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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌ語の歌や輪踊り楽しいね 千歳の児童館でイベント

2023-01-11 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年1月10日 22:17

輪踊りを楽しむ子どもたち
 【千歳】アイヌ文化に触れるイベントが市内弥生地区のしゅくばい児童館で行われ、小学1~5年の二十数人が千歳アイヌ文化伝承保存会のメンバーの指導でアイヌ語を学び、歌や踊りを楽しんだ。
 児童館の利用者の中にアイヌ文化に興味を持って学んでいる子どもがいることがきっかけで、昨年12月27日に初めて開かれた。
 同会の山田良子さん(千歳アイヌ協会副会長)と上野亜由美さんが講師を務めた。2人はアイヌ語で「イランカラプテ(こんにちは)」とあいさつ。ネズミに扮(ふん)してアイヌ語の歌を歌いながら楽しむゲームと、輪踊りを教えた。
・・・
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/785527

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<拝啓ふるさと 今年もよろしく2023>1 シンガー・ソングライター 瀬川あやかさん(30)=富良野市出身 ライブ 新しい楽曲 着実に

2023-01-11 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年1月10日 18:24

 せがわ・あやか 1992年4月、富良野市生まれ。旭川西高、首都大学東京(現東京都立大)健康福祉学部看護学科卒。2015年看護師国家試験に合格、翌16年6月にシングル「夢日和」でメジャーデビュー。「ふらの観光親善大使」など務める。
 去年は一昨年に比べたら、人を集めてイベントができたり、北海道でもあったので少しずつ戻ってきてるなあと、うれしい場面が多かったです。少しずつ前に進んでよかったなって。でも、強いて言うなら、ライブに関してはもう、わっちゃわっちゃ騒いでライブをしたいです。
 看護師の仕事は、コロナ禍で発熱外来もやっていたし、現在もやっているんですけど、本当にニュース通りで、感染者が増えると忙しくなるし、感染者落ち着くとまたワクチンで人来るっていう感じでした。
 富良野の小学校は扇山で、東中(とんちゅう)(富良野東中)の時はソフトテニス部でした。当時は生協の上のダイソーのところにプリクラがあって、それを撮りに生協に行ったり、「甘太郎」の「ハムたい」をよく食べてました。富良野は年に1度くらいしか帰れないんですけど、新しいお店もどんどんできているなって。みんな落ち込むんじゃなくて、この機会だから改装しておくか、みたいな。知り合いのお店とかきれいになったり、そういうのはすごくいいなと思ってます。
....
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/785371

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アイヌ舞踊 学びたい 帯広の広尾さんに本州から保育士続々

2023-01-11 | アイヌ民族関連
十勝毎日新聞社2023.01.10
 アイヌの古式舞踊を伝承する広尾正さん(75)=帯広市=の元に、昨年から本州の保育士たちの来訪が相次いでいる。いずれも「アイヌの舞踊や歌を広尾さんから学びたい」との思いが強い。保育士の指導時に併せて開かれる市民向け体験会も好評。広尾さんはアイヌ文化の奥深さを伝えつつ、一般の人にもその魅力を知ってもらう活動に取り組んでいる。

広尾さん(左)の指導に耳を傾ける大阪から来帯した保育士たち
 広尾さんは30年ほど前からアイヌ古謡を題材とした音楽劇「オキクルミと悪魔」を、群馬県を主とした関東圏や大阪府、沖縄県などで指導。各地の保育所で園児が劇を演じたり、アイヌの踊りや歌を楽しんでいる。
 コロナ禍で広尾さんと関係者が直接会う機会は減っていたが、昨年6月に群馬から、同8月には東京から広尾さんを慕う人たちが帯広を訪れて指導を受けている。
 7、8の両日には大阪の保育士10人が舞踊や歌を学んだ。約20年前から広尾さんと親交がある上野芝陽だまり保育園(堺市)の神谷亘保育士(48)は、6年ぶりの来帯で「学べば学ぶほど奥が深い」としみじみ。同園の山部聡保育士(41)も「子どもたちはアイヌ文化を知らなくても楽しんで踊る。自然を敬う思いを感じているのかもしれない」と話していた。
 広尾さんと交流がある帯広市内の柴田芳美さん(47)が市民向け体験会を企画。7日は11人が参加し、歌に合わせて豊作を喜ぶ舞踊や棒を使った踊りなどを体験した。市内の松村友香理さん(45)は「アイヌ文化に触れる貴重な機会になった」、長女(5)は「楽しかった」と笑顔を見せていた。
 広尾さんは「本州からわざわざ学びに来てくれることも、市民の方がアイヌ文化に興味を持ってくれることも、両方ありがたい」と喜び、「体が言うことを聞かないので踊りを披露することは難しいが、指導は続けたい」と意欲を語った。
http://kyodoshi.com/article/14323

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アイヌ民族文化伝承者の宇梶さん 絵本を読み聞かせ 白老

2023-01-11 | アイヌ民族関連
苫小牧民報2023/1/10配信
 アイヌ民族文化伝承者の宇梶静江さんは7日、活動拠点とする白老町東町のシマフクロウの家で絵本の読み聞かせを行った。町内から家族9組22人が参加し、静かに耳を傾けた。  町のアイヌ文化振興担当で地域おこし協力隊員、乾藍那さんが初めて企画…
この続き:196文字
ここから先の閲覧は有料です。
https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/96983/

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関根摩耶さん(23歳)― アイヌ民族にもルーツも持つ「伝承者」

2023-01-11 | アイヌ民族関連
ソトコト2023年1月10日(火)11時1分 
楽しさを大切に、アイヌと 日本の未来を見つめる23歳。
2022年春、大学を卒業した関根さんは、大学時代からアイヌ文化・アイヌ語を伝える活動を続けている。活動内容はかなり幅広く、メディアでのアイヌ文化の紹介から、アイヌ語の講師、教育機関でのワークショップの開催、地元・北海道沙流郡二風谷でのアイヌ文化の記録まで行っている。大切にしているのは、楽しむことと、自分、家族、地元に対して素直でいることだ。「私はアイヌにもルーツを持つ人が多い二風谷で育ち、いろんな角度からアイヌ文化に触れ、自分のルーツに誇りを持てるようになりました。だから自分に嘘をつかずにかっこよさを伝え、アイヌだけでなくみんなが無条件に自分を好きになるきっかけをつくりたいんです」と語る。今後やりたいことの一つは、大学院でビジネスを学ぶこと。その理由は、アイヌ自身でお金を稼ぎ、動かす仕組みをもっとつくりたいからだ。アイヌ語のみで運営する保育園の創設も目標にしている。「アイヌの言葉でしか表せない世界観を自然に学び、育った子どもたちが見る社会は全然違うものになります。自分の文化の理解を深めたことが、生きていく糧になると思います」と関根さんは語る。アイヌ語は、ユネスコから「最も消滅の危機に瀕している言葉」と認定されている。「まずは預かり保育から始めます。つないでいけたら鮮やかなのかな」という一言には、強い想いが込められていた。
メディアでのアイヌ文化、 アイヌ語の紹介

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0110/stk_230110_9194293594.html

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【UFC】アルコール中毒から立ち直った王者アレックス・ペレイラが自身のルーツ・パタソ族にチャンピオンベルトを持ち帰る「自分がどこから来たのかを思い出せば、行きたいところに行けるはず」

2023-01-11 | 先住民族関連
GONG1/10(火) 12:22配信

両親のルーツであるパタソ族にベルトを持ち帰った“ポーアタン”ペレイラ
 現UFC世界ミドル級王者のアレックス・ペレイラが、母国ブラジルのパタソ族を訪れ、11月にイスラエル・アデサニヤをTKOで下して獲得したチャンピオンベルトを部族に持ち帰った。
 キックボクシング時代にGLORY OF HEROESでアデサニヤに2度勝利しているペレイラは、2015年10月にアデサニヤを追うようにMMAに転向。デビュー戦でリアネイキドチョークで絞められ、苦い一本負けを喫した後、MMA6連勝。UFC3連勝で王者アデサニヤへの挑戦権を獲得した。
 その前日計量で、ペレイラはパタソ族の羽根飾りとペイントを顔に施し、登場。先住民であるパタソ族を代表してチャンピオンシップに臨む決意を示している。
 入場時にはブラジルのバンド・セパルトゥラがブラジル先住民と共演した「Roots」を意味する『イツサリ』でウォークアウトし、入場口で相手に矢を放つ儀式を行い、オクタゴンに向かった。
 試合は、1R終了間際にアデサニヤの右ストレートと左フックでぐらつき、グラウンドで劣勢になる場面もあったものの、最終5Rにペレイラが左フックを効かせ、追撃のラッシュで逆転のTKO勝ち、35歳でUFC世界ミドル級のベルトを腰に巻いた。
◆貧民街で生まれ、アルコールに溺れた。人生に何の期待も持っていなかった
 サンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポのファベイラ(貧民街)出身のペレイラは、20代前半までアルコール依存症だったことをファブリシオ・ヴェウドムのポッドキャストで明かしている。
「僕は貧民街で育ったから、自分の人生に何の期待も持っていなかった。タイヤ屋に務めながら“いつかバイクを買えるんじゃないか”といつも考えていたし、可能だとも思っていた。“でも、クルマはどうだろう?”と疑っている。“家を持つ? まさか”それは僕にとって現実離れしすぎていた。
 その頃、僕は本当に迷っていて、16歳くらいまで1日に1リットル近く飲んでいた。一種の儀式をしていて、朝からカシャーサ(サトウキビから作られるブラジルのラム酒)を3杯飲むんだ。午前10時、11時、そして正午にもう1杯……ビールが好きだったけど、お金が無かった。それが、あの場所で働くライフスタイルだった。僕は何も知らなかったんだ。
 最近まで、このことを語るのが怖いというか、恥ずかしいというか。でも、今は、それを語る必要性を感じている。だって、どれだけの人がアルコールや薬物の問題で苦しんでいることか。当人だけでなく、その家族も。だから今日、人々は自分がどこで救われるかを知る機会があると思っている。スポーツで。キックボクシングでも、MMAでも、サッカーでも、何でもいいんだ」
 多くの先住民族にとって問題となっているアルコール依存症だが、ペレイラも「止めようと思っても止められず、4回目の挑戦でようやく立ち去ることができた」という。アルコール依存症を改善するために大きく役に立ったのが、格闘技のトレーニングだった。
 21歳のとき、初めてキックボクシングのジムに足を踏み入れた。それは彼の人生を変える決断だった。
「酒を止めなければ目標を達成できないと悟ったんだ。その時、決心して酒を止めた。それ以来、アルコールは一滴も飲んでいない」
 ペレイラは、今でも他人が飲んでいるのを見ると飲みたい衝動に駆られることを認める。しかし、自分は1杯や2杯では止められないことを知っているので、近づかないようにしている。「僕はコントロールできている。中途半端なトレーニングをするためにジムへ行くことはない。ジムに行くなら、一生懸命トレーニングするんだ」
◆「ポー・アタン」は現地の言葉で“石の手”を意味する
 ペレイラが育った地域では、先住民の伝統や遺産はあまり話題には上がらなかった。しかし、彼が初めてキックボクシングのジムに入会したとき、そこは偶然にもブラジル人選手で構成されたチームだった。そこで彼は、自身のルーツと、アイデンティティに初めて向き合うことになった。
「僕は100%生粋のブラジル人だ。ヨーロッパ系ブラジル人でも、アフリカ系ブラジル人でもない。僕の両親は、他の誰よりも早くブラジルに住んでいた先住民の出身なんです」
 ペレイラの父親はブラジル北部の出身で、発展した工業地帯である南部に比べて人口がまばらだった。仕事と生活を求めてサンパウロに移り住み、そこでペレイラの母親と出会った。アレックスは3番目の子供だった。
 GLORYと契約時には、MMAルールで年に2回出場することが許されていた。それはメジャープロモーションではまだ戦えないことを意味していた。5年ぶりのMMAキャンプに向かうとき、米国でグローバー・テイシェイラとの出会いがあった。Jungle Fight3連勝から、UFC登竜門のLFAで左フックで1R KO勝ち。2021年11月、初めてオクタゴンに立った。
 イスラエル・アデサニヤを下した左の拳。その左手の甲には小石のタトゥーが掘れらている。彼のニックネーム「ポー・アタン」(Po Atan)とは現地の言葉で“石の手”を意味する。
 兄の背中を追い、実妹のアリーネ・ペレイラもキックボクサーとして活躍し、GLORYに参戦。2021年にはスーパーバンタム級王者ティファニー・バン・ゾーストに挑戦し判定負けしたが、2022年11月にはLFAフライ級でMMAデビューを果たしている。
 格闘技によりペレイラ家の人生を切り拓き、今回、両親の、そして自身のルーツであるパタソ族に帰還したアレックスに、パタソ族のコミュニティはSNSで、「困難を乗り越えて勝利を収めたことに感謝し、幸せを感じるとき、それは常に神に感謝する多くの理由を与えてくれます。私たちを代表するこの戦士をいつも私たちの居留地に迎えることは、なんと光栄なことでしょう。この神聖な場所にいつでもようこそ」と歓迎。
 ペレイラは「自分がどこから来たのか、それを思い出せば、行きたいところに行けるはずです。欲しいものを手に入れるために、自分がどこから来たかを思い出してください」と記している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/808584d1fc572088e1864e09ebefa1107ca6939f

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シベリアではなぜクマが崇拝されているのか?

2023-01-11 | 先住民族関連
ロシアビヨンド2023年1月09日 ソフィア・ポリャコワ
 シベリアの複数の先住民族は、クマは祖先だと考えており、さまざまな儀礼や祝日、儀式的な狩猟で、クマをなだめながら、クマを崇拝している。
 クマの崇拝は、かつてザバイカル地方とプリアムーリエで一般的であった一種の文化現象である。この文化は今でも、伝統的な生活習慣を守っている少数民族の間でも目にすることができる。
クマは祖先
 シベリアには、エヴェンキ、ハンティ、マンシ、ニヴフ、ウリチなど、多くの先住民族が暮らしている。いくつかの民族は、今でも、それぞれの民族に動物の祖先がいると信じている。そしてその動物は、生を与えてくれただけでなく、人生を通じて、共に生きていると考えられている。概して、そうして崇拝されているのは、その地域に生息している動物で、人々は、さまざまな状況において、その動物のおかげで「生き抜く」ことができていると考えている。そんな動物の一つがクマである。いくつかの小集団の中で今も守られている伝統の中に、クマへの崇拝に関係するものがたくさんある。

ニヴフ人の定期的なクマの祭り、サハリン州、1970年
Chernysh/Sputnik
 たとえば、東シベリアの先住民族であるエヴェンキ人の一部の間で、クマは「アミカン」(おじいさん)、「アマクチ」(ひいおじいさん)、「アミ」(お父さん)など、家族の呼び名で呼ばれている。エヴェンキ人の主な営みは狩猟で、冬になると人々は村を離れ、遠く離れたタイガに向かう。クマは聖なるものとされているが、それでも、効能を持つ価値ある脂肪が取れるクマは、彼らの標的の一つとなる。
 エヴェンキ人の間で、1人の狩猟者が捕獲できるクマの数は限られており、その数を超えた場合にはあの世からの罰を受け、自分自身で命を絶つ。そこで、動物を殺すプロセスは、儀式的な様相を呈している。狩猟者は動物に謝罪し、なぜ狩りを始めたのか説明する。肉は埋めることもあれば、食べることもある。クマ狩りの後、一種の埋葬のようなものを執り行う。クマが殺されるまでに歩いていた方向にある特別な木の箱に骨と頭部を入れるのである。エヴェンキ人は、そうすることで、殺された動物の魂が彷徨うことはないと信じているという。
 そしてその後、「タカミン」(クマを騙すという意味)と呼ばれる儀式を行う。狩猟に参加した全員が、殺したクマの肉を分けて食べ、クマを殺した狩猟者の幸運と健康、トナカイ猟の成功を祈る。そして狩猟者は最後にクマの肉を食べ、自身の移動式住居にきれいに切りとった動物の目を吊るす。
 一方、ブリャート人の間でもクマは崇拝されている。エヴェンキ人と同様、ブリャート人もまたクマを「家族の一員」と捉え、「ババガイ」、つまり高齢の親戚に対する呼称で呼ぶ。ブリャートのフォークロアには、クマのルーツに関する神話が2つある。1つは、狩猟者が自ら、周りの人々の嫉妬と悪意から、クマに姿を変えたというもの。2つ目は、人間のよくない態度―貪欲さ、残忍さ、嘲など―のためにクマに変えられたというものである。シャーマニズムとトーテミズムの融合により、ブリャート人には、クマも誰よりも強いシャーマンだという信仰が生まれた。
クマの祭り
 クマの崇拝がもっともよく表れているのが、クマのお祭りである。それぞれの民族にそのルーツに関する伝説がある。たとえば、エヴェンキ人の場合は次のような説である。森に行った若い女性がクマの巣穴に入り込んでしまい、そこで冬を越した。春になり、家に帰った後、女性は子熊を産み、息子のように可愛がった。しばらくして、結婚した女性は、男の子を産んだが、その後、兄弟が大きくなり、力くらべをしたところ、男の子がクマを殺してしまった。そのとき、クマは息絶え絶えに、弟に、クマを狩るにはどうすべきか、そしてどのように埋葬すべきかを伝えた・・・。
 伝説はさまざまであるが、どの説にも共通しているのは、クマはある人を選んで、その狩猟の聖なる意味、そして仲間である動物に対する正しい態度について伝えたということである。
 いくつかの民族のお祭りは、クマの狩猟がうまくいった際に行われるが、1月か2月に定期的に行われているところもある。クマの狩猟に合わせて行われる場合、重要なイベントとなるのは食事である。殺したクマの肉は、夜中に、祭りの最初から最後まで食べる。しかも、狩猟者の親戚の1人がクマの力、知恵、習慣を身につけるため、生肉を食べた。食事の間に輪舞を踊り、歌をうたい、ゲームをした。
 一方、定期的に行われるお祭りの方は、狩猟とはまったく関係がない。ときに、祭りは、亡くなって、その魂がクマに乗り移ったとされるある家族のための追悼式のような形で行われたり、部族で感謝を伝え、魂をなだめる儀式的な形式のこともあった。
 森で子熊を見つけてきて、3年間、檻で飼い、主婦は小さな子熊に乳をやったりし、息子と名付けた。その3年の間、主人は家の精霊にワインを捧げ、2度と閉じ込めたりしないと言って謝罪した。その後、客人とともに、檻に近づき、ご馳走を与え、檻から出して、家々をまわった。各家の主婦たちもクマにご馳走を与え、家に幸福をもたらしてくれるよう祈った。
 その後、特別に用意された場所で、クマを殺し、清め、頭部と皮は煙突から家の中に運んだ。下拵えをした後、夕食を始める。煮たクマ肉を、クマの絵がついたおたまで鍋からすくって、特別な木の器に入れて食べた。食事の後、骨を集め、主婦たちにプレゼントと一緒に配った。祭りの終わりの前には、長老たちがクマの頭蓋骨と共に朝まで座り、クマの頭と会話をした。
https://jp.rbth.com/arts/86982-siberia-de-naze-kuma-ga-suuhai-sarete-iru-ka

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天才建築家ルイス・バラガンの魂宿るレストラン「テテトラン」とは(メキシコ)

2023-01-11 | 先住民族関連
サライ1/10(火) 17:00配信

ごつごつとした岩壁が特徴的な店の入口
文・写真/北かえ(海外書き人クラブ/メキシコ在住ライター)
メキシコシティ南部の静かな住宅街に、テテトランという名のレストランがある。
なかへ足を踏み入れると、迎えてくれるのはむき出しの岩壁と温もりある木製家具、そしてガラスの床越しに見えるダイナミックな溶岩。ばらばらに見えるひとつひとつがうまく溶けあい、絶妙に居心地の良い“大人の秘密基地”を作り上げている。
そんなテテトランの誕生には、実はある天才建築家が深く関わっていた。建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞した唯一のメキシコ人建築家、ルイス・バラガン。彼とこの店の間には一体どんな物語があったのだろうか。
溶岩地帯の“発見”
時はいまからおよそ2,500年前、メキシコシティ南部にあるシトレ火山の噴火に遡る。ナワトル語(※)の“シクトリ”(「おへそ」の意)から名づけられたこの火山は、噴火によって周辺を一面の溶岩地帯に様変わりさせた。農業に不向きとなった土壌は、長い間「人が暮らせない場所」として放置されることとなる。
(※アステカ帝国で使われ、現在も北アメリカ大陸最多の話者がいる先住民族語)
しかし時は流れ1940年代になると、この溶岩地帯は意外な人々から注目を集める。きっかけは大学の建設だった。土木工学の発展により、これまで開発が困難と思われていた溶岩地帯に、メキシコ国立自治大学(UNAM)のメインキャンパスが作られることになったのだ。大学建設計画が始動して以降、溶岩地帯のユニークな土壌は芸術家たちの注目の的となった。彼らは“エル・ペドレガル”(「岩石で覆われた場所」)と名づけられたこの地域の景観に強烈な個性を感じ、その魅力を街という形で表現したいと考えた。
リベラとバラガン
ペドレガル地区の開発を唱える芸術家は多くいたが、なかでもその中心にいたのが、メキシコを代表する画家ディエゴ・リベラだった。
彼は友人の建築家ルイス・バラガンを開発計画へと引き入れるため、ペドレガル地区へと招く。リベラに誘われこの地を訪れたバラガンは、数日後にこんな言葉を残したと記録されている。
「火山が生み出した遥か昔から続く美しい風景に心を揺さぶられた。メキシコシティの南部に広がった広大な溶岩地帯に、その素晴らしい環境を損なうことなく、庭園、広場、公園、住居を作ろうと決めた」
自然と結びついた街を目指して
バラガンをはじめプロジェクトに関わった芸術家たちは「火山風景や自然と現代建築を結びつける」という共通のビジョンを掲げていた。ビジョンは具体化され、リベラによって『ペドレガル地区開発の要件』と題した文書にまとめられた。
かくして、ペドレガル地区の宅地開発はこの要件書を“道しるべ”に始動する。道路は溶岩の流れに沿うよう区画整理され、「溶岩」「断崖」「尖峰」「水」「雨」「火」など火山や自然を想起させる名が割り当てられた。住宅には必ず、溶岩地帯特有の自然を生かした広大な庭が設計された。
一軒目の住宅は1950年に完成した。続いて建てられた数軒の個人宅のうち一軒は、当時新居を希望していた友人のため、バラガンが設計したものだった。完成した邸宅は友人の名にちなんで“カサ・プリエト”(プリエトの家)と呼ばれ、一家は60年間そこに暮らした。
街の救出に立ち上がった男
しかし、時代の変化とともにペドレガル地区は当初のビジョンから離れていく。彼らが建てた多くの住宅は取り壊され、代わりにマンションや学校が作られた。カサ・プリエトのように残った家もあったが、内装や庭の造りは住人らの手によって当初のデザインから大きく変えられていった。ペドレガル地区は「どこにでもある普通の住宅地」になっていったのだ。
そんな状況を憂慮し立ち上がったのが、セザル・セルバンテスだった。ペドレガル地区で生まれ育ち、アートコレクターとして世界中の芸術品を収集していた彼は、徐々に自らが育った地の退廃を感じるようになった。そんななか、2013年にプリエト家が自宅を売りに出すとを知った彼は、「かつてここにあったものを、現代の人々に知ってもらいたい」と40代半ばで所有していたすべてのアート作品を売却しカサ・プリエトを購入した。
新しい文化の中心地“テテトラン”
セルバンテスはカサ・プリエトをバラガンが作った当初の状態に可能な限り戻そうとしたが、「人々が集える場所をつくりたい」という願いから、馬小屋だけは大幅に改装し、レストラン「テテトラン」として生まれ変わらせた。バラガンに対する敬意が随所に表された店内は、まるで二人の共同作品のように見える。
テテトランは今年オープン5周年を迎えた。地区出身アーティストの作品販売、オーガニック野菜の定期市やヨガクラスなども積極的に行う店には、セルバンテスの願い通り日々多くの人が集い、忘れられかけていたペドレガル地区にも再び注目が集まっている。
2,500年前の火山噴火にはじまった物語は、まだ終わっていない。時代を超えて紡ぎ手から紡ぎ手へと引き継がれ、熱く静かにこれからも人々を魅了し続けていくだろう。
Tetetlan
住所:Calle Las Fuentes Jardines Del Pedregal 180, 01900 CDMX
文・写真/北かえ(メキシコ在住ライター)
標高2250mのメキシコシティ在住ライター。日本のメディアでインタビュー記事やメキシコを題材にしたコラムを執筆。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員。
https://news.yahoo.co.jp/articles/962b89e28471f514471c2c97949b2998f9b9f015

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