い続けました。
「世の中は何が何やら知らねども死ぬことだけは確かなりけり」 享年27歳でした。
◇
違星北斗(1902~29)。余市町生まれ。小学校を出て地元で働くが、25年に上京後にアイヌ民族問題に目覚め帰郷。短歌作りを始め同人誌を創刊。薬の行商をしながら創作とアイヌ復興の活動を続けた。死後に遺稿集「コタン」が出された。
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000961108260001